■ドイツ車は中国に賭け、日本車は逃げた
2020年、中国政府が不動産の過熱を抑えようと規制を強めた結果、大手デベロッパーが次々と経営破綻に追い込まれた。バブル崩壊から約5年、住宅価格はいまも下がり続けている。住宅価格の下落やデベロッパーの債務問題は、建設業だけの不況にとどまらず、地方財政、家計消費、若年層雇用、外資企業の投資判断にまで影を落としている。
中国国家統計局の集計によれば、5月の小売売上高は前年同月比0.6%減と、2022年12月以来初めて減少した。1~5月の不動産投資も16.2%減と落ち込みが続く。
中国への資本の入り方も変わった。中国商務省のデータでは、2025年の対中外国直接投資(FDI)は前年比9.5%減の7477億元にとどまった。
かつて中国は、多少の政治リスクを抱えても入り込む価値のある巨大市場だった。いまは市場の大きさそのものが、供給網、技術、資本を一つの政治空間に縛りつけるリスクにもなっている。
巨大な中国市場に深く入り込んだ企業と、中国以外でも作り、調達し、撤収できる余地を残した企業のどちらが、経済安全保障の時代に企業価値を守ったのか。答えは後者だ。
中国バブル崩壊後の5年は、その転換を日本企業とドイツ企業の差として浮かび上がらせた。
三菱自動車やキヤノンは、中国での生産や利益の出にくくなった事業を縮小し、損失が膨らむ前に手を打った。ソニーやホンダも、中国への一極集中を避ける生産体制の見直しに動いた。
対照的に、フォルクスワーゲン、BMW、ポルシェといったドイツ車メーカー、世界最大手の総合化学メーカーBASなど、中国で成功してきたドイツ勢は、中国市場との深い結びつきがかえって身動きの取れなさに変わりつつある。
明暗を分けたのは、中国市場を好きか嫌いかではない。技術や人材、資本、供給網が中国に縛られる前に動けたかどうかである。
■三菱自動車の「撤退」は正解だ
三菱自動車は中国で勝ち切れなかった。中国の自動車市場では、電気自動車(EV)とソフトウエアを武器にした中国勢が急速に台頭し、外資のガソリン車モデルは陳腐化した。三菱自動車が苦しんだのは、市場変化への対応が遅れたからでもある。
それでも、撤退を決めたことには経済安全保障上の意味がある。2023年10月24日に公表された三菱自動車の資料によれば、同社は中国における三菱ブランド車両の現地生産を終了し、合弁会社・広汽三菱の株式を中国側パートナーに譲り渡し、工場はEVブランド「Aion」の生産に転用させるとした。
経営には、勝つための投資だけでなく、負けを固定化しない撤収もある。売れない工場を中国に持ち続ければ、資金も人材も部品の調達先も中国に縛られる。EV化が進んで中国側の発言力が増すほど、日本企業は合弁会社の中で自由に判断しにくくなる。
三菱自動車は泥沼化する前に生産リスクを切断した。撤退後もアフターサービスは続ける。市場との関係を完全に断つのではなく、自社の資本と生産機能が拘束される部分を外す。この線引きが、経済安全保障の実務である。
■「24年間で1億台を作った工場」を閉じた理由
キヤノンの事例は、経済安全保障の議論を自動車から精密機器へ広げる。2025年12月2日に更新されたChina Dailyの記事によれば、キヤノンは広東省中山市のプリンター工場を2025年11月21日付で閉鎖した。工場は2001年設立で、24年にわたりレーザープリンターを生産してきた。2022年4月時点で累計1億1000万台のレーザープリンターを生産した主要拠点だった。
同記事によれば、キヤノンは中国の他の生産拠点は通常通り操業していると説明している。ここで起きているのは中国事業の全面撤退ではなく、成熟した量産拠点の見直しである。
中国で大量生産すれば安全に稼げるという前提は崩れた。市場調査会社IDCのデータとして、同記事は中国のレーザープリンター市場でキヤノンのシェアが2018年の7.7%から2025年1~9月期には3.9%へ低下し、中国ブランドの合計シェアが41.5%に上がったと伝えた。成熟した量産品は、中国で作っても中国企業に追い上げられる。価格競争が強まるほど工場は利益を生む資産ではなく、撤退費用を伴う固定資産に変わる。
一方でキヤノンは、資源を高付加価値分野へ移している。2026年1月29日に公表されたキヤノンの2025年12月期決算説明資料によれば、年間売上高は4兆6247億円で2年連続の過去最高となった。
レーザープリンターは減収だったが、メディカル、ネットワークカメラ、半導体製造装置などが伸び、2026年はメディカル、インダストリアル、ネットワークカメラへの成長投資を重視するとしている。中国の成熟量産から、医療、半導体装置、監視・安全技術へ資本を移す。これは技術と供給網の主導権を取り戻す経営でもある。
■「逃げ場のある自動車」だけが生き残る
ソニーも同じ線上にある。
ロックダウン、輸出管理、外交摩擦で物流が詰まったとき、企業を守るのは別の供給路である。中国で取引を続けながらも、中国以外で作れる体制を持つ。ソニーの移管は、コスト削減だけでなく、その「作れる自由」を残す判断だった。
ホンダも同じ構図だ。ロイター(2026年4月17日付)によれば、同社は中国のガソリン車工場4拠点のうち1拠点を休止し、もう1拠点も休止を検討している。2工場を休止すれば、ガソリン車の年産能力は96万台から48万台に半減し、EV工場を含めた中国全体の能力も120万台から72万台に減る。2025年の中国販売は前年比24%減の約64万台で、ピークの160万台の4割にとどまった。
この縮小を「日本勢の敗北」とだけ見ると、経済安全保障の本質を見誤る。売れない市場に工場を固定し続ければ、次の投資余力が削られる。縮小は守りであると同時に、資本と技術者を次の安全な拠点へ逃がす攻めの一手でもある。
■「中国で稼ぎすぎた」ドイツ車の落とし穴
日本企業が中国依存を下げる一方、ドイツ企業はこれまで中国で成功しすぎた。
フォルクスワーゲン、BMW、ポルシェ、BASFにとって、中国は単なる販売先ではなく、成長計画の前提だった。だから前提が壊れると、損益だけでなく産業戦略そのものが揺れる。ドイツ政府は対中「デリスキング」を掲げてきたが、企業の投資残高と現場の雇用は簡単には減らない。成功体験は、時に最も重い足かせになる。
BMWは中国・瀋陽の生産拠点に200億元、当時のドル換算で27億6000万ドルを追加投資し、累計投資額は約1050億元になると、ロイターが2024年4月27日に報じた。2026年からEV専用ライン「Neue Klasse」を生産するためだ。合理的な成長投資ではある。だが同時に、中国市場の制度、需要、部品網にさらに深く資本を投じる判断でもある。
BASFはもっと象徴的だ。同社は広東省湛江の化学コンプレックスに約90億ユーロを投じ、2028年までに完成させる計画を進めている(ロイター 2026年3月21日)。中国は世界の化学品市場の約半分を占める一方、BASFの世界売り上げに占める中国の比率は14%。
需要が伸びれば果実は大きい。しかし経済安全保障では、投資が大きいほど撤退の自由は小さくなる。供給網の強さとは、巨大な拠点を増やすことではない。どこかが止まっても別のルートで回せる構造を持つことだ。
■技術の主導権を中国EVに握られた
ドイツ自動車産業の揺らぎは、フォルクスワーゲンに集約される。同社の2025年営業利益は89億ユーロへ半減し、ドイツでは2030年までに約5万人の人員削減を見込む。中国では2024年に比亜迪(BYD)に首位を奪われ、2025年には吉利汽車にも抜かれて3位に転落した。これらの業績悪化と人員削減計画はロイターが2026年3月10日に詳報している。
ロイター(2026年1月12日付)によれば、フォルクスワーゲンの中国小売りシェアは2024年の12.2%から2025年に10.9%へ後退した。代わって首位はBYDの14.7%、2位は吉利の11%。中国市場のメーカー別勢力図そのものが入れ替わった。
中国乗用車市場信息聯席会(CPCA)の集計では、5月の乗用車販売は前年同月比22.3%減の153万台と8カ月連続で減少した。市場全体が冷え、同時に中国勢が強くなる。外資にとって最も厳しい組み合わせである。
ドイツ勢の苦しさは、販売減に加え、産業主導権の移転にも及んでいる。車の価値がエンジンやブランドから、電池やソフトウエア、車載AIへ移るほど、中国で開発し、中国企業と組む必要が増える。販売市場だった中国が、技術標準と製品設計を左右する場所になる。販売競争の激化が、そのまま技術と供給網の主導権争いに直結している。
さらに皮肉なのは、フォルクスワーゲン自身が中国勢の力を必要とし始めていることだ。中国で開発した車を欧州に持ち込むことや、中国パートナーと欧州の生産能力を共有する可能性に同社のオリヴァー・ブルーメCEOが言及したと、ロイターが2026年4月30日に伝えた。
英フィナンシャル・タイムズは、中国EV新興の小鵬汽車(Xpeng)が欧州工場取得をめぐりフォルクスワーゲンなどと協議していると報じた。かつて中国で稼いだドイツの工場が、中国メーカーの欧州進出の足場になるかもしれない。産業主導権が逆流している。
■自動車工場を止めるのは「不況」ではない
中国経済の停滞は、人口動態、過剰債務、米中対立、中国企業の競争力向上など複数の要因が重なった結果である。だが、習近平政権による政策の判断ミスが企業の投資意欲を冷え込ませたのは間違いない。
ロイター(2026年1月29日付)によれば、中国政府は2020年に導入した不動産会社向けの借入規制「三条紅線」(3つのレッドライン)を事実上撤回した。同政策は2021年半ばから不動産危機を引き起こし、多くの開発会社が債務不履行に陥った経緯がある。過熱を抑える狙いだったが、経済成長を支えてきた柱そのものを傷めた格好だ。
ゼロコロナも消費、物流、生産を同時に傷つけた。2022年春の上海ロックダウンを境に、中国の小売りと工場活動は急減し、サプライチェーンは深刻に混乱した。
■米企業による「投資不可能」という烙印
規制強化の打撃も無視できない。2020年11月にアント・グループの370億ドル規模の上場が中止され、2021年4月にはアリババに27億5000万ドルの独占禁止法違反制裁金が科された。これら一連の引き締めで、中国大手企業の時価総額は大きく毀損した。経緯はロイターが2021年9月16日付の記事にまとめている。
米商務長官のジーナ・レモンド(当時)が2023年8月の北京訪問で米企業から「投資不可能」との訴えを聞いたと公言し、調査会社への家宅捜索や反スパイ法の運用への懸念を背景に名指ししたと、ロイターが2023年8月30日に伝えた。外資が恐れるのは不況そのものより、自社では制御できない政策変更である。
内閣府の経済安全保障推進法に関する公開資料は、半導体、蓄電池、重要鉱物などを特定重要物資に指定し、安定供給の確保を支援すると説明している。中国も同じ論理で重要物資を政治カード化する。
中国商務部は2026年2月24日、日本の20団体への軍民両用品輸出を禁止し、別の20団体を監視リストに加えると公表した。ビジネスと安全保障の境目は、もうなくなった。企業は中国事業を「いくら儲かるか」だけでなく、「止まったとき代わりが利くか」で見直す必要がある。
■日本車を守ったのは「逃げる勇気」だった
ポルシェの数字は、中国依存の危うさを象徴する。ポルシェAGが2026年3月11日に公表した2025年通期決算によれば、売上高は362億7000万ユーロ、営業利益は4億1300万ユーロにとどまり、営業利益率は2024年の14.1%から1.1%へ急落した。
ポルシェは中国の高級車市場が難しく、EVを中心に価格競争が続いているとも説明している。高級車ブランドでさえ、中国の消費不振と価格競争から自由ではない。
中国で稼ぐ余地が消えたわけではない。人口規模、製造基盤、技術者層、消費市場はいまも巨大だ。BMWやBASFが投資を続ける判断にも合理性はある。だが、巨大であることと、安全に稼げることは別である。
平時の効率だけを追えば、生産は安い場所へ集中する。有事の強さは、非効率に見える余白から生まれる。複数拠点、複数調達、複数市場を持つ企業ほど、政治の揺れを事業停止に直結させずに済む。企業に必要なのは単純な「脱中国」ではない。中国に依存しきらないまま中国と向き合う、脱・中国一本足である。
三菱自動車は中国での生産を手放し、キヤノンは成熟したレーザープリンター量産から成長分野へ資源を移した。ソニーは中国以外で作れる体制を広げ、ホンダは中国能力の圧縮へ動く。これらは弱気の撤退ではない。自社の技術、人材、資本、供給網を一つの政治市場に人質として差し出さないための判断である。
「中国に残る勇気」より、「中国に縛られない設計」が企業を守る。習近平政権の政策運営によって、不動産、消費、民間企業、外資の心理が同時に冷えた現在、中国から早く逃げた判断は正しかった。経済安全保障の時代における企業の勝敗は、どれだけ売ったかだけで決まらない。危険な依存を、どれだけ早く切れるかで決まる。
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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)
戦略コンサルタント
DiploSight / NovaPillar Advisory LLC, Strategic Consultant.博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan–Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。
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(戦略コンサルタント 伊藤 隆太)

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