親の介護を主に担う子供と、傍観するだけの子供。時にはきょうだい双方で罵り合いに発展することもある。
現在88歳の認知症の母親を実家で介護をする63歳の娘はそれだけでも疲労困憊だが、身内に足を引っ張られ心身とも削られている。それでも自分自身が楽しむ時間を作り、悔いなく親孝行をするつもりだ。その覚悟と意地はどこから生まれたのか――。(後編/全2回)
前編のあらすじ】結婚した2年後に2歳の長女を連れて離婚。同じ年に4歳年上の住宅設備の会社に勤める男性と再婚し、実家から車で2時間半ほどの田舎で暮らしを始め、翌年女児に恵まれた。それから20年ほど経った2015年。78歳の母親が買い物帰りに自転車で転び、脚を骨折。人工股関節置換手術などを受けると、引きこもりのようになってしまう。すると翌年、母親から届くLINEの文字変換や文章がおかしくなり、認知症の症状が出た。母親は左大腿骨も関節置換手術を受けることに。実家に住み込み、手術を待つ間、車椅子になった母親をサポートすることにした――。
■左大腿骨の人工股関節置換手術
突然足が痛いと言いだした認知症の母親(79歳)は関節置換手術を受けることになった。
手術を待つ間、長女の増井十和さん(仮名)は母親を脳神経外来へ連れて行った。
脳神経外来で記憶力のテストやCTスキャンをすると、「脳の血管に詰まりがある」と言われ、血液をサラサラにする薬を出された。念のため、別の病院へ行くと、今度はアルツハイマー型認知症の進行を遅らせるという貼り薬と漢方薬を出された。
「母の認知症の診断名は、何もはっきりとは言われませんでした。言っても仕方がないことでしょうし、何となく聞くこともできず、一般的な貼り薬を処方されただけでした。テレビや雑誌にもよく登場する有名な脳外の先生なのにがっかりしました。待合室では、TVに出た時の録画映像が繰り返し流れ、著書がカウンターにずらりと並んでいました」
2016年10月。母親は左大腿骨の人工股関節置換手術を受けた。
「私が見ていた感じだと、他の方はすぐに松葉杖で歩く練習をして、3週間ほどで歩いて退院していかれるのですが、母はなかなか歩けるようにはならず、退院後は必死でリハビリをさせました。まだ79歳でしたので、元気になってほしかったのです」
それと並行して、デイサービスに通い始める。再度、要介護認定調査を受け、母親は要介護1になっていた。
「認知力低下を防ぐ意味もあり、人と接したほうがよいし、入浴のためにも、デイサービスへ行くことにしました。
しかし飽きたのか、1年くらいで『やめたい』と言われました」
それでも、その頃には足腰も丈夫になり、杖と増井さんの手があればゆっくりと歩けるようになっており、入浴も増井さんひとりの介助があればできるようになっていた。
■兄と夫の大喧嘩
2021年。兄が60歳になり、定年退職した。
そのあたりから、幼少時から険悪だった兄との関係性がさらに悪化していく。
「定年になり、こちらに目が行くようになったからか、関係が悪化しました。もしかしたら、夫が兄と電話で揉めたことが原因かもしれません」
夫と兄が揉めていたというのは、以下のような顛末だ。
兄が定年退職してしばらくした頃、夫に増井さんの長女が「伯父さん(増井さんの兄)がアレをやれ、コレをやれ、とお祖母ちゃんの介護の指図をしてきて大変なんだ」と話した。
すると夫は、増井さんが知らない間に兄に電話をし、
「お前なんなんだ? 息子ならうちの娘に指図してないで自分でやれよ!」
と怒鳴ったのだ。
突然怒鳴られた兄はビックリしたようだったが、負けじと言い返し、大喧嘩になってしまったという。
「それまでは、義理の兄弟として当たり障りのないやり取りしかしたことがなかったのに、私も突然のことで驚きました。互いに何がそんなに逆鱗に触れたのか謎です。兄としては、祖母の家に来た姪に手伝いを頼むのは全然不自然なことではないと思いましたし、長女も、不満があったとしても、わざわざ夫にそんなことを言わなければよかったのに……と思いました」
このことが原因かどうかは分からないが、次々に事件が起こる。

■家を追い出される
兄が働いていた頃は、増井さんが実家に住み込む形で母親を介護することには、兄は無関心だった。
それにもかかわらず、定年した途端、突然「保険証や診察券、介護証を出せ」と増井さんにすごみ、出すとその場で奪って、「これからは俺が主導で介護する!」と言われた。
「話し合いも何もありませんでした。その頃から、私が実家にいると、実家には来なくなり、徹底して避けられるようになりました。話しかけても、ひと言も返事をしてくれません。中学生くらいの頃からなぜか私のことは嫌っていたようでしたが、定年までは少し話せるようになってきていたのに、わけがわかりません」
いつしか、増井さんが母親、兄が父親の世話という暗黙の割り振りができていた。
そんなひどい扱いに耐えていた増井さんだったが、2023年5月のこと。実家に行くと、兄が父親の布団をどこかへ持って行こうとしているところに遭遇してしまい、思わず
「そんな汚い布団、外へ持って行って!」
と不躾に声をかけてしまう。
「父は、秋から5月まで一度も布団を干していなかったからです。私は昔から変わり者の父と兄を必要以上に興奮させないように気遣いながら、なんとか実家に住み込んで母の介護をしていました。でも、家の中で鉢合わせになった時、触れないようにしていた私の中の爆弾が破裂してしまった感じです」
兄は、嫌っている妹に指図されて激昂した。
「出ていけー!」
大声で怒鳴り、顔を歪めて激しく怒り狂う。

「私ももう、我慢の限界でした。父は、毎日朝昼晩、台所に居座って、ノロノロ食事の準備をするし、食べている時間が長く、私とどうしてもかぶってしまうため、私がやることを観察しては気に障ることばかり言ってきました。私は無視を決めていましたが、父に対しても我慢の限界でした。トイレや風呂も、口の悪い父と共同であることが嫌になっていました。本当に、なんで我が家はこんなにチグハグで、私はバカなことで悩まなければいけないのか。助けに来てるのに、情けなく、つらい毎日でした。父なんて『早く死んでほしい』とさえ思いました」
すぐに増井さんは、夫に相談し、実家の近くにアパートを探した。必要なものを購入し、長女とともに自宅から運び込んだ。アパートの家賃は夫が出してくれた。
「お金も無駄だし、荷物の搬送も大変だし、そうかと言って母の介護を投げ出すことできず、悩みました。お金がかかっても、静かな環境で暮らしたいと思いました。その後のことは考える余裕はありませんでした。
今より少し若かったのでできたと思います」
増井さんは、アパートから通いで母親の介護をしようと考えたが、しばらくは実家に行く気になれなかった。
■一人暮らしを満喫
アパート暮らしを始めた増井さんは、「私がいなくなったことで、少しは私のありがたみがわかるだろう。兄を困らせてやろう」と思い、しばらく実家に行かなかった。
自分の楽しみを作ろうとジムに通い始め、夫とスポーツのイベントに参加したり、夫と長女と三人で旅行を楽しんだりした。
「これも、子育ても終わり、気楽な身だからこそできる体験だと思い、悔しいながらも前向きに考えていました。実家より夫も泊まりやすくなり、ちょこちょこ来てくれるようになってうれしかったです。長女も家事などを協力してくれました」
兄の激昂事件から4カ月ほど経った2023年9月、増井さんは再び実家を訪れた。しばらくぶりの実家では、母親は1日2食、宅配弁当を食べていた。
「たぶん不自由していたと思いますが、兄や父は意地でも折れるようなことは言わない人たち。母の姿を見ていたら、『兄や父が何と言おうと、私は私の後悔のないようにやり切ろう!』と、揺れていた心が決まりました」
増井さんは、事件の前は母親につきっきりだったが、事件の後は朝2時間だけ実家へ行き、栄養バランスを考えた朝食を作り、母親に食べさせ、あとは自分の時間に充てることにした。
「楽しいばかりではないですが、マラソンをやり出したり、料理教室に通ったり、人生最後のチャレンジだと思い、働いてみたかったレストランやパン屋などで前向きに働き、アパート代を自分で払い始めました」
ジムの楽しさを知った増井さんは、リハビリに特化したデイケアを探し、母親に勧めた。見学に行くと、すっかり気に入った様子で、すぐに通い始めることになった。

■父親の死と母親の救急搬送
2025年8月末。2023年末から老人ホームに入所していた94歳の父親が亡くなった。心不全だった。
「2週間くらい前まで、ホームから自宅に週1で帰ってきていたのに、入所から1年半くらいで突然亡くなりました。亡くなった朝、4時半頃に物音がしたので、『あれ?』と思ったのですが、その時が病院に呼ばれた兄夫婦が帰ってきた時だったようです。兄が(父の介護の)キーパーソンでしたし、父の遺体は即、病院から葬儀屋さんに運んだようで、私は何も聞いていません。だからその日も予約していた料理教室に出かけて、父と対面したのはお通夜の時でした」
父親の葬儀から2日後、母親は動脈瘤から2度目の動脈乖離を起こし、救急搬送。
「1年前にも動脈乖離を起こして手術をして、以降、経過を診てもらっている心臓と血管の専門病院は満室で、家から40分かかる総合病院へ運ばれました。母は87歳と高齢ではありますが、あまりにも突然でした。しかもまだ父の葬儀の花も枯れないうちです。兄、私、弟のきょうだい3人と、私の長女と、90歳の母親の姉は、祈るような気持ちで病院へ詰めていました」
救急搬送された病院で、母親は「余命2週間」と宣告され、2日後、経過を診てもらっている心臓と血管の専門病院に転院してカテーテル手術を受ける。その後は集中治療室に入った。
「転院先の専門医は穏やかに、『今回は家に帰れそうですよ。しかし、1年はもちません』と図を描いて説明して下さいました。とりあえずは最悪な事態を免れて、医師を拝みたい気持ちになりました」
母親は4日間の絶食、安静期間を経過し、ひとまずヤマ場は過ぎたようだ。幸い動脈乖離もいったん塞がり、普通に話もできるように。3週間後には退院することができた。
■おかしな兄妹
現在63歳の増井さんは、実家に住み込みで88歳の母親の介護をしている。
「母が2度目の動脈乖離で緊急入院したとき、問題の兄が、『実家に住んでもよい』と言いました。正しくは、『戻ってきて母の世話をしてほしい』だと思うのですがね……」
母親は要介護2。一日中ソファに座ったまま生活しており、3食そのソファで食べている。
朝晩はトイレ介助、毎食後に入歯介助(外す・洗う・保管・装着)が必要で、移動は歩行器。紙パンツを使用しているが、週に1回ほどシーツや衣類に漏らすことがある。
「母は、緩やかに悪くなっています。いつまた動脈瘤破裂が起こってもおかしくない状況だと言われました。その事だけでも心が苦しいのに、兄の態度は本当に精神を蝕みます。気にしないようにしていても塞ぎ込む日々です」
実家の隣に住んでいる65歳の兄は、相変わらず増井さんを無視し、時には聞こえるようにわざと嫌味を言う。認知症が進んでいる母親は、増井さんをかばうどころか、時には兄と一緒になって嫌味を並べることもある。
「母は昔から異様なほどに兄びいきの人ですが、優しい母の時もありました。私は、母の介護を投げ出すことはできません。自分がどうしたいのかを十分考えて、やるべきことを後悔のないようにしようと決めました。外野のハエがうるさいですが、私は絶対に負けません。自分がやるべきことをして去ります。母が亡くなってこの家を出たら、私は二度とここには来ないつもりです」
筆者は、介護は介護される側ではなく、介護する側が納得いくようにすればよいと考える。なぜなら、介護する側の人生は、介護される側が亡くなった後も続いていくからだ。
介護に全時間・全労力を投げ打つのではなく、自分の時間や家族の時間も大切にしながら、ぜひ悔いのない介護をやり遂げてほしい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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