縄文時代の人々はどのように過ごしていたのだろうか。歴史学者の武光誠さんは「平和な時代とされてきた縄文時代だが、2022年に北海道伊達市の有珠モシリ遺跡から発掘された人骨11体のうち8体の人骨に、鋭利な石器や鈍器で付けられたとみられる傷があることが明らかになった」という――。

※本稿は、武光誠『直近20年の新発見で解き明かす 古代史の真実』(青春出版社)の一部を再編集したものです。
■全ての人間が尊重される縄文時代の書き換え
長い間にわたって、「縄文時代は平和な時代であった」とする説が、広く受け入れられていた。さらに「縄文時代は身分や階級のない、誰もが平等に扱われる時代であった」ともいわれた。
その時代には、血縁によって結ばれた人間が、大自然のなかで1つの集団(氏族)をつくっていた。人びとは助けあって、狩猟や漁や、果実、山菜、貝などを採集して生活していた。
このような時代には、働き手である人間は何よりも貴重であった。だからあらゆる人間が尊重されていた。
私は、このような発想は、けっして誤りではないと考えている。
アマゾン川の源流に近いジャングルに住むワオラニ族には、長老はいるが君主はいない。そこの人びとは、誰もが対等の立場で生活している。
今でも誰もが平等で互いに支えあって暮らしている少数民族が幾つもある。それと同じく縄文時代の大部分の者が、平等で何よりも人間を重んじる生活を送っていたのであろう。

ところが令和4年(2022)になって、縄文時代像を書き換えるような新たな発見が報告された。北海道伊達(だて)市の有珠(うす)モシリ遺跡から、戦死者のものとみられる複数の人骨が出土したのである。
有珠モシリ遺跡は、面積約1万平方メートルほどの広大な遺跡である。その遺跡は、有珠湾の小島全体にわたって営まれていた。
有珠モシリ遺跡の発掘は、1980年代から何度かにわたって行なわれていた。そしてそこからは幾つもの貝塚や墓地が発見されてきた。
そして平成30年(2018)になって、東北芸術工科大学などの研究グループによる墓地の調査がなされた。その発掘がすすむなかで、令和2年(2020)に11体の人骨が同じ場所からから出土した。
■戦死者の人骨出土の衝撃
11体の人骨のうち、10体が男性のもので、1体が女性のものであった。人骨はすべて10代後半から成人のものだとされた。
そして人骨の調査がすすむ中で、それらの人骨が何らかの戦闘に関わるものだとする見解が出されたのだ。11体の人骨のうち8体の人骨に、鋭利な石器や鈍器で付けられたとみられる傷があったのだ。
この傷のなかには、致命傷になったとみられるものまであった。
5人が、石斧や石槍による攻撃による傷で死んだというのである。その他に骨に傷が残らない形で死んだ者もいたと考えてよい。そうすると11体の人骨が出土した墓は、何らかの戦闘の犠牲者をまとめて葬って供養したところだったと考えることができる。
その場合、有珠モシリ遺跡の人間が、自分たちの住む島から出て離れた土地の敵と戦ったとは考えにくい。かれらが、戦死者の遺体をわざわざ故郷まで持ち帰ることは、まずないだろう。
そうすると、陸地から来た侵入者の侵攻を受けて亡くなった人びとが、まとめて葬られたとするのが妥当であろう。有珠モシリ遺跡の住民は、かなり豊かであったと推測できる。
■北海道でも富をめぐる戦闘の痕跡
有珠モシリ遺跡からは、イモガイの貝輪を腕に付けた女性の遺骨が出土していた。この貝輪に用いられた大型のイモガイは、九州の南方の南西諸島で採れたものだと考えられている。
有珠モシリ遺跡を残した集団は、日本列島の北から南へと連なる大規模な交易路とつながりを持っていたのだ。そこの住民は、船団を組んで長距離の航海を行なう交易民であったとみられる。

有珠モシリ遺跡の交易民は、遠方から入手した多様な珍しい商品を周辺の集落と取引して大きな利益を上げていたのであろう。有珠モシリは、小さいながらも「縄文都市」と呼ぶべき先進地であった。
そしてそのような縄文都市の富に目を付けた内陸部の集団が、有珠モシリ遺跡の島を襲ったと考えられる。
かれらは普段は狩猟に用いる道具を携え、徒歩で襲ってきたのであろう。有珠モシリ遺跡のある三角形の小島は、干潮時に陸地から歩いて渡れる位置にある。
有珠モシリ遺跡から出土した戦闘痕のある人骨の鑑定によって、それらが2400~2500年前のものであることが明らかになった。
その時代の西日本では水稲耕作が広まり、弥生時代となっていた。ところがその頃の北海道の人びとは、縄文時代のままの生活を送っていた。
しかし農耕文化が広まる前の北海道でも、富をめぐる戦闘がみられたのだ。
■有力者が身に付けてお守りとする勾玉も
「縄文時代には私有財産という発想がなかった」
こういった考えが、近年までひろく受け入れられてきた。ところが縄文時代の遺跡の発掘が進展するなかで、「縄文人の集団は、あらゆるものを共有していた」という発想に、疑問が出されてきた。
縄文時代に多人数の住民が、豊かな暮らしをしていた集落がみられることが明らかになってきたためだ。
青森市三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、高さ約20メートルの巨大な木製建造物で知られる有力な遺跡である。
縄文時代前期から中期にかけて(約5900年前~4200年前)続いたその遺跡では、数百人ほどの人びとが定住していた。この三内丸遺跡の住民は意欲的に各地と交易し、ヒスイの勾玉、漆器、アスファルト製品などを入手していた。
三内丸山遺跡は、「縄文都市」とも呼ばれる。三内丸山遺跡から出土したすべての贅沢品を、数百人の住民都市の住民が共有していたのであろうか。
それよりも、「三内丸山に珍しい贅沢品を私有した富裕層もいた」と考えるのが妥当ではあるまいか。つまり三内丸山全体にかかわる祭祀のための特別の勾玉もあった。しかしその他に、有力者が身に付けてお守りとする勾玉もあった。
■身分毎に異なる様式で葬られた人骨が出土
そして有力者の勾玉は、有力者の子供たちに相続された。こういった想定もできるのではあるまいか。
このような縄文時代の身分制に関わる、興味深い発見があった。平成9年(1997)に千葉県茂原(もばら)市の下太田(しもおおた)貝塚の墓地から、身分毎に異なる様式で葬られた人骨が出土したのである。

下太田貝塚は、縄文時代の有力な集落が残したものである。そこからは、100体を超える人骨が発見された。
そこから出土した約5000年前から4000年前にあたる縄文中期の人骨は、どれも同じような形式で葬られていた。土坑(どこう)という土を掘った墓に、屈葬(くっそう)という下半身を折り曲げた形で納められていたのだ。
ところが約4000年前から約3500年前にあたる縄文時代後期の墓には、明らかな身分差がみられる。一方では伸展葬(しんてんそう)という体をまっすぐ伸ばした形式で丁寧に葬られた人骨がある。
ところがもう一方では、複数の人骨を一つの土坑に無造作に投げ込んだ墓も見られる。こういったことによって、身分の高い有力者のための特別の墓がつくられていたありさまがわかってくる。
下太田貝塚を残した集落で、縄文時代後期の開始にあたる約4000年前頃に独自の身分制がつくられたのであろう。現在のところ、そのような身分制ができた経緯を推測する手掛かりは見付かっていない。
■集落の政治を握る高い身分の人間は
しかし私は、縄文時代の長距離の交易の進展の中で、各地の集落に一部の有力者が現れたのではないかと考えている。
前にあげた三内丸山遺跡が繁栄した縄文時代前期頃から、日本列島の各地を結ぶ水上交通路が整備されていった。

この時期になると、縄文人はアワ、ヒエなどの栽培や、有用な植物の半栽培をひろく行なうようになっていた。前にあげた三内丸山遺跡の住民は、集落の周辺に広大なクリ、カシの森林を育て、そこから食用のクリやドングリを得ていた。
約6000年前あたりから、縄文人は自然の恵みだけに頼った原始的生活と別れを告げていたのである。
食料の心配が無くなり、長距離の交易で各地から有用な商品を調達できるようになった。このような段階の縄文人が、昔ながらの財産を共有する生活を続けていたとも思われない。
近年、トルコ南部のギョベックリテベ遺跡やカラハンテベ遺跡で、巨大な神殿を持つ有力な都市が発掘された。それらはメソポタミアで農耕が始まった時期より古い、1万2000年前頃につくられたものだ。
チグリス川とユーフラテス川上流に、ギョベックリテベ遺跡のような、農耕以前の都市が現れたのだ。そこの住民は、大掛かりな罠で獲物を獲るなどして、安定した生活を送っていた。
そういった中で、一部の特権身分が現れたと考えられている。
縄文時代の日本では農業の指導者ではなく、航海と交易の指導者が、集落の政治を握る高い身分の人間とされたのではあるまいか。
下太田貝塚の人骨から、もう1つの興味深い事実が明らかになった。そこの人骨の鑑定がすすめられていく中で、ミトコンドリアDNA分析が行なわれた。
■女系の氏族がひらいた集落
そうすると、人骨を残した集落の構成員のすべてが女系でつながることが明らかになった。
ふつうは古い時代には、自然な形で女系の家族がつくられていくと考えられている。
母親が何人かの男性と交渉を持ち、多くの異父の兄弟姉妹を育てる。そのあと母親の娘たちが母の遺産を受け継ぎ、息子たちは配偶者を求めて母のもとを離れていく。これが自然な形だというのだ。
そして武力のある者が1つの家族をまとめる時代になると、父系の家族が現れる。父親が、最も強い息子を後嗣ぎにして家長とするのである。
豪族たちは古墳時代に父系の家族になっていったが、農民の間では平安時代終わり頃まで母系の家族が広くみられたとする説がある。
DNA研究の発展により、下太田貝塚のような、母系の集団が残した縄文時代の集落が今後いくつも知られるようになると考えてよい。
今回とり上げた有珠モシリ遺跡と下太田貝塚の新発見によって、縄文時代のあり方が大きく書き換えられた。
縄文時代は1万3500年におよぶ、長い時代である。
そしてその中の草創期、早期の1万500年ほどの時期の縄文人は、原始的な段階にあった。
しかし縄文前期以降の3000年ほどの期間で、縄文人は手広く交易を行ない各地の文化を交流させて、独自の縄文文化を育てていったのである。

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武光 誠(たけみつ・まこと)

歴史学者

1950年、山口県生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。同大学院博士課程修了。文学博士。2019年に明治学院大学教授を定年で退職。専攻は、日本古代史、歴史哲学。著書に『渡来人とは何者か』『一冊でわかる仏教とお寺』(河出書房新社)、『古代史入門事典』(東京堂出版)、『図説 ここが知りたかった!神道』『日本史を生き抜いた長寿の偉人』(小社刊)などがある。

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(歴史学者 武光 誠)
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