「豊臣兄弟!」(NHK)では織田信長が斃れ、主君を討った明智光秀と羽柴秀吉の戦いに。系図研究者の菊地浩之さんは「光秀が頼ったのは、娘を嫁に出した細川家だったが、政局を読む力があった細川藤孝は的確な判断で生き残った」という――。

■明智光秀の盟友だった名門の武将
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で、ついに明智光秀(要潤)が本能寺の変を起こし、織田信長(小栗旬)を殺害した。
事件自体は突発的だった可能性が高い。偶然に良い条件が重なって、やるなら「今でしょ」の状況が巡ってきた。だから、十分な根回しも行わず(行えず)、そのあとにアタフタすることになる。
光秀にはともに丹波攻略を成し遂げた盟友がいた。その男の名は細川藤孝(「豊臣兄弟!」では亀田佳明が演じる)。
明智光秀は、ルイス・フロイスの『日本史』に「兵部太輔と称する人(細川藤孝)に奉仕していた」と記され、『多聞院日記』でも「細川の兵部大夫(藤孝)カ(が)中間(ちゅうげん)にてありし」との記述がある。両書とも信憑性の高い書なので、光秀はもともと細川藤孝の家臣で、その後に義昭の家臣になったと解釈すべきであろう(なぜ世の中の学者サンたちが両書を無視するのかが分からない)。
光秀は信長の命で三女・たま(細川ガラシャ)を藤孝の嫡男・細川忠興に嫁がせている。二人の間には孫もいた。光秀は本能寺の変を起こすと、使者を送って藤孝に行動をともにしてくれるように頼んだ。ところが、その藤孝は光秀の申し出を拒絶して出家。
幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗り(細川幽斎)、忠興とともに隠棲。息子の嫁・たまを離縁させ、幽閉させてしまう。
親族の有力大名である藤孝・忠興父子の離反は、光秀にとって大きな打撃となった。山崎の合戦で敗走した光秀が討たれると、羽柴秀吉は藤孝・忠興父子が光秀に与しなかったことを高く評価した。
しかも、この藤孝という男は、似たような前科があるのである。かれは室町幕府最後の将軍・足利義昭の最側近でありながら、義昭と信長が対立すると信長に付いてしまったのだ。
■足利将軍の最側近だったが…
細川藤孝は幕臣の三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれ(連続ドラマ小説「虎に翼」主人公のモデル・三淵嘉子は「みぶち」だが、藤孝の実家は「みつぶち」である)、細川家の養子となった。実兄の三淵藤英(ふじひで)も義昭の近臣として「豊臣兄弟!」に登場している。母は学者・清原宣賢(のぶかた)の娘で、12代将軍・足利義晴の子どもを懐妊したまま、晴員に下げ渡された(つまり、藤孝は義晴のご落胤)との説がある。
藤孝は当代一流の歌人として「古今伝授」を伝えられ、能楽に堪能。包丁さばきに優れた一方、大男で武芸に秀で、怪力の持ち主だったという。剣術を塚原卜伝、弓術を波々伯部(ははかべ)貞弘に学び、弓馬故実を武田信豊から相伝された、今でいう「資格マニア」だった。

13代将軍・足利義輝は初名を義"藤"といい、藤英・藤孝兄弟は元服時に義藤から偏諱(へんき)を賜った。永禄8(1565)年5月19日に義輝は三好三人衆によって暗殺されるが、藤孝は非番だったため難を逃れ、義輝の弟・覚慶(かくけい)(のちの足利義昭)の救助に興福寺に向かった。
■信長のスパイ・細川藤孝
覚慶は三好方に幽閉されていたが、藤孝は計略を用いて救出に成功。義昭の逃亡に付き従い、義昭上洛のために奔走した。義昭が信長に上洛の支援を要請した時、藤孝が使者として尾張に赴いている。「豊臣兄弟!」では明智光秀が義昭の寵臣として描かれているが、実際に義昭第一の側近といえば、細川藤孝だったのだ。
ところが、義昭と信長の間に溝ができると、なんと藤孝は信長の側につく。反信長派の上野秀政と対立して、鹿ヶ谷に蟄居(ちっきょ)して義昭と距離を置いたのだ。
元亀4(1573)年2月13日に義昭が挙兵。藤孝は岐阜の信長に畿内の状況を詳細に報告。2月23日、26日、29日、3月7日には信長から返信が来ている(『織田信長文書の研究 上巻』)。極めて頻繁なやりとりで、藤孝はマメで、しかも報告が上手だったらしい。
信長と藤孝は同年齢で誕生日も近い(藤孝は4月22日、信長は5月11日生まれ[諸説あり])、午年だけに"馬が合った"のかも知れない。
■信長に乗りかえ、義昭を謝絶
義昭挙兵に瀕し、細川藤孝は終始信長に付き、畿内の情報収集や義昭方との折衝に動いた。その功によって信長から山城国長岡(京都府長岡京市)の地をあてがわれ、青龍寺(しょうりゅうじ)(勝龍寺とも書く)城に住んだ。これを機に細川姓を捨てて長岡姓を名乗り、家紋を足利家と縁のない九曜(くよう)紋に替えて、足利一門であったことを隠滅しようとした。
■なぜ細川家の家紋が変わった?
細川家が家紋・九曜紋を使うようになった契機としておもしろい逸話が残っている。ある日、藤孝は九曜紋を付けた衣装で登城し、信長から「変わった紋様をつけておるな」と声を掛けられる。すると、藤孝は黙って信長の脇差しを指さした。その鍔(つば)に九曜紋が彫ってあったのだ。信長は藤孝の観察力とユーモアに感じ入り、以後、藤孝は九曜紋を家紋として用いるようになったという。
■光秀は細川父子の加勢を期待
そして、天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が起きると、光秀の申し出を拒絶して中立を保ち、豊臣政権下の大名として存続した。
藤孝は、個人としては「資格マニア」で万能選手だったが、指揮官としての評価はそんなに高くなかったらしい(丹羽長秀タイプだ)。しかし、嫡男・細川忠興は強気で荒武者。
信長から直接感状をもらうほど評価が高かった(信長自筆の書状は数件しか残っておらず、その一つがその感状だという)。
■豊臣から徳川へシフト、ガラシャは…
慶長3(1598)年8月、豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権で武断派と文治派の対立が露わになる。細川忠興(当時は長岡忠興、もしくは羽柴忠興)は武断派の有力大名として、石田三成襲撃の七将の一人に数えられた。
慶長5(1600)年7月21日、石田三成らは大坂城下に住まう武将の妻子を人質にとって味方に引き入れる策を用いた。ところが、忠興夫人・玉(細川ガラシャ)はこれを拒否して自刃した(玉はキリシタンなので、自害は許されず、実際は家臣・小笠原少斎に自分を殺害するように命じた)。玉の自刃により、三成は人質作成を断念せざるを得なくなった。9月15日の関ヶ原の合戦では、忠興はもちろん家康方に付いた。
■絶体絶命のピンチ、芸は身を助く
意外に知られていないが、天下分け目の合戦は関ヶ原だけで行われていたわけではない。日本各地で毛利・石田勢と徳川勢の合戦が行われていた。その一つが丹後田辺城(京都府舞鶴市)の攻防である。
当時、細川(実際は長岡)家は田辺城を居城としていた。そこに籠もる細川幽斎(藤孝)を、毛利・石田勢1万5000の兵が包囲した。
守兵はわずか500。絶体絶命のピンチである。ここで意外なところから幽斎の支援が訪れる。後陽成(ごようぜい)天皇が講和の勅令(ちょくれい)を発し、幽斎の助命を嘆願したのだ。それは幽斎が当時唯一の「古今伝授(こきんでんじゅ)」の伝承者だったからだ。
古今和歌集』の読み方・解釈などの秘事は、藤原定家以来、代々口伝(くでん)で継承されており、幽斎は元亀2(1572)年に三条西実澄から伝授されている。幽斎が八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)に古今伝授している最中に関ヶ原の合戦が始まり、継承が中断されてしまったので、後陽成天皇はその途絶を恐れたのである。
※編集部註:初出時に丹後田辺城(京都府京田辺市)と掲載していましたが、(京都府舞鶴市)でしたので訂正しました(7月20日16:00追記)。
■細川家は肥後藩主に、首相を生む
幽斎は一旦開城に応じて、八条宮智仁親王に「古今伝授」の書類を渡して再び籠城した。しかし、後陽成天皇は、もし幽斎が討ち死にすると日本の歌道にとって大きな痛手になると考え、再度、幽斎の助命の勅令を発した。かくして、9月13日に幽斎は田辺城を開城、亀山城に退いたが、わずか500の兵で1万5000もの大軍を2カ月にわたって引き留めた功績は高く評価された(ただ、気の短い忠興は、父の煮え切らない態度を嫌悪して、しばらく義絶したという)。
かくして、細川家は御家存続となり、江戸時代は豊前国小倉藩の大大名に(肥後細川家)。
約400年後、子孫から第79代総理大臣・細川護煕(もりひろ)を生んだのである。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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