1945年8月6日、広島に原爆が投下された。焦土となった街へ救護・復旧活動に向かった旧日本海軍部隊のひとつが、呉鎮守府特別陸戦隊23大隊だった。
ジャーナリストの佐田尾信作さんによる『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書)より、当事者の証言を紹介する――。(第2回)
■食料を得るために行った遺体回収作業
広島駅にたどり着いた23大隊は何を見たのか。戦艦大和の乗組員だった八杉康夫は次のように回想している。
駅舎は3階建てで外側の壁だけは残っており、屋根は鉄筋コンクリートですが、爆風で落下していました。扉は木製なので焼けてしまい、屋根も抜けていて青空が見えていました。
私たち迫撃砲隊は駅のコンコースが担当で、大きな瓦礫をどんどん外へ出しました。ロープをかけて力を合わせて引っ張ったりしていましたが、「死体の収容はするな。そっちは放っておけ。駅の復旧だけやるんだ」と強く言われていました。

しかし、噴進砲隊通信分隊の二等水兵三栗谷利郎は上官から次のような指示を受けたとつづっている。「聞け。お前達の中で酒、たばこ、又は食事をしたい者は前に出ろ。
但しその者達は死人を担架で山に運べ」。
このような証言はほかにはないが、実際には隊員たちは遺体の収容に当たっていた。それなしには駅の復旧もできなかっただろう。彼らは全員、地下足袋を履いて円匙、つるはし、モッコなどを担いでいた。陸戦隊というより工兵隊である。
■これまでの空襲とは違う異様な遺体
八杉によると、男女の別も不明な遺体を裏返したら、片側は全く焼けていない。呉の空襲でも見たことのない異様な様子で、臭いも独特だった。瓦礫に挟まれて外に出せない遺体には肋骨(ろっこつ)の辺りにつるはしを打ち込み、引っ張り出したという。
焼けたトタン板で担架を急ごしらえして遺体を運び、推定年齢や男女の別などはかぶせたトタン板に白墨で書く。罹災者はトタン板をのけて肉親を捜し回る。生きている負傷者には救護所を指さしたが、薬はほとんどなく、焼けた皮膚に食用油を塗るぐらいしかなかった。
水兵長の小林健は、空襲警報解除で安心して汽車に乗ろうとしたところに原爆が投下され、構内にいた人々は瞬時に建物の下敷きになったのだろう、と推測した。
駅舎のトイレのコンクリートの塀には人影がくっきり浮いていたともいう。
少尉の佐藤庄造も待合室の瓦礫の下に圧死した遺体が埋もれているのを見た。遺体は東練兵場に運び、火葬や埋葬にしたという証言は複数ある。生存者には何もしてやれなかったと悔やむ証言もある。『広島原爆戦災誌』はどう記録しているのだろう。
■爆風で向かいのホームまで吹き飛ばされる
広島駅は本館の前の「張りぼて」の出札室がつぶれ、多数の旅客が下敷きになった。駅長室のある別館は半壊、2階の車掌区はつぶれ、ホームにいた人たちは二線路隔てた向かい側ホームまで吹き飛ばされる。
各ホームの上屋はほとんどの柱が折れたり、ねじ曲げられたり、線路上に倒れたりしていた。それでも駅長木村英雄は血のにじんだ包帯を頭に巻いて部下を指揮し、刻々と集まってくる情報を取りまとめて部隊長(広島鉄道統監部)に第一報を送った。それが午前10時。駅長の指令によって列車の疎開や車両の転線などが実行されたという。
一方、二等水兵の棚橋又吉は駅頭で「曳火高性能爆弾」と書かれた張り紙を目撃し、流言飛語に惑わされず落ち着いて行動せよ、広島で見たことは話すと罰せられる――などと憲兵がメガホンで叫んでいたと証言する。

「新型爆弾」と呼んだ大本営発表より先に中国軍管区司令部が8月7日正午にこう発表し、張り紙や口伝えである程度広まったと見られる。旧制広島高校の学生の手記にも、広島駅北の大内越(おおちご)峠(現在は広島市東区山根町)を越え東練兵場に入ると「敵ハ広島市ニ曳火高性能爆弾ヲ投下セリ」の張り紙を見たという証言があるため、軍も衝撃を受けたことは間違いない。
■陸軍元帥はなすすべもなかった
また、中国新聞校閲主任だった大下春男は原子爆弾を「閃光式新型爆弾」と言い換えるよう県警察部特高課長に命じられたとつづる(池田佑・編『大東亜戦史 9 国内編』富士書苑、1969年)。ただし、誰とはなしに口にした「ピカドン」は差し止められることなく、世間に広まったという。
同じ頃、陸軍元帥畑俊六の現場への視察に接して敬礼した、とつづるのは少尉候補生の本宮啓である。憔悴(しょうすい)した表情で丁寧に答礼した畑の姿に「もう日本はだめなのか」と直感した。畑は本土決戦に備えて広島に設置された第二総軍の司令官として4月に着任したばかりだった。
あの日は東練兵場にほど近い二葉山(ふたばやま)山麓の公邸の室内にいて傷一つ負わなかったが、続々入る市中の惨状や陸軍高官の安否に関する情報になすすべもなかったことが「陸軍 畑俊六日誌」(『続・現代史資料 4』オンデマンド版、みすず書房、2004年)の「獄中手記」からうかがえる。
口語文にすると「司令部はとりあえず二葉山で掘削中の防空壕で事務を開始したが、今はただ茫然(ぼうぜん)たる状態で誠に情けない次第である」という一節がそうだ。
■任務後に襲った腹痛、下痢、血便
畑はポツダム宣言受諾の御前会議に呼ばれ、受諾はやむを得ない、親衛隊を残せるよう交渉すべきだ、と昭和天皇に進言した人物。
A級戦犯(終身禁錮刑、後に赦免)として巣鴨プリズンに身柄があった1952(昭和27)年には「原爆乙女」の慰問を受け、「当時私は広島の陸軍の最高指揮官だった……私どもが広島にいたばかりに、みなさんをこういう目にあわせました」と頭を下げたという(中国新聞社・編『炎の日から20年』未來社、1966年)。
畑を含むA級戦犯10人が謹慎の意を込めて彼女たちに贈った寄せ書きの色紙が現存している。
だが、こうした逸話によって畑を実直な人物だと評することができるのかどうかは僕には分からない。
誰が視察に来ようと、23大隊の隊員たちの多くは命を削るような眼前の任務に徹するしかなかった。疲れきった夜は東練兵場付近に張った天幕で寝たが、目を閉じても悲惨な光景が頭から離れない。風呂はなく飯にも手が出ない。
海風に乗って人や動物の腐乱した臭いが漂ってくる。昼は破裂した水道管の水を飲み、構内の貨車に積まれたニシンを焼いて食べた者もいた。放射能汚染という言葉など知る由もない。9日までの復旧作業を終えて川原石に帰ると、腹痛や下痢に悩まされ、粗末な便槽に血便が散っていた。
■広島駅近くにわずかに残る戦時下の遺構
『広島原爆戦災誌』には「全焼した広島駅は、灼熱の炎に焼けただれ、余燼(よじん)いまだ消えない翌々日の8日、陸海軍工作隊の出動によって、水を注ぎながら後片づけに着手した」と短い記述がある。8日には本線(山陽線)が開通し、9日には芸備線が開通した。
近年の東練兵場跡周辺は「エキキタ」などと呼ばれている。シリブカガシつまりドングリが群生する森である二葉山(標高139メートル)の山麓に、西から饒津神社、明星院(みようじよういん)、鶴羽根神社、広島東照宮、尾長天満宮、國前寺といった古い寺社が連なる風景は変わっていない。

だが、現在は寺社の間を縫うように山腹までマンションや一戸建て住宅が林立し、さらに西側の広大な旧官有地、JR所有地では大型再開発が進行中であり、都市高速のトンネルも地盤沈下などの問題をはらみながら異形を現している。
もし戦時下の名残をとどめるものを訪ねるなら、第二総軍のルーツである騎兵第五連隊の碑、陣没軍人軍馬追悼の碑、罹災者が湧き水を求めて息絶えた東照宮境内の原爆慰霊碑などを目にすることしかできない。

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佐田尾 信作(さたお・しんさく)

ジャーナリスト

1957年島根県出雲市生まれ。大阪市立大学文学部卒業。広島を拠点に取材活動45年。2025年12月現在は中国新聞客員編集委員、日本ペンクラブ会員、宮本常一記念館運営協議会委員。著書に『宮本常一という世界』『風の人宮本常一』、共著に『われ、決起せず 聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて』(いずれも、みずのわ出版)など。

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(ジャーナリスト 佐田尾 信作)
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