■対米開戦の最強硬派・東条英機が首相になったワケ
1941年10月16日、日米交渉をめぐる閣内不一致で、第三次近衛文麿内閣が総辞職した。わずか2日後の18日。後継の首相に座ったのは、驚くべきことに対米開戦の最強硬派である東条英機陸相だった。戦争を避けたいならば常識的に考えれば最も避けるべき男のはずだ。
だが、推挙した木戸幸一内大臣の読みは、真逆だった。開戦へ突っ走る陸軍を抑えられるのは、陸軍の頂点に立つ東条しかいない。しかも東条は、天皇の意向を絶対視する男だ。木戸の上奏を受けた昭和天皇の一言を、木戸は戦後こう証言している。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」
猛獣に、猛獣使いをやらせる。完全な賭けだった。
首相になった東条の変貌ぶりは周囲を驚かせた。
東条はこの指示を受けて、それまでの強硬姿勢をいったん脇に置き、開戦方針を定めた「帝国国策遂行要領」を白紙に戻して再検討に入る。外相には対米協調派の東郷茂徳を据えた。
■天皇の意向は…
最大の難関だった中国からの撤兵問題では、中国の大部分から2年以内に撤兵する一方、華北など一部地域には長期駐兵する妥協案(甲案)を示した。さらに交渉の最終盤には、南部仏印の部隊を北部仏印へ移して日米の通商関係を回復する暫定案(乙案)まで用意している。日独伊三国同盟についても自衛権の解釈を抑える姿勢を見せた。かなり思い切った譲歩である。
なぜ最強硬派が、ここまで交渉に力を注げたのか。
信念を曲げたわけではない。そもそも東条の行動原理は「開戦か和平か」ではなく、「天皇の御意向はどちらか」だった。天皇が交渉継続を望むならば、全力で交渉する。それが東条の信念であった。
だが交渉は実らず、12月、日米は開戦する。ここで論争になるのが、天皇の役割だ。
東条が日本を戦争へ導き、天皇は引きずられた――。
よく聞く話だが、歴史学者の藤原彰(一橋大学名誉教授)は「開戦を主張していた東條を首相とすることに、いささかも抵抗を感じなかったとすれば、この時点で天皇が対米開戦に反対してはいなかった」と指摘する。同じく歴史学者で京都大学名誉教授を務めた井上清も、東条の組閣を認めたこと自体が対米交渉の否定であり、開戦への傾倒に他ならないと論じている。
一方で、天皇は一貫して戦争に反対だったのに輔弼者(補佐する臣下)が押し切ったのだから責任は臣下にあるとする議論もある。評価は今も割れている。
■これまでのどの首相よりも信頼された
開戦後、勝利が続くと東条と天皇の関係は蜜月を迎える。天皇の東条に対する高い評価は、敗戦後も残っていた。天皇は敗戦直後、側近に東条をこう評している。
「彼程朕の意見を直ちに実行に移したものはない」
2人の関係は、東条の一方的な進言に天皇が「しぶしぶ御同意」するようなものではなかった。
象徴的な出来事が2つある。
ひとつは、東条の働きかけで開戦1周年に際して実現した、1942年12月12日の天皇による伊勢神宮への御親拝だ。日清・日露戦争のときでさえ天皇自らが戦勝祈願に参拝した例はなく、近代日本の対外戦争では前例のない出来事だった。
忠臣が主君に願い出た戦勝祈願は、裏返せば、天皇を戦争の当事者としてさらに深く引き込むことでもあった。
もうひとつが1944年2月の参謀総長併任だ。首相と陸相に加えて、陸軍の作戦指導を担う参謀総長まで兼ねる。この異例の人事には杉山元参謀総長ら陸軍の重鎮が反対したが、それでも実現した背景には、歴史家の鈴木多聞の研究によれば木戸と天皇の支持があった。
つまり、「東条独裁」と呼ばれた権力集中は、東条が一人で奪い取ったものではない。天皇の信任があってこそ成立した権力だった。
■2人でつくりあげた「東条独裁」
その信任は、人事の好き嫌いにまで及んでいた。
たとえば、シンガポール攻略で「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文である。
天皇は戦後、その理由を「東条は山下の果断が東条人事を覆す事を恐れて、之に反対し、自分が留任すると云ひ出した」と振り返っている。
だが実は、天皇自身も山下を快く思っていなかった。2・26事件の際、山下が反乱将校に同情的だったことに遺恨があり、マレー攻略の大戦果のあとでさえ、昭和19年に至るまで拝謁を許していない。
東条が警戒する将軍を、天皇もまた遠ざける。2人の関係は、政策上の信頼だけでなく、人事感覚まで重なるほど近かった。
考えてみれば危うい構造である。信任が厚いあいだ、東条は誰よりも強い。内閣から独立して天皇に直属していた陸軍統帥部まで、参謀総長を兼ねることで自らの手に収めた。だがその強さは、主君の心ひとつで消えてしまう土台の上に立っていた。
■民間からの戦争を煽る空気
ちなみに、この蜜月期の空気を伝える興味深い史料がある。
開戦1周年の1942年12月8日、言論界の大御所・徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)は東条にこんな電報を打った。
「閣下の明断勇決に最大の感謝を捧ぐ。日本の神々が閣下に倍旧の健康を賜ひ……ルーズヴェルト、チャーチルをして冑(かぶと)を脱ぐに到らしめむことを祈る」
対する東条の返電は「御懇電を拝謝す。当時を追想し感真に深し」と淡々としたものだった。
首相本人より、民間の言論人のほうがよほど勇ましい。戦争を煽る空気は、軍人だけがつくったものではなかったことを忘れてはいけない。
1944年、戦局は坂道を転がり落ちる。2月には連合艦隊の根拠地トラック島が大空襲を受け、6月のマリアナ沖海戦では空母3隻と多数の航空機・搭乗員を失い、空母機動部隊の航空戦力は壊滅的な打撃を受けた。
基地航空部隊も大きく消耗し、サイパン島へ大兵力を送り込む余裕もなかった。徳富蘇峰が東条に「本土侵攻を防ぐため、サイパン死守の一大決戦を」と進言したときの東条の答えが全てを物語っている。
■サイパン防衛をめぐる東条の二枚舌
「敵が台湾や沖縄に来ては、こちらも困るから、それは極力防がねばならぬ」
つまり、サイパンは落ちてもやむを得ない。宮中や統帥部には「サイパン絶対防衛」を掲げながら、内々では防衛線を後ろへ下げる現実的な判断を下し、同時に政変の動きにも神経を尖らせていた。忠臣は、主君に対してさえ2枚の顔を使い分けざるを得なくなっていた。
追い詰められた東条は、戦意昂揚のための勅諭を出してほしいと天皇に求める。だが、天皇は断り続けた。
戦後の回想によれば、国民を鼓舞する詔書は「速やかに平和に還れとも云へぬから、どうしても戦争を謳歌し、侵略に賛成する言葉しか使へない」。それは皇室の伝統に反するというのが理由で、同じ要望は後継の小磯・鈴木両内閣からも出たが、すべて退けたという。木戸も同意見だった。
もっとも、政治史研究者の菅谷幸浩の見方は少し違う。この時期すでに木戸ら宮中側近は次の首相選びに動き出していた。東条内閣のもとで勅諭を出せば、内閣の延命につながってしまう。だから見送る必要があったという政治的な事情であった。
■そしてあっけなく総辞職へ
かつて東条を首相に推した木戸が、今度は倒す側に回る。7月4日にはインパール作戦の中止が大本営で決まり、7日にはサイパン島守備隊が玉砕。絶対国防圏が崩れ始めていた。当時、陸軍省軍務局長だった佐藤賢了によれば、重臣層や翼賛政治会の一部で倒閣の動きが強まっても、東条は大幅な内閣改造によって、なお政権続投を狙っていた。
7月13日、東条は木戸に窮状を打ち明ける。「反戦厭戦の空気、統帥に対する批判等あり、政変を惹起し一歩誤れば即敗戦となるの虞れあり」。
米内光政・阿部信行ら「総理級」の入閣を含む改造案まで示したが、木戸が突き付けた条件は厳しかった。統帥の確立――つまり自らの参謀総長兼任をやめること、嶋田繁太郎海相の更迭、重臣層の把握――近衛や岡田啓介ら首相経験者たちの協力を取り付けることである。
だが、その重臣たちこそ倒閣運動の中心にいた。自分の権力基盤を自分で壊し、盟友を切り、敵に頭を下げる。どれも事実上、飲めない条件だった。天皇の信任という唯一の権力基盤を失った東条に、もう抵抗する術はなかった。東条内閣は総辞職する。
主君の信任だけを拠り所にした権力者は、信任が消えた瞬間、驚くほどあっけなく崩れる。これは今も昔も変わらない。組織の鉄則だ。
■遺書に残された「造反」
1948年12月、東京裁判で絞首刑となった東条の遺書には、次のような言葉が並んだ。
「天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する」
裁判そのものへの恨み節もあった。「此の裁判は結局は政治的裁判で終わった」。そして「天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。……存在そのものが絶対必要なのである」「空気や地面の如く大きな恩は忘れられぬ」。死の間際まで忠誠が揺るぐことはなかった。
ところが、遺書の最後の一節で意外なことを書き残す。「我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない」。
政府が軍を統制できない「統帥権の独立」。それこそが陸軍の暴走を許し、東条自身が参謀総長併任という禁じ手でしか乗り越えられなかった構造欠陥だった。体制に忠実に殉じた男が、処刑を前にして、その体制そのものの欠陥を遺書に書き残したのである。
一方の天皇も、後年、東条を首相に据えた理由をこう振り返っている。
「私のいふ事はきいてくれるかと思ひ、又話も分り実行するといふ期待で[首相任命を]やつた事だが、結果はあの通りとなつて了(しま)つた」
よく聞いてくれるから任せたら、あの結果になった。忠誠で結ばれた主従の悲劇を、これほど簡潔に言い当てる言葉もないだろう。
ビジョンなき忠誠は、欠陥のあるシステムを全力で回すことになる。東条の生涯が教えてくれるのは、そんな悲劇だ。
主要参考文献(孫引きを含む)
菅谷幸浩「大東亜戦争期における東條英機と徳富蘇――政治指導力強化と戦意昂揚策を中心に」『法学新報』第128巻第7・8号、2022年
田村安興「天皇親政体制の虚実――明治大帝伝説から昭和天皇へ」『高知論叢(社会科学)』第104号、2012年
井手靖子「「昭和天皇の戦争責任」とは何か――その所在と問題を整理する」『理論と動態』第13巻、2020年
一ノ瀬俊也「東條英機と石原莞爾 天皇陛下の好き嫌い」『文藝春秋』2024年8月号
藤原彰「天皇制イデオロギーと憲法の危機」『季刊 科学と思想』1981年7月号
井上清『天皇の戦争責任』岩波書店、1991年
里見岸雄『萬世一系の天皇』錦正社、1961年
長谷川正安「昭和史と天皇の戦争責任」『文化評論』1986年4月号
伊藤之雄『昭和天皇伝』文藝春秋、2011年
鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』東京大学出版会、2011年
佐藤賢了『言い残しておくこと――開戦後の大東亜戦争指導』陸上自衛隊小平修親会、1958年
寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著『昭和天皇独白録』文藝春秋、1991年、木下道雄『側近日誌』文藝春秋、1990年、田島道治著、古川隆久ほか編『昭和天皇拝謁記3』岩波書店、2022年、木戸幸一著、木戸日記研究会校訂『木戸幸一日記』東京大学出版会、1966年、東京裁判研究会編『東條英機宣誓供述書』洋洋社、1948年 ほか
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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)

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