真珠湾攻撃から約4カ月後、わずか16機の米軍爆撃機が東京を空襲した。被害は限定的だったが、陸海軍指導部にとって衝撃的な出来事であり、大本営が迷走していくきっかけとなった。
戦史研究の第一人者・大木毅さんの著書『ミッドウェイ海戦』(文春新書)より、一部を紹介する――。(第1回)
■凧揚げ中に見た謎の爆撃機の正体
かくて、昭和17年4月18日、アメリカ陸軍のジェイムズ・ドーリットル率いる16機のB‐25は東京、横浜、横須賀、名古屋、神戸などを爆撃しました。作家の吉村昭さんはこの時、東京の日暮里に住んでいて、何とドーリットルが搭乗した爆撃機を目撃しています。
このことは、戸髙一成さんが大和ミュージアムのホームページの「館長ノート」に書いています。長くなりますが、興味深いお話ですので、引用させていただきましょう。
〈文藝春秋の平成13年10月号に、「東京の戦争」というタイトルで吉村さんと半藤一利さんの対談が掲載されました。昭和17年4月18日のドーリットル中佐の東京空襲をお二人ともその時の米軍爆撃機を実際に見ていると言うことから、空襲当日の話をしたそうです。
その対談をしたという日の夜、吉村さんから電話があり、
「戸髙さん、私、半藤さんとドーリットル空襲の時の飛行機を見た話をしたんですが、私ね、あのとき家の物干し台で凧揚げていたんですよ。そしたら左の方からものすごい低空を双発の飛行機が飛んでくる。私、慌てて凧に絡んじゃいけないと思って凧をたぐり寄せたら、目の前を飛行機が取り(ママ)過ぎた。
アメリカの爆撃機ですよ。マフラーをしたパイロットの顔も見えた。
その後ニュースとか読んで、私の見たのはドーリットルの飛行機で、パイロットはドーリットルだと思っていたんで、半藤さんにその話をしたら、いきなり、「そんなこと分かるわけ無いじゃないか」って散々馬鹿にするんですよ。私は悔しくてね。本当に、何とか私が見た飛行機に乗っていたのが誰か分からないでしょうか。」と。
■見たのは間違いなくドーリットルだった
半藤さんは親しい人には遠慮会釈の無いべらんめえな話し方をするので、よほど半藤さんは実(ママ)も蓋(ふた)もないような言葉で否定したのでしょう。
吉村さんは悔しいと言うよりも、面白い話題だから出来れば知りたい、と言う雰囲気で、「悔しいじゃないですか」と言っているのです。私は良い歳の大人が本気で言い合っている姿を想像して、内心チョット笑ってしまいました。
そこで、私の軍艦研究の大先輩がドーリットルの東京空襲の当時の報告記録を纏(まと)めてアメリカで出した本を持っていたのを思い出し借りたところ、東京上空に侵入した各機の飛行ルートが全部記録されている地図があり、それを見ると、吉村さんの家がある日暮里の上を飛んだのは一機のみ、それがドーリットルの機体だったのです。
ただし、吉村さんは左から右に飛んだ機体を見たので、見たパイロットは副操縦士で、ドーリットルは向こう側に座っていたのです。これを纏めてコピーと一緒に送ってあげたところ、大喜びの電話を貰いました〉(「館長ノートvol.57」2022年7月20日投稿)。
■帝都空襲に山本が抱いた強い危機感
この時、米軍機の機銃掃射を受け、葛飾区の水元国民学校の生徒が死亡しています。もちろん国際法違反です。12.7ミリ機銃の弾丸は、その名の通り、直径20ミリ、1.3センチほどもあって、驚くほど大きい。
葛飾区は今も、この機銃掃射でえぐれた廊下の板や機銃弾などを保管し、区の博物館に展示しています。私も見たことがありますが、戦争の恐ろしさを実感させられるようなものですね。
しかしながら、いくら大型爆撃機といえども16機くらいではそれほど大きな戦果は見込めません(表6 ドーリットル空襲の被害)。日本の陸軍報道部も、東京空襲の指揮官の名は、ドゥ・リトル(Do little)だが、実際は、ドゥ・ナッシング(Do nothing)だったと揶揄(やゆ)しました。
けれども、陸海軍指導部にとって、ドーリットル空襲は一大衝撃だったのです。戦争末期に連日のように空襲を受けて、東京ばかりか主要都市が焼け野原となったことを知る後世のわれわれには、かえってわかりにくくなっているのですが、当時の人々にとっては、天皇陛下がおられる帝都東京が爆撃されたというのは、天地がひっくり返るような一大事でした。
とくに山本五十六は、ドーリットル空襲によって深刻な事態となったと認識していました。本土空襲があれば、国民は士気沮喪し、戦争継続が難しくなるだろうと開戦前から危惧していたからです。山本が海軍大臣の嶋田繁太郎(しまだ しげたろう)に出した書簡から引用しましょう。
■「ロシアのスパイ」と侮辱された海軍
「〔前略〕万一、敵機東京・大阪を急襲し、一朝にして、此(この)両都府(とふ)を焼尽せるが如(ごと)き場合は勿論(もちろん)、左程(さほど)の損害なしとするも、国論(衆愚の)は果(は)たして海軍に対し、何というべきか、日露戦争を回想すれば、想半(おもいなか)ばに過ぐるものありと存じ候(そうろう)」(昭和16年10月24日付書簡、『大分県先哲叢書堀悌吉資料集』、第一巻、大分県教育委員会、2006年)。
日露戦争の序盤、日本海軍はロシアのウラジオストック艦隊にずいぶんと悩まされました。東郷平八郎(とうごう へいはちろう)率いる戦艦部隊(第一艦隊)は、敵主力のいる旅順に張り付いていましたので、こちらには上村彦之丞(かみむら ひこのじょう)率いる装甲巡洋艦部隊(第二艦隊)があたりましたが、日本海特有の濃霧のせいでウラジオストック艦隊の神出鬼没の動きを探知できず、輸送船の常陸丸などが撃沈されています。

上村は帝国議会で「濃霧濃霧と弁解しているが、濃霧は逆さに読むと無能なり、上村は無能である」と攻撃され、国民からは「露探(ろたん)(ロシアのスパイ)提督」などと呼ばれ、自宅に石を投げこまれたりしました。
■恐れていた「日本人のもろさ」
山本は連合艦隊の中で唯一日露戦争に従軍した経験があり、そのような日本人のもろさを知っていましたから、こうした動揺が再び起こるのではないかと恐れていたのです。真珠湾攻撃の成功の後、青山にある山本の自宅のまわりにやってきた群集が万歳を唱えたという話を聞いて、「そのうち、そいつらが石を投げにくるよ」と言ったとも伝えられています。
さりながら、山本戦略の実行に関しては、ドーリットル空襲が追い風になりました。東京空襲に衝撃を受けたのは、山本だけではなく、軍令部や陸軍も同様だったのです。
帝都空襲の報を受けた永野修身軍令部総長は、総長室の中をぐるぐる歩き回りながら、「大変なことになった」と繰り返しつぶやいていたとか。もちろん、軍令部内でもとにかく二度と東京が空襲されることがないよう航空哨戒圏を東に拡大すべしとの声が高まりました。
また、海軍の作戦に兵力を出すことを渋っていた参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐も掌を返し、ミッドウェイ作戦やアリューシャン作戦に陸軍部隊を提供すると申し出てきます。当初は強い反対を受けていたミッドウェイ作戦も、一転して、可及的速やかに実施するようにと急き立てられるようになりました。
■目的が割れたミッドウェイ作戦の迷走
しかし、軍令部や陸軍の思惑が入ってきたことで、作戦目的はさらに複雑化することになります。すでに述べたように、山本の本来の企図は、ミッドウェイ島の米軍基地を攻撃し、それを救援するために出てくる米空母を撃滅することにありました。
けれども、軍令部のように、航空哨戒圏を拡大することを重視するなら、ミッドウェイ島を占領し、航空基地として使用することが重要になります。
このあたり、やはり齟齬(そご)が生じていたらしく、機動部隊参謀長の草鹿は、戦後になっても、ミッドウェイの占領が第一の目的であったと語っています(前掲『聯合艦隊』)。
狙うのは機動部隊か、それとも陸上基地なのか。この優先順位も十分に検討されないまま、ミッドウェイに向かって機動部隊は出てゆくことになります。
ドーリットル空襲は日本にもうひとつ影響を与えました。それまでは比較的正確だった大本営による戦果の発表が、これを機にでたらめなものになっていくのです。ドーリットル空襲で昭和天皇は、日本の防空の総責任者である防衛総司令官の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)大将に被害を直接報告するよう命じます。
■天皇に明かされた空襲の不都合な真実
空襲後、東日本の防衛を担当する東部軍は敵機9機を撃墜したと偽りを発表していましたから、杉山元(すぎやま はじめ)参謀総長は東久邇宮が本当のことを昭和天皇に知らせるのを恐れ、「防衛総司令官には、陛下に直接報告する権限はないからいけない」と妨害にかかります。
しかし、昭和天皇のたっての頼みとあって、東久邇宮は、総理兼陸軍大臣の東條英機(とうじょう ひでき)と杉山が侍立している前で、「敵機は一機も撃墜できませんでした。また今のような体制では、国内防衛は不可能です」と暴露してしまいました(東久邇稔彦『やんちゃ孤独』、読売新聞社、1955年)。
国民も、晴天の昼間にもかかわらず、誰も墜落した米軍機を見ていないことから、発表はどうもウソらしいと気づき、「撃墜したのは9機ではなくて、くうき(空気)だろう」とささやきあったといわれます。東條総理も激怒し、「こんなでたらめな報道をやったのでは、今後の戦果の発表の信を内外に失う」と、取り消しを求めましたが、結局は訂正されませんでした。
実際には全機が日本の領空を脱し、一機がソ連、他は中国の沿岸地域に不時着しています。
そのうち中国軍が確保している地域までたどり着けなかった8人が日本の捕虜になりました。非戦闘員への機銃掃射など、戦時国際法に違反した彼らは、捕虜ではなく戦争犯罪人として、上海で軍事裁判にかけられ、全員に死刑判決が下されます。
そのうち3人は刑を執行され、5人は執行猶予となり、拘禁中に獄死した一人を除いた4人は戦後、釈放されました。

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大木 毅(おおき・たけし)

現代史家

1961年東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学他講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師等を経て著述業に。雑誌「歴史と人物」の編集に携わり、旧帝国軍人を多数取材。『独ソ戦』(岩波新書)で「新書大賞2020」大賞を受賞。近刊に『指揮官たちの第二次大戦 素顔の将帥列伝』(新潮選書)、『戦史の余白 三十年戦争から第二次大戦まで』(作品社)、『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)など。

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(現代史家 大木 毅)
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