インターネット、SNS、AIなど日々膨大な量の情報に囲まれる中、どのように誰が「決めるのか」が組織の成長の鍵になっている。作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんは「あるアメリカ企業は2000年代後半、自社の主力事業だったDVDレンタルモデルを、自ら破壊する方向へ舵を切り、成功を収めた」という――。

■不完全情報下の決断
現代社会は「情報化社会」と呼ばれている。
インターネット、SNS、AI、ビッグデータ――。我々は歴史上かつてない量の情報に囲まれている。しかし、その一方で、多くの組織は以前よりも「決められなく」なっている。情報量が増えすぎた結果、「完全な情報が存在する」という幻想が生まれたからである。
しかし、『作戦要務令』(※)は、その幻想を明確に否定している。
(※)旧日本陸軍の『作戦要務令』。元陸軍参謀の実業家・大橋武夫は「現代企業のための優秀な経営書」と評価
「敵情特に其の企図は多くの場合不明なるべし」
ここで重要なのは、「敵情は不明である」という点を前提条件としていることだ。つまり、『作戦要務令』は、「完全情報など存在しない」という認識から出発しているのである。
これは極めて重要な思想である。現代の多くの組織は、「情報不足」を理由に意思決定を先送りする。追加調査を行う。
市場分析を続ける。専門家会議を開く。コンサルタントを入れる。リスク検証を繰り返す。しかし、その間にも状況は変化し続ける。つまり、情報を集めている間に、「戦場そのもの」が変わってしまうのである。
『作戦要務令』は、この問題を非常に深く理解していた。戦場では、敵の正確な兵力も、本当の意図も、次の行動も、完全にはわからない。むしろ、わからない状態のほうが普通である。だからこそ、重要なのは「完璧な分析」ではない。不完全な情報の中でも決断できるかどうかなのである。
ここで『作戦要務令』が特に警戒しているのが、「受動」の状態だ。

「一度受動の地位に陥らんか、彼の意志に支配せられ、終に敗北失敗に終る」
つまり、一度主導権を失えば、組織は相手のペースで動かされるようになる。
■「正解」を待たずに生き残ったNetflix
この問題を象徴しているのが、Netflixである。
(※)世界190カ国以上で展開する世界最大手の有料会員制動画配信企業で、売上高は約6兆円規模(2026年1月時点)に達する。
もともとNetflixはDVDレンタル配送企業だった。しかし2000年代後半、動画配信技術と通信環境の進化によって、映像産業の構造が大きく変わり始めた。当時、動画配信市場はまだ不透明だった。通信速度の問題もあった。著作権処理も複雑だった。ユーザーが本当に「配信」を主流として受け入れるかもわからなかった。
つまり、完全な情報は存在していなかったのである。しかし、Netflixは、「不確実だから待つ」という選択を取らなかった。むしろ、自社の主力事業だったDVDレンタルモデルを、自ら破壊する方向へ舵(かじ)を切った。

これは極めて危険な決断だった。もし動画配信市場が成長しなければ、既存事業まで失う可能性があったからである。実際、当時は株価暴落や利用者離れも起きている。
しかし、Netflixは「環境変化の速度」を重視した。つまり、「正解を待つこと」の危険性を理解していたのである。結果として、Netflixは映像配信企業へ転換し、生き残った。
ここに、『作戦要務令』と現代経営の共通点がある。情報とは、「完全になってから使うもの」ではない。不完全なまま使うものなのである。
だからこそ、『作戦要務令』は、情報収集よりも「状況判断」を重視する。重要なのは、情報量ではない。限られた情報の中で、どれだけ早く本質をつかみ、方向性を決められるかなのである。

現在、日本社会では、「失敗しないこと」が過剰に重視されている。その結果、多くの組織が「決められない組織」になっている。しかし、危険なのは「間違った決断」だけではない。決断しないことで主導権を失うことなのである。
『作戦要務令』が教えているのは、この極めて単純な事実だ。完全情報は存在しない。だからこそ、組織は不完全な情報の中で決断しなければならない。
戦略とは「正解を知ること」ではない。不確実な世界の中で、主導権を失わずに動き続けることなのである。
■最終的に決めるのは「データ」ではなく「人間」
現代社会では、「データに基づく意思決定」が絶対的な正しさであるかのように語られることが多い。
AI、ビッグデータ、アルゴリズム、統計分析――。企業経営でも政治でも、「科学的判断」が重視されるようになった。
もちろん、データ分析そのものは重要である。しかし、その一方で、現代組織はある根本的問題を抱え始めている。
それは、「誰が最終的に決めるのか」が曖昧になりつつあることだ。
ここで極めて重要になるのが、『作戦要務令』における「決心」の概念である。『作戦要務令』は、「決心」について非常に明快に定義している。
「決心とは、『私はこうする』と意思を決定することである」
この文章は、一見すると単純に見える。しかし、そこには極めて重要な思想が含まれている。ここでいう「決心」とは、単なる分析結果ではない。「私はこうする」という意志表明なのである。
つまり、『作戦要務令』は、「最終的に決めるのは人間である」という点を極めて重視している。
■「自分で決める責任」から逃れたい組織
これは現代社会において、むしろ忘れられつつある感覚だ。
現在、多くの組織では、「データがそう示しているから」という言葉が免罪符のように使われる。
市場調査の結果、AI予測、コンサルタント分析、統計モデル、需要予測……。
もちろん、それらは意思決定の重要材料になる。しかし、それらはあくまで「補助」に過ぎない。なぜなら、未来は本質的に不確実だからである。どれだけ高度な分析を行っても、未来を完全に予測することはできない。
特に新・帝国主義の時代では、その傾向がさらに強まっている。アメリカの政権交代一つでエネルギー政策が変わる。中国経済の減速で市場構造が変わる。AI革命で産業そのものが再編される。戦争や制裁によってサプライチェーンが寸断される。
つまり、現代世界は「前提条件そのもの」が高速で変化している。
そのため、どれほど高度なデータ分析を行っても、「絶対的正解」は存在しない。にもかかわらず、多くの組織は、「分析の正しさ」に依存しようとする。「自分で決める責任」から逃れたいからである。
実際、データ分析に従った結果失敗した場合、「分析結果が間違っていた」という説明が可能になる。しかし、自らの意志で決断して失敗した場合、責任は直接その人物へ帰属する。だからこそ、現代組織では「誰も決めたがらない」という現象が起きる。
■「コンピュータに決心させてはならない」
ここで『作戦要務令』が重要なのは、「決心」を意志の問題として定義している点だ。つまり、最終的には「私はこうする」と言える人間が必要なのである。
この思想を戦後、経営論へ応用した大橋武夫は、さらに興味深いことを述べている。
「コンピュータに決心させてはならない」
この言葉は、現代において驚くほど示唆的である。もちろん、大橋がこの文章を書いた時代、現在のAI社会は存在していない。しかし、本質的問題はまったく変わっていない。
コンピュータは分析を行うことはできる。膨大なデータを処理することもできる。しかし、「どう生きるか」「何を守るか」「どこに賭(か)けるか」という最終判断は、人間にしかできない。なぜなら、それは単なる計算ではなく、「価値判断」だからである。
新・帝国主義の時代では、環境変化の速度がさらに加速する。その時、「分析が完全に終わるまで待つ」という発想は、組織を硬直化させる。だからこそ、最後には「私はこうする」と言える人間が必要になる。
つまり、戦略の核心とは、「知識量」ではない。決心できるかどうかなのである。
データは重要である。分析も必要である。しかし、それらはあくまで補助に過ぎない。最終的に未来へ責任を負うのは、常に人間なのである。

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佐藤 優(さとう・まさる)

作家・元外務省主任分析官

1960年、東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕・起訴され、2009年6月に執行猶予付き有罪が確定。2013年6月、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)
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