人生の中で訪れる試練をどう乗り越えればいいのか。大卒後に就職した企業で65歳まで勤め上げるつもりだった50代の管理職は突如、方針を大きく転換。
1100kmも離れた地へ妻と移住することに。いったい何が起きたのか。ジャーナリストの溝上憲文さんが取材した――。
■65歳まで勤め上げるつもりだった
人生で働く期間が長くなる中、今の仕事のままでいいのか、転職すべきなのか、あるいは仕事以外の病気や家族の介護などの悩みを抱え、今後のキャリアに悩む中高年層も少なくない。
いわゆる「中高年の危機」に直面し、悪戦苦闘しながら自分なりの働き方、生き方を見出した人を紹介したい。
小林明夫さん(仮名・57歳)は現在、スタッフサービス・エンジニアリング(SSE)の派遣エンジニアとして働いている。以前は違う会社に勤務していた。
福島県福島市生まれの小林さんは宮城県の大学の電気工学科を卒業後、福島市の大手情報機器メーカーのエンジニアとして入社した。
福島県はOA機器・IT機器の国内有数の製造拠点として知られる。入社後はプリンターの基板設計を5年ほど担当し、その後「Windows95」が社会現象となり、パソコンの需要が大きく伸びたことで会社も生産体制を強化。電気関係に詳しい小林さんはデスクトップ型パソコンの電気系の品質保証担当に起用され、以来、品質保証のキャリアを積み上げてきた。
入社28年目の50歳のときには品質保証部門のチームリーダー(管理職)として重責を担っていた。
普通のサラリーマンと同じく定年の60歳を迎え、その後は再雇用で65歳まで働き続けることを漠然と思い描いていた。
■なぜ1100km離れた異郷へ移住したか
順風満帆な会社員生活を送っていた小林さんだったが、突如転機が訪れた。
ある日、妻から義母の介護の相談を受けた。
「長崎県佐世保市で87歳の妻の母が1人で暮らしていました。地元に暮らす妻の姉もいましたが、膵臓ガンで亡くなり、頼れる人は誰もいません。当初は妻も年に2~3回、様子を見に行っていたのですが、徐々に足腰も弱くなり、耳も聞こえづらく、たびたび転んであちこち擦りむいているという話を聞きました。最初は福島に呼ぼうと考えましたが、義母は雪が嫌いだというので連れてくることもできない。しょうがないねということで会社を辞めて妻と長崎で暮らすことを決意しました」(小林さん、以下同)
とはいっても長年築いたキャリアを定年まで10年をきった年齢でばっさりと捨てるのは勇気がいる。定年まで勤め上げたほうが退職金の額も断然多いはずだ。
何より、1100kmも離れたまったくの異郷で暮らすのは大変なことだろう。
■移住決断をさせた3年前の父の死
だが、小林さんは移住を決断した。聞けば、その背景にはもうひとつの思いがあった。

「3年前に父を事故で亡くしているんです。1人暮らしの父が朝の4時に散歩に出かけようとして階段から転落したらしく、倒れているのをお隣の方が気づいたときは約3時間が経過していました。救急車で病院に搬送されたものの、私が駆けつけたときはすでに意識はなく、結局、脳挫傷で亡くなりました。まだ74歳、2週間前は元気な姿を見ていたのでショックでした。私の自宅は実家まで車で20分ぐらいですが、もし近くにいたら、あるいは一緒に住んでいたら、早く見つけて亡くなることはなかったのにと、悔しい思いでした」
父を助けられなかった自分を責め続け、苦しんだ。そんな思いも重なり、退職を決意したという。
「父の死がなければ義母の実家で暮らすことを考えなかったと思います。例えば仕事を辞めないで義母を施設に入れるなど、無理にでも呼び寄せるとかいろんな方法を考えたでしょう。でも私自身の悔いも含めて、妻に同じ思いをさせたくないという思いもありました」
退職を決意し、義母の実家の長崎県佐世保市に移住することにしたが、やるべきことが山積みだった。
当然、上司からも慰留された。台湾、中国、フィリピンなど海外から材料を購入しており、独自のコネクションを持っていたことなどから「退職を1年待ってほしい」と懇願された。
■佐世保には仕事がなかった
小林さんはその間、仕事と並行して長崎での再就職先探しに奔走した。
しかし、ここで予期せぬ事態が発生する。
移住先の佐世保には培ったスキルを活かせるような企業がなかったのだ。
「退職金も出ますし、今より給与が下がることは覚悟していましたし、この先、10~15年働けるところを見つけられれば、生活していけると見込んでいました。ところが佐世保市は造船関連の会社や食品関係の会社はありましたが、私がいた情報機器や電子系の企業が1社もありません。長崎県内に範囲を広げても、車で通える距離ではありませんでした」
会社の退職金は1500万円。当座の生活費には困らないとしても、再就職先が決まらなければ、老後を含む長崎での生活は難しい。
製造業関連の企業に履歴書を20通程度送ったが、50歳という年齢のカベもあるのか、ほぼ全滅だった。
最終的に唯一、小規模ながら3カ月間の試用期間の後に正社員にするという会社が現れ、1年後の51歳のときに長崎行きが決まった。
■「正社員にする」話を反古にされた
ところが、またまた試練が待ち受けていた。試用期間後の正社員(本採用)が反古にされたのである。
「LED機器の設計・製造の会社でイチから教えてもらい、ある程度機械なども使えるようになったのですが、大阪にある本社から採用できないと言ってきたのです。それでは約束が違いますし、ショックでした。
正社員にしてもらえないなら仕事を続けるわけにはいかないので、お断りしました」
試用期間であっても正当な理由がなければ不当解雇に相当する事案であるが、小林さんに会社と争っている時間的余裕はなかった。
突然の失業状態に陥り、再び就職先探し。地元のハローワークに通い、何件も紹介を受けたが、結局決まるには至らず、長崎に来てから3カ月が経過していた。
「仕事が見つからないことに妻も心配していたようですが、大丈夫だからと言い続けました。退職金もありましたし、悩んでいてもしょうがない、とにかく前に進むしかない、なんとかなると自分に言い聞かせていました」
まさか50歳を超えて、こんな目に遭うとは……。「前へ」と自分を自分で励まし続けていたが、そんな後悔はあったに違いない。
■偶然出会った派遣エンジニアの仕事
ハローワークが使えないならWebだと、必死に情報収集。そして、ようやく出会ったのがSSEの派遣エンジニアの仕事だった。
佐世保市や近隣での仕事も紹介されるなど自力で仕事を見つけるよりも安心だと感じた。当初は鹿児島県や広島県の工場に約3カ月間派遣され、その後、SSEの常用型派遣(無期雇用派遣)社員として、自宅から車で50分の距離にある半導体用シリコンウエハーのメーカーで働いている。
半導体基板の母体となるウエハーの試作と作られた結晶の出荷などの管理の仕事をしている。前職の情報機器の品質管理とは違い、機器の材料となる基盤の仕事であるが、小林さんは満足している。

「前職の仕事の内容と遠くはないですが、近くもない感じです。業務はイチから覚えることになりますが、前職でも工場勤めを20年以上やってきたので、工場のどの部門に話をつければうまくいくのかという交渉や連絡などのハンドリングは経験が生きて、1~2カ月でおおよそのことはできるようになりました」
職種は異なるが、工場で経験した折衝やコミュニケーションなどのポータブルスキルは今も活きていると実感し、やりがいも感じている。
「前職のパソコン機器も毎年のように更新され、そのたびに新しい知識を吸収するのが仕事でしたし、新しいことを学ぶことは苦ではありません。今の仕事もすごくおもしろいし、やりがいもあります。できれば65歳以降も働き続けたいし、70歳を超えても働けるうちは働きたい」
そう意欲を露わにする。
■月収45万→25万円でも納得
現在57歳。勤務時間は午前8時から午後4時45分までのフルタイム勤務だ。退勤後6時には帰宅できる。義母も小林さん夫婦が一緒に住むようになってから元気になったという。
「義母は93歳になりますが、家の中ではしっかり歩いています。日中は妻に見てもらい、私の部屋は義母の隣にあるので帰宅後は、気になったらすぐに顔をすぐに出せるようにしています。何より妻がしっかりと義母に向き合えていること、また私も一緒に義母の生活を支えられることがうれしいですし、今の時間はかけがえのない大切な時間だと思っています」
生活するための収入は前職の月収45万円から25万円と、ほぼ半減した。

それでも小林さんは「今は私だけの収入でなんとか生活できる状態になりました。もちろん将来のことや病気のことなど、お金のことに不安がないわけではありませんが、毎年昇給もしていますし、貯蓄に回していきたいと考えています」と、今の生活に満足している。
長年勤めた大手情報機器メーカーから51歳での転身、しかも生まれ育った福島県から九州の長崎県への移住の道を選択した小林さんは今、こう振り返る。
「私の転機は家族のこともありましたが、悩むぐらいなら自ら前に進むことでいろんな道が拓けることを実感しています。確かに職を変えることでうまくいかないこともいろいろありましたが、立ち止まるより前に進むことでいろんな出会いもありますし、いろいろ学ぶこともありますし、そこからまた道が生まれます。金銭的、体力的不安があったとしても、まずはどう動けばうまくいくのかを自身で考えることが大事だと思っています」
小林さんの趣味の1つは「廃道めぐり」という。役割を終えて使われなくなった古い道やトンネルを探索することだ。長崎に来てからも暇を見つけては1人探索している。道なき道をひたすら歩んできた小林さんにとって、前職の退職金や月給が減ったことよりも、「人生全体」で得たことの大きさに満足しているに違いない。

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溝上 憲文(みぞうえ・のりふみ)

人事ジャーナリスト

1958年、鹿児島県生まれ。明治大学卒。月刊誌、週刊誌記者などを経て、独立。経営、人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマとして活躍。著書に『人事部はここを見ている!』など。

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(人事ジャーナリスト 溝上 憲文)
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