徳川家康は江戸幕府を開き、約260年続く江戸時代の礎を築いた。歴史小説家の伊東潤さんは「家康は何でも平均点の凡人だったが、信長にも光秀にも秀吉にもない資質があった」という――。

※本稿は、伊東潤『偉人・敗北からの教訓』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
■みんなを巻き込む「お祭り男」の欠点
――家康と秀吉の性格や考え方の違いは、どんなところにあったのでしょうか?
秀吉には、「人を巻き込んでその気にさせる」奇妙な力がありました。信長のようなカリスマでもなく、光秀のようなバランス感覚もありません。秀吉は「みんなでやろうぜ!」という感じで雰囲気を盛り上げ、部下に力以上のものを発揮させる名人でした。いわば「お祭り男」的リーダーシップです。
ただし感情的な上に思いつきで動き、飽きっぽくて身勝手な点は、秀吉の若い頃からの欠点でした。
それらの短所が天下人になるにつれて助長され、さらに旺盛な自己愛と自己顕示欲が頭をもたげてきます。秀吉は、周りから「凄い」「素晴らしい」などと賞賛されるのが大好きで、周囲を驚かせることばかりを考えるようになります。
■幼少期に学んだ「我慢」が最大の武器に
一方、家康はカリスマ性で信長に劣り、頭脳の明晰さで光秀に劣り、発想の斬新さで秀吉に劣り、何らいいところがありません。ところが逆に、そこが家康の強みなのです。すなわち何でも平均点の凡人だからこそ、苦言を呈する者たちの意見に耳を傾け、衆の力を恃み、慎重に物事に取り組んでいけたのです。
家康という人間の第一の美点は我慢ができる点です。
家康は幼少年期の厳しい経験から、耐えることを学びました。それが、彼の最大の武器になっていくのです。
また「失敗を自責で考えられる」という点も、家康の美点です。幾多の失敗を自責で考え、同じ過ちを繰り返さないようにしていました。
さらに家康は、青年から壮年時代にかけて、敵の武田信玄や同盟相手の信長の、きらめくばかりの才能を目の当たりにし、「凡庸な己を知る」ことができました。
家康が天下を取れた上、それを子々孫々まで伝えていけたのは、「忍耐力があった」「失敗を自責で考えられた」「己を知っていた」の三点に尽きます。
■関東平野を変貌させた家康の偉業
――伊東さんが注目する家康の偉業は何ですか?
信長と秀吉が成し得ず、家康だけが成し得た偉業としては、天下を持続可能なものとして次の世代に残したことです。しかし、それだけなら万民のための偉業とは成り得ません。信長と秀吉が関心を示さなかったこと、すなわち治水や新田開発により、民を豊かにしたからこそ、家康は偉業を成し遂げたと言えるのです。
その最たるものが利根川東遷事業です。天正十八(1590)年に江戸入りした家康は、江戸湾に注ぎ込んでいた利根川の流路を変えようとします。というのも「坂東太郎」と呼ばれるほど利根川の氾濫は日常茶飯事で、とくに低地となる武蔵国東部には、広大な湿地が広がっていました。

これでは堤防を造ったところで役に立たないと思った家康は、利根川の流路を東に向け、銚子から太平洋に注ぐようにします。この計画は家康の死後に完成し、耕作できない湿地ばかりだった関東平野を一大穀倉地帯に変貌させます。経済成長、すなわち耕作地の拡大こそ国家と政権を安定させる基盤だと、家康は知っていたのです。
■学ぶ姿勢を失わない家康
――なぜ家康は、信長や秀吉が成し得なかった偉業を成し遂げられたのですか?
家康は学ぶ人です。信長や秀吉のみならず、周囲の人から様々なことを学んでいたと思われます。例えば敵対していた武田信玄から学んだことも多々あったと思われます。また信長や秀吉を反面教師としたのも事実です。
こうした学ぶ姿勢を、人は年齢を重ねると失ってしまうものです。それはなぜか。
私も年を取ってから分かったのですが、学んだものが長く使えない、ないしは使う目的がなくなると、人は学ぶことが面倒になり、新しいことを学ばなくなります。そして享楽的になり、その時が楽しければよいと考えるようになるのです。
例えば、私は哲学や純文学の本を読むことが好きだったのですが、60歳を超えてから、「そんな本を読んで何になる」という思いが芽生え、自分の仕事に関連する本ばかり読むようになりました。
しかしそれではいけないと思い直し、最近は読むようになりましたが、それでも克己心を奮い立たせないと、なかなか難しいものです。
■文句も言わず、田舎への左遷に従う
――ここで家康の敗北から私たちは何を学ぶべきか? 本日の教訓をまとめていただきましょう。
第一に「何事も焦らない」です。
会社や組織では、ちょっとした風向きによって左遷されることがよくあります。しかし腐らずに仕事をしていると、再び日の目を見ることがあります。
ある女性アナウンサーの話ですが、ずっと干されていても腐らず、20年近くアナウンサー部で裏方として働いていたところ、40歳を超えてからチャンスがめぐってきて、今では番組を持つほどになりました。
私がいた外資系企業でも、そんなことは枚挙に暇(いとま)がありませんでした。「英語に堪能だけど仕事ができない」というレッテルを貼られていた人が、外国人の上司が来たことで急に出世し始め、その外国人が帰国した時には、後釜に据えられたことさえありました。
第二に「いったんこうと決めたら徹底する」です。
家康は秀吉に臣従することで大きな挫折を味わいますが、いったん臣従すると決めたら、徹底的にその道を貫きました。関東に移封が決まった時も、「勘弁して下さい」と言うこともできたと思いますが、どうせ結論は決まっていると思い、文句の一つも言わずに従いました。何とか移封を免れようとして改易となった織田信雄とは対照的です。

■「嫌いな人」秀吉からも信頼を勝ち取った
何事でもそうですが、嫌な仕事を回されても、どうせやるなら「喜んで引き受けます」と言うのが正解です。ある編集は私の担当にされた時、「伊東さんの担当になってうれしくて夜も眠れませんでした」と言って、私を喜ばせました。しかし後に酒の席で、「実は自分には歴史の知識がなく、不安だったので一度は断ったんです」と本音を明かしてくれました。私は「役者やのう」と感心しました。
第三に「嫌いな人でも好きになる努力をする」です。
おそらく家康は秀吉をよく思っていなかったはずです。しかし臣従すると決めたら、好きになる努力をしたに違いありません。すると互いに通じるところがあって仲よくなり、秀吉は死の床で家康を執政に任命し、豊臣家の天下を託します。
好悪の感情は取るに足らないものです。とくに「嫌い」という感情は、相手をよく知らないから生じるのです。最初から「この人とは合わない」と決めつけず、相手に関心を持ち、相手をよく知ることで、分かり合えることもあるのです。

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伊東 潤(いとう・じゅん)

歴史小説家

1960年、神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』(PHP研究所)で「第1回本屋が選ぶ時代小説大賞」を、『国を蹴った男』(講談社)で「第34回吉川英治文学新人賞」を、、『巨鯨の海』(光文社)で「第4回山田風太郎賞」と「第1回高校生直木賞」を、『峠越え』(講談社)で「第20回中山義秀文学賞」を、『義烈千秋 天狗党西へ』(新潮社)で「第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)」を受賞。近刊に『海峡の女神』(光文社)がある。BS11歴史情報番組『偉人・敗北からの教訓』では解説を務める。

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(歴史小説家 伊東 潤)
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