時代劇でおなじみの大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、数々の難事件を「大岡裁き」で解決した名奉行として描かれる。活躍を伝える「大岡政談」は約80話あるが、本人が裁いたと確認できるのはたった1話だ。
なぜ他人の名裁きが大岡越前の手柄にすり替わったのか。江戸文化風俗研究家・小林明さんの著書『江戸町奉行列伝』(星海社新書)より、名奉行伝説が生まれた背景を紹介する――。
■消防団の礎を作った男
大岡忠相が八代将軍・徳川吉宗により江戸南町奉行に抜擢され、江戸の都市政策の改革に携わることになったのは享保二年(一七一七)、四十一歳のときだった。
吉宗からの信頼が厚かったのか、その後は元文元年(一七三六)まで二十年近く南町奉行の要職を勤めあげた。
代表的な功績の一つが、江戸の防火対策だろう。木造家屋が過密している江戸は、ひとたび火災が発生すると大惨事につながった。そこで延焼を防ぐ「防火帯兼避難地」である火除地を増やした。また、瓦屋根や土蔵の建設を推奨し、燃えにくい町作りを推進した。
さらに、町火消の制度化である。享保五年(一七二〇)、消防隊の組織「いろは組」を編成し、防火体制を強化した。
忠相が目指したのは火災が発生した際、その場にいる人々が即座に消火活動に取りかかることができる、組織化された自衛だった。忠相の組織した町火消は、現代の消防団の礎となっている。

■庶民に寄り添おうとした名奉行
忠相はまた、北町奉行の中山時春とともに小石川養生所の設立にも尽力し、下層民の健康管理対策に従事した。
八代将軍・吉宗の時代、農村から人が流入したことによって江戸の人口はますます増加していた。人が増えれば格差を生む。困窮した者たちが都市の下層民を形成した。
享保六年(一七二一)十二月、町人たちが意見や不満を直訴できる目安箱に、漢方医の小川笙船(おがわしょうせん)が貧窮者や病人に薬を与え、治療する医療救済施設を設置する嘆願を投書した。その投書が吉宗の目に留まり、御側御用取次の有馬氏倫に療養所の設立を命じ、設立に寄与したのが中山と忠相だった。
また、のちに「甘藷(かんしょ)先生」と呼ばれる青木昆陽(あおきこんよう)を登用し、飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培も助成している。
庶民に寄り添おうとした名奉行だったことは、疑いようがない。その結果、江戸の人々は忠相に深い信頼を寄せたのである。
■約80話、創作だらけの「大岡政談」
忠相といえば公正で機知に富み、人情味ある「大岡裁き」が有名だ。俗に「大岡政談」といわれ、その数、約八十話。
もっともこれは、ほとんどが後世の創作だ。
忠相にはそもそも山田奉行時代の逸話からして作り話がある。
山田奉行とは伊勢国山田に駐在し、伊勢神宮や同社の領地である「神領」を統治する遠国(おんごく)奉行で、門前町の管理や伊勢・志摩の訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担当する幅広い職務だった。
伊勢の地には長年、隣接した松坂(三重県松阪市)との間に、領地の境界をめぐる争いが絶えなかった。だが当時の松坂は紀州藩に属していたため、歴代の山田奉行は御三家の威光を恐れて裁定を下すことを先送りしてきた。
それを、忠相は紀州の権威に屈さず、松坂側の者の三人に非があるとして処分を下したという。
当時の紀州藩主が、のちの八代将軍・徳川吉宗。吉宗はこの裁きを高く評価し、将軍に就任するや忠相を重職に登用――と、いわれているが、山田と松坂との境界をめぐる問題といった複雑な裁定は、いくら忠相といえども一人で下すことはできない。評定所へ諮問する必要がある。そして、それを実行したのは忠相よりひと昔前の山田奉行・桑山貞寄(くわやまさだより)(一六一三~一七〇〇)だったことが、同地の記録『山田奉行御役所旧記』にある。
■“ヒーロー”にちょうどよかった
これを忠相の業績にすり替えてしまったのは、忠相を題材とした歌舞伎の脚本を制作した芝居関係者だろう。忠相には美談・英雄談が多くある。それはとりも直さず、忠相こそが「正義の奉行」「奉行はかくあるべし」というヒーローとして祭り上げるのに、適切だったからだろう。

例えば「大岡政談」では有名な落語・講談の演目「三方一両損」――。
ある男が財布を拾った。金三両と持ち主を特定できる書き付けが入っていたので、男は正直に落とし主に届けた。ところが、届けた相手が謝礼として財布の三両を渡そうとすると、男はかたく固辞。あげく「渡す」「いらない」で大げんか――それなら「お奉行様に沙汰してもらおうじゃねぇか」と、南町奉行所に訴え出た。
話を聞いた忠相は、こういった。
「それでは私が一両出すから、四両を二人で分けて二両ずつ受け取るが良い。本来、二人とも三両を独り占めできたのに一両損。私も一両損。三方一両損だ」
落語ではこの後、忠相が二人に食事をご馳走する。
「あまり食いすぎると腹をこわすぞ」と忠相。
「いえいえ、多くは(大岡は)食えねぇ。
たった一膳(越前)」
よくできた噺だが、実は江戸時代初期の奉行・板倉勝重(いたくらかつしげ)の施政を記録した『板倉政要』に元ネタが載っている。ここでは拾ったカネ三分で言い争う二人に、
「私が三分加えて合計六分とするから、二人で三分ずつ分け合え」
と裁いている。日本近世史の研究者・辻達也氏は、忠相以前にこの話は成立しており、それがのちに忠相の事績にすり替わって流布したのではないかと示唆している。
■母の愛を見抜いた名裁きにも元ネタ
なお、『板倉政要』より前には見られないのかというと、実は元禄二年(一六八九)、浮世草子の作家・井原西鶴が書いた作品『本朝桜陰比事(ほんちょうおういんひじ)』にも、似たような話が載っている。『本朝桜陰比事』は中国の南宋(一二~一三世紀)の時代に編纂された判例集『棠陰比事(とういんひじ)』に倣った、裁判を題材にした短編集だ。つまり、そもそもは中国伝来の判例、というか故事が元ネタだった可能性がある。
娘の親権をめぐって実母と継母が争い、奉行所に訴え出た、「実母・継母の詮議」も有名だ。
「二人でその子の両手を引き合い、勝った方の子とせよ」
忠相はそう指示した。二人は互いに、力の限り娘の手を引っ張った。娘はたまらず「痛い」と叫んだ。すると片方が手を放す。
「母なら娘の痛みを察して手を放す」
と忠相は言い渡した。
手を放したのは実母だった。忠相は彼女に親権を与えた――。
実はこの話も中国の『棠陰比事』に元ネタがあり、それを典拠として大岡政談に再編集されたことがわかっている。そもそもはこんな内容だった。
前漢(紀元前二〇六年~)の頃、ある兄弟の二人の妻が同じ時期に妊娠し、兄嫁は死産、弟嫁は無事に出産した。ところが兄嫁は子が死んだことをずっと隠しており、三年にわたって弟嫁の子を自分の子だと主張し、裁判に訴えた。
そこで裁判官は、庭で二人の妻に子を奪い合わせた。兄嫁は猛々しく、子の手足が千切れんばかりに引っ張り、弟嫁は手足が傷つくのを悲しんだ。
「兄嫁よ、おまえはその子を盗もうとしている。子の手足が損なわれることを悲しむ弟嫁の心は、にわかに作り出せるものではない。実の母が弟嫁であることは明らか」
――裁判官はそう判決を下し、兄嫁を罰した。
■忠相が裁いた事件はたった1件
約八十例もある「大岡政談」のうち、忠相の南町奉行在任中に起きたと確認できるのは実のところ三例だけである。
しかもそのうち、吉宗のご落胤(身分の低い女性に産ませた私生児)を名乗る山伏・天一坊(てんいちぼう)の虚言を見抜き成敗した「天一坊事件」と、奉公していた医師を殺害した直助という男を裁いた「直助事件」の二例に、忠相は関わっていないことがわかっている。
天一坊が実在し、将軍のご落胤を称して死罪となった事件は徳川幕府の正史『徳川実紀』に載っているが、裁いたのは勘定奉行・稲生正武で、忠相ではない。
「直助事件」の裁判も、忠相が統括する南町奉行所とは違う、もう一つの北町奉行所の中山時春によるもので、忠相は関与していない。
唯一、忠相が裁いたのが、『享保通鑑』に所収されている「白子屋お熊事件」(享保十二年/一七二七)である。
材木商の白子屋の娘・お熊の婿が、女中に剃刀で襲われた。婿は一命を取り留めたが、女中の動機が不明。南町奉行所が捜査したところ、お熊とその母が女中に指示していたことが判明した。
■忠相が下した判決――死罪、島流し、追放
お熊と婿は不仲で、かつ、お熊は他の男と不義密通していたのだが、経営が厳しい白子屋は婿の実家から援助を受けていたため、おいそれと離縁できない。そこで殺されてしまえば、婿の実家も離縁はやむなしと納得する――そう計画したお熊と母親が共謀したというのが真相だった。
お熊と不倫相手、実行犯の女中は死罪、母は島流し、お熊の父親である白子屋主人は監督不行届で江戸から追放と、厳しく罰せられた。この判決を下したのが忠相である。凶悪犯は厳罰に処す、忠相の姿勢が見て取れる。
ただしこの事件はしばらくの間、世間から軽んじられた形跡がある。大岡政談の逸話を集めた明和六年(一七六九)の『隠秘録(いんぴろく)』から、唯一史実であるはずの白子屋お熊事件が漏れているのである。理由はわからない。
それがやがて、事件が芝居などの題材として脚色され、世間に知れ渡るようになると、忠相が下した判決として注目されることになるのである。
■火あぶり直前の無実の男を救う
では、忠相が名奉行と謳われるに至る事績がまったくなかったのかというと、そんなことはない。放火の罪で火あぶりに処される直前の無実の者を救った、「伝兵衛事件」(享保十年/一七二五)がある。
江戸で火災が発生した。火付盗賊改方は目明し(密偵)の報告を受け、伝兵衛という男を放火犯として捕らえた。伝兵衛は犯行を自白し、北町奉行の諏訪頼篤が火あぶりの刑を言い渡した。
刑が執行されるまでの間、伝兵衛は人通りの多い場所に晒し者となっていた。すると、「放火の日に伝兵衛と一緒にいた」と、声をあげる者が現れた。忠相はそれを人づてに耳にする。
裁判は南と北のふたつの奉行所が毎月交互に行っており、この月は北町奉行所の担当で、南町奉行の忠相に権限はない。それでも越権行為を承知で、忠相は「再吟味」、つまり取り調べのやり直しを北町奉行所に忠告した。
諏訪頼篤が伝兵衛に改めて問いただすと、「やっていない、火付盗賊改方の取り調べが厳しかったので、認めるしかなかった」と吐露。この結果、伝兵衛は無罪放免となり、代わりに火盗改が出仕停止(停職)、目明しが死罪となった。
江戸庶民は忠相を称賛した。同時に奉行所も「冤罪」の教訓とせざるを得ず、以後、無実の罪人は出さないという意識が強くなったといわれている。
忠相の決断が一人の男の命を救ったのである。

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小林 明(こばやし・あきら)

江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
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