※本稿は、中山茂大『人喰い熊大国ニッポン』(小学館新書)の一部を再編集したものです。
■普通の住宅街で起きたクマの襲撃
令和7年7月12日、北海道渡島管内の福島町三岳で、新聞配達員がヒグマに襲われ、住宅の密集する中で喰い殺された事件については、『人喰い熊大国ニッポン』(小学館新書)冒頭で触れたとおりである。
そして加害熊が、4年前の令和3年7月1日に、同じ福島町白符で農作業をしていた77歳の女性を喰い殺していたことにも触れた。
ここで筆者が注目したいのは、両事件とも7月に発生しているという事実である。
多くの読者は単なる偶然だと考えるだろう。
しかし筆者は「必然」だと断言する。
そして本稿を読み終えた時、多くの読者も納得するに違いない。
ここで取り上げるのは、今から130年以上前、明治21年から4年にわたって、5人を喰い殺した稀代の人喰い熊事件である。
そして筆者が発掘した中でも、ひときわ異彩を放つ、不気味な事件である。
■連続人喰い熊事件「最初の凶行」
札幌の北、浜益(はまます)から増毛に至る海岸線は極めて険峻なため、積丹(しゃこたん)半島の雷電(らいでん)峠と並んで、北海道の日本海側を代表する交通の難所といわれた。
これを迂回するために江戸時代に開削された「増毛山道」は、全長八里(約32キロ)にわたる山路で、ヒグマや盗賊が出没するなど、旅程は困難を極め、通行する者は昭和に入っても稀であった。
札幌医大の伊藤秀五郎教授が昭和5年10月号の雑誌『北の山』に発表した紀行文「雄冬山附近の山道と漁村風景」の中に次の一説がある。
道はあっても人の往来は極めて少い。雄冬と増毛から毎日一回、逓送(ていそう)人がこの駅舎で落ち合って、郵便物を交換して帰るという、昔ながらのしきたりを反復しているほかは、たまたま町に用足しに出た村人が立寄るくらいのものである(高橋明雄『るもい地方の歴史探訪 近現代にひろう35話』、平成3年)
連続人喰い熊事件の発端となる最初の凶行は、この増毛山道で発生した。
天塩(てしお)国増毛郵便局雇い逓送人、遠藤伝之助という者が、昨年十一月十日、茂生(もい)郵便局より郵便行嚢(こうのう)持ち戻りの途中、非常の暴風雪に出会い、(中略)行方が知れないことがわかったが、多分は凍死したのか、あるいは猛獣の害にかかったのだろうが、なににせよ当時は人馬の足も立たないので、そのまま差し置かれてしまった。いずれ雪融けの上は、その死骸とともに郵便物も発見するだろうが、実に哀れな話だ(「函館新聞」明治21年2月23日、抄出)
■冬ごもり前に行動するヒグマの影
翌年の春になって、この逓送人の遺体が発見された。
客年十一月十五日、増毛郵便局脚夫の浜益よりの帰路、濃昼(ごきびる)、増毛の両山道において吹雪に斃(たお)れたのか、熊に攫殺(かくさつ)されたのか、行方が知れなかったが、(中略)先頃、雪解けに際し、増毛山道の三里〔約十二キロ〕ほど脇道において右脚夫の死骸を発見したが、その携帯する郵便物にはまったく損害を蒙(こうむ)らなかったという(「北海道毎日新聞」明治21年6月3日)
遭難した時期が、ヒグマの冬ごもり直前の11月中旬なので、襲われた可能性は確かにある。
記事によれば、遭難した脚夫は増毛郵便局と茂生郵便局(現在の浜益郵便局)を往復していたが、暴風雪のため群別村で12日間も足止めされ、再度出立して増毛山道で遭難したのだという。
次の事件は翌年、浜益村から約30キロ北の箸別(はしべつ)で発生した。
六月二十三日、増毛村の天谷某の雇人が、ハシベツ川の上流およそ一里〔約四キロ〕ばかりのところで、突然熊に出会い、掴つかみ殺されてしまった。その翌二十四日、増毛警察署から巡査二名と猟夫五人が天谷方の雇人二十人程と熊退治に出かけ、首尾よく銃殺した。増毛郡役所で皮を剥ぐと、見物人が三、四百人もあったという(「函館新聞」明治二十二年七月九日)
■森鴎外の妹も「心細い思い」をした
この事件については、別の資料でも確認できる。
明治二十二年八月二十日、この道(増毛山道)を通ったのが我国解剖学の先駆者、小金井良精(よしきよ)と喜美子(森鴎外の妹で随筆家)夫妻である。
(前略)道の所々に大きな石を掘り越し、また草の根を掘り返してあるのを、馬追いは指さして、「これはみな熊のしわざで、石の下の蟻を食い、また草の根を食(は)むのです。だからこの道は険しいのみならず、熊が常に出るために、このように人が少ないのです。十日ばかりさきにも、一人命を失いました」(『るもい地方の歴史探訪』前掲)
〈十日ばかりさき〉とあるが、前記〈天谷某の雇人〉が喰い殺された事件を指していることは疑いがない。
「ハシベツ川」は、地図で見るとわかるとおり、増毛山道の起点である別苅の東にある。小金井夫妻は増毛村で同事件の噂を聞き、おののきながら浜益村に向けて南下したわけだが、人喰い熊は、すでに増毛山道を通過した後であった。もしも2カ月も前であれば、夫妻も襲われていたかもしれない。
ところで前掲記事によれば、加害熊は翌日になって〈首尾よく銃殺〉されたことになっている。
しかし、この個体は本命ではなかった。
■17歳の少女は下半身を喰い尽くされ
なぜなら翌年になると、同じ増毛村で、人喰い熊事件が連続して二件も起きるからである。
齋藤銀吾というものは去る十八日、青草を採ろうと妻テツを連れ、字ノプ沢山中というところへ差しかかると、向こうより大熊が現れ出たので、銀吾はソレというより藪蔭に隠れ、テツもいずれかへ隠れた様子だったが、程過ぎて、もはや熊もおらぬだろうと思うころ、出て見ると妻はおらず、そこあたりの森を尋ねても影さえないので、我が家へ立ち帰り、人夫数十名を雇って山中をくまなく捜索したが、さらに見えず、さては先刻、隠れ遅れ、または熊の目にかかって害されてしまったと、力なく、その趣を同地の警察へ届け出た(「函館新聞」明治23年5月23日)
六月六日、増毛郡阿分(あふん)村の婦女が四、五名連れだって、青菜摘みのため近傍の山に登ると、突然大熊が一匹現れたので、狼狽し、みな藪蔭に陰かくれたが、池田善五郎の雇女ヨテ(十七年)が哀れにも熊に捕まってしまった。藪蔭からこれを見ていた婦女等は声を限りに助けを呼び、その声が阿分村に達し、漁夫等が鉈や鎌を携へて駈付けると、熊はいずれかへ逃げ去り、ヨテの死体は腰から両脚まで肉を食われていた(「函館新聞」明治23年6月18日)
■地元の古老が語った恐ろしい記憶
この事件については、発生年に若干の記憶違いがあるものの、一緒に山に入った5人の女性の1人から事件の詳細を聞いたという地元古老の回顧談が残っている。
【笹井】熊の話だけど、俺の母親の伯母さんになる「アキ」という人は、今生きていれば百何十歳になるが、昭和13年に82で亡くなった。子どもの時によくその人におんぶさって、いろいろな昔の話をしてもらっていたんだ。
その人の話で、ここから700mくらい行った所に、アキさんが25歳の時というから、だいたい逆算すると明治15、6年ごろ。5人でワラビ採りに行ったとき、熊に襲われて「ヨデ」という18歳になる女の人が熊にとられた(殺された)と、そんな話を子どもの頃聞いているんだ。(中略)
【笹井】何でも、一緒に行ったみんながいないもんだから、一人になり探していて熊に食われてしまったそうだ。(中略)
【笹井】その熊はそこで捕らえられないで、舎熊(しゃくま)の方へ行って人を襲ったとかで、何でも神主さんだかが襲われたそうだが、その人はとられなかったらしいけれども……(『ましけむかし記録保存事業第1号』増毛町教育委員会・元陣屋、笹井秀雄)
■クマの腹の中から出てきたのは…
〈ノプ沢〉とは、「信砂(のぶしゃ)」のことで、正しくは「信砂山中」である。
信砂集落と阿分集落はわずか4キロの距離なので、2カ月足らずの間に、増毛近郊で、婦女が2人も喰い殺され、神主まで襲われたのである。
地元では大々的な熊狩りが行なわれたことだろう。
しかし加害熊は、ついに討ち取られなかった。
そして翌年、阿分集落からさらに30キロ北の鬼鹿(おにしか)村で、新たな人喰い熊事件が発生した。
赤坂久兵衛方の雇人高橋萬太郎(二十九)は同じ国者の久遠與八と蕗とりに、去る十二日午後三時ころから、鬼鹿より一里〔約四キロ〕ばかりの沢に赴いたが、牡熊に出遭い、逃げ道なくて哀れはかなくも高橋萬太郎は喰い殺されたのを、同行した與八は生きた心地なく久兵衛方に馳せ帰り、ことの次第を物語ると、それでは萬太郎の仇、かの大熊を打ち取ってやろうと、四十余人の若者が、手に得物、槍鉄砲などを携えて押し出し、遂に二ッ玉にて打ち殺し、鬼鹿村の戸長役場に引きずって来て、巡査立ち会いの上、熊の腹を引き裂いてみると、無残にも萬太郎の手と片腹半分ばかり、はらわたとともにあったので、久兵衛方では、懇(ねんご)ろに葬った(「北海道毎日新聞」明治24年6月17日)
捕獲された個体の腹から被害者の体の一部が出たことから、加害熊であることは疑いがない。増毛山道を北上してきた稀代の人喰い熊は、ついに悪運尽きて討ち取られたのであった。
■加害熊の「捕食原理」とは
ここで筆者の仮説をもとに、一連の事件を順を追って整理してみよう。
明治初期、石狩平野に入植者が急増すると、安穏と暮らしていた野生動物は四散した。増毛山地を縄張りとするヒグマもまた、その影響を受けて、「玉突き」的に北に追いやられた。
本件の加害熊も、そのようなオス熊であったと想像される。
増毛山地を北上するうち、加害熊は郵便脚夫に出くわし、これを襲って喰い殺した。
この経験により、彼の捕食原理は「成人男性」が最上位に位置づけられた。
そのために、次に彼が襲ったのも、箸別川で見つけた「天谷某の雇人」つまり成人男性であった(ヒグマが一度味をしめた嗜好をしつこく求めることは、専門家も指摘するところで、男性ばかりを喰った例としては、明治11年の「札幌丘珠事件」がある。一般には死者3名が定説だが、筆者は4名であることを確認した)。
加害熊はさらに北上し、信砂集落に達する。ここでも成人男性、つまり齋藤銀吾を襲おうとした。しかし、巧みに逃げられてしまい、代わりに襲ったのが、銀吾の妻テツであった。
これにより彼の嗜好は「成人男性」から「成人女性」に変化した。
そして次に狙われたのが、青物採取に山に入った、若い婦人ヨテであった。
■「春になれば人間が喰える」
このあたりから、加害熊の脳裏には、ある種の「成功体験」が植え付けられたのではないかと筆者は想像する。それは、
「春になれば人間が喰える」
一連の事件を、もう一度振り返ってみてほしい。
第一の事件では、逓送人が遭難したのは11月だった。しかし遺体が発見されたのは5月末(記事掲載は6月初旬)であった。喰い殺された可能性もあるが、冬眠明けの加害熊が、融雪により露出した凍死体を食害した可能性もある。
次の箸別の事件も6月に発生した。
さらに信砂と阿分の二つの事件も5月と6月。
そして最後の鬼鹿の事件も、6月に発生しているのである。
「春になれば人間が喰える」
この恐るべき人喰い熊は、冬眠から目覚めるたびに、人間の味を思い出し、山中を徘徊して、次々に人間を襲ったのではないだろうか。
加害熊は、さらなる肉の味を求めて舎熊集落に下り、人間の女を物色した。
■同じ月に事件が起きる「必然」
しかし目についたのは神主であった。
そして翌年、さらに北上した鬼鹿村で高橋萬太郎を襲い、腹を半分喰い尽くしたところで、追っ手の捕殺するところとなった。
もちろんこれは状況証拠を元にした筆者の仮説に過ぎない。
しかし一連の事件が、一貫してひと筆書きに北上していること、そしてすべての事件が5月、6月に発生していることから、筆者は同一個体によるものであった可能性が極めて高いと考える。
もしそうだとするなら、この個体は、毎年春になると人肉を求めて徘徊し、増毛山道を北上しながら、手当たり次第に人を襲い、5人を喰い殺し、1名を負傷させた、稀代の人喰い熊であった。
本稿冒頭で、筆者が「必然」だと断定した理由が、おわかりいただけただろうか。
もしも福島町のあの個体が討ち取られなかったら、翌年7月に、新たな人喰い熊事件が福島町で発生した可能性も十分に考えられる。
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中山 茂大(なかやま・しげお)
ノンフィクション作家、人喰い熊評論家
明治初期から戦中戦後にかけて、約70年間の地方紙を通読、市町村史・郷土史・各地の民話なども参照し、ヒグマ事件を抽出・データベース化している。主な著書に『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)など。新刊『人喰い熊大国ニッポン』(小学館新書)が8月1日に発売予定。
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(ノンフィクション作家、人喰い熊評論家 中山 茂大)

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