※本稿は、山内祐平『東大教授が教える AI時代の勉強法 高校生の未来をひらく最強の学び方』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■「どうして勉強するのか」と聞かれたら
「どうして勉強するのか」は、かなり手強い問いです。「どうして勉強するのか」「なぜ学び方を学ばなければならないのか」という疑問を抱いてしまうと、なかなか前向きになれないのではないでしょうか。
特に、勉強がつらく感じやすい中高生の時期には、「なんで勉強しなきゃいけないんだろう」という気持ちが出てくるのは自然なことです。保護者の方や先生たちも、この問いへの答えには困ることが多いでしょう。実際これは、大人にとっても簡単には答えられない難問なのです。
そもそも「どうして勉強するのか」という問いがなぜ出てきやすいのか、理由をもう少し掘り下げてみましょう。
私は学習について研究しており、よりよく学ぶための方法、特にICT(情報通信技術)を使った学び方を研究しているのですが、こういった研究の世界では勉強という言葉をあまり使いません。研究者は、学習という言葉を使います。
学習は学術用語であり、一般的には「経験の結果生じる永続的な能力の変化」と定義されます。
■趣味の学びはなぜつらくないのか
この学習は、学校で学ぶことだけを指すわけではありません。たとえば中高生なら、「アニメが好き」「サッカーが好き」「音楽が好き」など、さまざまな趣味があるでしょう。好きなものについては自分から調べるので、知識がどんどん増えていくという人も多いはずです。たとえばアニメが好きな人であれば、作品の設定や声優のことまでよく知っていたりするのではないでしょうか。
そして、そのような知識を得ようとしている時間については、まったくつらくなく、「なぜこんなことを学ぶのか」という疑問も出てこないものでしょう。つまり、趣味の学びについては、「なぜ学ぶのか」という問いがそもそも出にくいのです。
また、幼児が母国語を身につける場面を考えてみると、私たちの身の回りでは、子どもは自然に日本語を習得していきます。「なぜ日本語なんか覚えなきゃいけないの」とつらそうな様子を見せることはまずありません。つまり学習というのは本来、苦しくてつらいものばかりではないのです。
■「勉強」という言葉に潜む抵抗感
では、「なぜ勉強するのか」という問いがなぜ出てくるのか。それは、日常で言う勉強という言葉が、そもそもつらい学習を指していることが多いからです。
先ほど触れたように学習は学術用語ですが、勉強は日常用語です。厳密な定義は決まっていませんが、いろいろな辞書を見比べていくと、『新明解国語辞典』にしっくりくる定義を見つけました。
この辞書によると、勉強は「そうすることに抵抗を感じながらも、当面の学業や仕事などに身を入れる」と説明されています。ここで大事なのは「抵抗を感じながらも」という部分です。つまり日常語としての勉強には、もともと「やりたくない、気が進まない、嫌だと感じる」といった感覚が含まれているわけです。
■学校で学ぶことはそもそも難しい
趣味の学びは全然つらくないのに、学校の勉強はどうしてあんなに嫌になりやすいのでしょうか? この問いについて、もう少し考えてみましょう。
勉強が嫌になる理由は、大きく2つあると思います。
1つ目は、学校で学ぼうとしていることが、そもそも簡単には身につかない種類のものだということです。では、なぜ学校では、このような長時間努力しないと身につかないことを学ぶことになっているのでしょうか? この背景を理解するには、歴史をさかのぼる必要があります。
皆さんは、「大分水嶺理論」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 分水嶺とは、山の尾根のように、水がこちら側とあちら側に分かれて流れていく境目のことです。
口述文化では、情報は話すことによって伝えられ、それを覚えた人はまた別の人へと口頭で伝えていきます。ですから、内容は少しずつ変わっていかざるをえませんし、正確に同じ形で残すこともできません。この時代に大事だったのは、論理の正しさより物語として面白いかどうかでした。
ところが文字が登場すると、情報はそのまま記録されるようになりました。すると、「この考え方はここがおかしいから直そう」というように、記録された情報を論理的に吟味する姿勢が生まれます。そこから学問のようなものも育っていきました。
大分水嶺理論は文字を中心に語られますが、数字の登場も同じように大きな転換点です。文字と数字がそろったことで、人類は、自然に生きているだけでは身につかない高度で複雑な知識を積み重ねることができるようになり、それが学ぶ対象になっていきました。
■縄文・弥生時代に「勉強」はなかった
文字が本格的に広がる前の社会、たとえば日本の縄文時代や弥生時代には、いま私たちが言う意味での勉強はなかったはずです。勉強というのは、文明が進み、文字や数字を使って知識などが蓄積されるようになり、それを身につける必要が出てきたところで生まれてきたものだからです。
ですから、学校の勉強が難しいのはある意味では当然のことで、そもそも文字で記述された知識というのは自然に身につくようなものではないのです。
このことを示すのが、古代文明の書記の存在です。エジプトや中国では、文字を書ける人、記録を作れる人は書記になることができました。書記は当時のエリートであり、政治の中心に近づいたり、食べ物を多くもらえたり、重い労役を免除されたりとさまざまな特権があったのです。昔は「文字を読み書きできる」「記録を扱える」ということが特別視されていたことがわかるでしょう。
ところが現代では、かつて一部のエリートだけがやっていたことをほぼ全員がやらなければならなくなりました。かつては高度とされた知識や技能を、みんなが身につけることを求められるようになったのです。身につけるためには意図的な努力が必要ですから、つらくなるのも当然のことでしょう。
■何の役に立つのかがわかりにくい
勉強が嫌になる理由の2つ目は、いま学んでいる内容が自分の人生にどうつながるのかが見えにくいことです。実はこれも、歴史をさかのぼるとその背景が見えてきます。
大きな転機となったのは、産業革命以降の社会の変化です。これ以前のいわゆる封建制度の時代は、国によって事情はさまざまでしたが、今ほどの職業選択の自由はありませんでした。日本でも「農民の子は農民、商人の子は商人、武士の子は武士」というように、職業は家業として世襲するのが当たり前だったのです。
そのような社会では、自分が将来どんな仕事をするのかについては、家族の姿を見ていれば容易に想像できます。「この仕事をするためには、こういう知識が必要だ」ということもわかりやすく、必要な学びと将来の仕事が直結していたわけです。
ところが産業革命が起きて近代化が進み、職業選択の自由が広がると、「勉強すれば立身出世できる」という希望を持つ人が増えました。これは同時に、将来の職業を自分で決めなければならなくなったことを意味します。つまり、職業が決まるまでの間、どんな学習をすればよいかが見えにくくなってしまったのです。
■悩むのは当然、乗り越えるには工夫がいる
1つ目と2つ目の理由を合わせて考えると、「なぜ勉強しなければならないのかがわからない」という悩みが生まれるのは、社会が発展してきた結果であることがわかります。勉強が大変になり、しかもその意味が見えにくくなった現代においては、悩むのはある意味当然のことなのです。
逆に言えば、「長時間の意図的な努力が必要なほど難しい」という問題と、「それが自分の人生にどうつながるのかが見えにくい」という問題を乗り越えるには、意識的に工夫したり努力したりしていく必要があるということになります。
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山内 祐平(やまうち・ゆうへい)
東京大学大学院 情報学環 教授
大阪大学助手、茨城大学助教授を経て、2001年に東京大学大学院情報学環准教授。2014年11月より現職。研究テーマは「学習環境のデザイン」。情報から知恵を生み出す学習環境について、実践的なプロジェクトを行いながら研究を進めている。
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(東京大学大学院 情報学環 教授 山内 祐平)

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