織田信長が天下統一の拠点とした岐阜城は、「難攻不落の名城」として知られている。だがこの城には弱点があり、わずか1日で陥落してしまう。
なぜ信長はこの城を拠点としたのか。偉人研究家で著述家の真山知幸さんの著書『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)より、一部を紹介する――。(第2回)
■信長が攻め落として手に入れた岐阜城
岐阜城

難攻不落と謳われながら何度も落城した山頂の城
【◎所在地:岐阜県岐阜市/◎主な城主:織田信長/◎へんな城度:★★★☆☆】
美濃(みの)を制すものは天下を制す――そう言われたほどの要衝に建つ、岐阜城(ぎふじょう)。
険しい金華山(きんかざん)の山頂にそびえる姿は「難攻不落の名城」として知られるが、実は歴史上何度も落城している。その理由を探ると、意外な弱点が浮かび上がってくる。
岐阜城はもともと「稲葉山城(いなばやまじょう)」あるいは「井口城(いのくちじょう)」と呼ばれ、鎌倉時代以来の歴史を持つ。本格的に整備されたのは戦国時代、斎藤道三(さいとうどうさん)の時代だと考えられている。
永禄(えいろく)10(1567)年、織田信長(おだのぶなが)が斎藤龍興(たつおき)から奪取して改修。「岐阜城」に改名した。
「岐阜」という名は、一説には尾張国(おわりのくに)の政秀寺(せいしゅうじ)の僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)が挙げた三つの案から信長が選んだもの。
古代中国で周(しゅう)の文王(ぶんおう)が岐山(きざん)より興(おこ)り天下を平定したという故事にちなんでいるという。信長はこの頃から「天下布武(てんかふぶ)」の朱印を用い、本格的に天下統一を目指すようになった。

■「地上の楽園」は籠城戦には不向き
信長は岐阜城を天下統一の拠点とし、軍事拠点としてだけでなく、大名や文化人をもてなす外交拠点として整備した。金箔(きんぱく)瓦を使った建物や滝を備えた池泉(ちせん)庭園がある山麓(さんろく)の館は、ルイス・フロイスが「地上の楽園のようであった」と記しているほどだ。
天正(てんしょう)4(1576)年、信長は安土城に居城を移す。以降は、嫡子(ちゃくし)・織田信忠(のぶただ)を岐阜城主とし、織田家の家督及び美濃・尾張の2カ国を譲った。しかし、この城には致命的な弱点があった。山頂部は痩せ尾根を切り開いた構造で、平坦面が少ない。
さらに、岩石の堅い岩盤のため井戸を掘っても水は出ず、雨水を貯めるしかなかった。狭い曲輪(くるわ)に加えて水の確保が難しいため、戦国時代末期に増加した大人数による長期籠城(ろうじょう)戦には、どうしても不向きだったのである。信長が攻略したときがすでに四度目の落城で、信長の死後も三度ほど城を落とされることになる。
では、岐阜城の軍事的価値はどこにあったのか。
■戦うためではなく見せることに価値がある
それは要害そのものよりも、濃尾(のうび)平野を一望でき、長良川(ながらがわ)を管制できる点にあった。信長時代、岐阜城は戦いのための城ではなく、基本的に城主の居住空間であり、威厳や権威を見せる城だったと言われている。

天正10(1582)年、本能寺の変で信長と嫡男の信忠が横死すると、織田家の家督は信忠の遺児・三法師(さんぼうし)に継承される。豊臣秀吉から一字をもらって織田秀信(ひでのぶ)となると、岐阜城主として13万石を領することになる。

信長の死後も実に20年近くにもわたって、岐阜城は織田家の本城であり続けた。
慶長(けいちょう)5(1600)年、関ヶ原の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)として岐阜城の戦いが勃発。織田秀信は石田三成(いしだみつなり)から「西軍に参陣すれば尾張美濃の2カ国を与える」という条件を提示され、織田家復興を考慮して西軍につくことを決めた。
■あっけなく落城した意外な理由
同年8月22日、池田輝政(いけだてるまさ)率いる東軍の軍勢が木曽川(きそがわ)を渡ると、秀信は自ら出陣。迎え撃つも敗退してしまい、岐阜城に戻った。家臣からは「籠城しましょう」という意見も出るなかで、秀信は岐阜城を守る稲葉山砦、権現山(ごんげんやま)砦、瑞龍寺山(ずいりょうじさん)砦を固めた。
そんな秀信の決断が、結果的には兵力を分散させることになった。翌23日、東軍1万8000人の猛攻を受け、岐阜城はわずか1日で陥落してしまう。東軍があっさりと岐阜城を攻略できたのには、理由がある。
東軍側の池田輝政は、岐阜城主を約5年にわたって務めており、前述したような弱点も含めて、城の構造を熟知していたのだ。

■時代についていけなかった岐阜城の運命
関ヶ原の戦い後、慶長6(1601)年、徳川家康によって岐阜城は廃城とされた。替わって入った奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は、金華山の3.5キロほど南に加納城(かのうじょう)という平城(ひらじろ)を築く。
山城(やまじろ)は籠城に不向きだが、平城なら中継拠点として機能する。戦略の変化が、岐阜城の運命を決めることとなった。難攻不落と謳われながら、籠城戦には不向きだった岐阜城。信長はその弱点を理解したうえで、「見せる城」として活用した。
しかし時代が籠城戦を求めるなかで、この城は1日で陥落するという、ざんねんな運命にあったと言えるだろう。

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真山 知幸(まやま・ともゆき)

伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。2026年、京都芸術大学大学院芸術研究科(通信教育)文化遺産領域文化遺産分野を修了。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年に独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆や講演活動を行う。
『ざんねんな偉人伝』シリーズ(学研)のほか、『偉人 大久保利通』(草思社)、『大器晩成列伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『本を読む人だけが、“自分の壁”を突破できる』(青春出版社)など著作は60冊以上。「東洋経済オンラインアワード」で、2021年にニューウェーブ賞、2024年にロングランヒット賞受賞。

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(伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA) 真山 知幸)
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