悪口や批判には、どう向き合えばいいのか。文筆家の宮下真さんは「黙っていても、何を語っても、人は非難されるというのは2500年前から変わっていない」という。
一日一語、読むだけで心がととのう ブッダのことば』(永井政之監修、永岡書店)より、紹介する――。(第1回)
■愚かな者たちの非難や称賛には限りがない
アトゥラよ、これは昔から言われることで、いまに始まることでもない。黙している者も非難され、多く語る者も非難され、適度に語る者も非難される。世に非難されない者はいない。(法句経227)
アトゥラとは信者の名で、「昔から人は非難されるものだ。黙っていても、どのように何を語ろうと非難されるのがならいなのだ」とブッダが教え諭しており、ブッダと弟子の対話から派生したことばの1つです。
どんな分野でも、人が何か行動を起こすと、必ず反対したり非難する者が現れるのは、2500年前も現代も、あまり変わっていないようです。
道元禅師(どうげんぜんじ)のことばに、「恥ずべくんば明眼の人を恥ずべし」というのがあります。
思慮のない人々の非難、悪口、ほめことばなどどうでもよい。ただ人生の真理をあきらかに見る人の眼を怖れ、自分の行いを慎めということです。
ブッダも、「愚かな者たちの非難や称賛には限りがない。ただ賢者によって非難される者こそ“非難される者”とよび、賢者に称賛される者こそ“称賛される者”とよぶのである」と言っています。
私たちはほめられれば嬉しい一方、悪口を言われるとつい心がへこみがちです。
しかし無責任な非難など聞き流せばいい。ただ賢者=明眼の人の評価だけをしっかり受けとめればいいのです。
■「八風」にも動じない心で
ただ非難されるだけの人、また、ただ称賛されるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいない。現在にもまたいない。(法句経228)
自分は周囲に非難され、否定されてばかりいる――。
もしあなたがそう思い込んでいても、あなたのよさを認めてくれている人もきっといるはずです。逆に、いつも周囲から慕われ、尊敬され、ほめことばばかり浴びている人も、どこで非難されているかわかりません。
ほめる人もいれば、誹る人もいる。人が浴びる評価というのはそういうものです。ブッダ自身がそうであったろうし、孔子(こうし)やイエス・キリストもそうだったでしょう。
「八風吹けども動ぜず」という禅語があります。
八風とは人の心を惑わし、あおりたてる八つのもの――利(り)(意に叶(かな)うこと)、衰(すい)(意に反すること)、毀(き)(陰で誹ること)、誉(よ)(陰でほめること)、称(しょう)(目の前でほめること)、譏(き)(目の前で誹ること)、苦(く)(身心を悩ますこと)、楽(らく)(身心を喜ばすこと)で、私たちは常にこうした相反する風に吹かれて生きていくのです。
風が変わるたびにグラグラ揺れているようでは人間的成長は望めません。どんな風にも動じない天辺の月のように、自分の道を選んだら、つよい信念と不動の心を持って生きていくことです。
■客観的に見る眼を持たない人間は愚か者
愚か者が自らを愚かと知るならば、すなわち賢者である。愚か者でありながら、自らを賢者と思えば、彼こそ愚か者とよばれる。(法句経63)
真の愚か者とは「自分は賢者だ」「自分は正しい」と思い込んでいる者のこと。愚か者とされる人間でも、「自分は愚かだ」「私は何も知らない」という自覚を持つ者は、賢者とよんでいい――。つまりブッダは“自分はどれほどの人間か”と客観的に見る眼を持たない人間は愚か者だと言っているのです。
自分を賢者と思う人間には驕(おご)りや慢心があり、他人から学ぼうとか、正しい教えに学ぼうという謙虚な姿勢が欠けています。そうなるともはや成長は望めないでしょう。また、そうした人間ほど自分を偉く見せたがるのが常で、ブッダも、
愚か者は、虚栄心のゆえに、修行者の間では尊敬を欲しがる。僧院に居るときは権力を、信者の家に行っては供養を欲しがる。
(法句経73)
と辛辣(しんらつ)に指摘しています。一方「自分は愚かで未熟だ」と自覚する人は、学ぼうという姿勢があり、正しい教えにあえば吸収していきます。だから年を取っても成長でき、悟りへ近づくこともできるのです。
自己を見つめつつ謙虚に学びつづける――賢者の生き方を望むなら、この姿勢を忘れないことです。
■煩悩に火をつける無駄話はしない
善人はすべてにおいて執着がなく、快楽を求めてしゃべることもない。楽しいことであれ、苦しいことであれ、賢者は動じる様子がない。(法句経83)
善人や賢者というのは、悪や執着と縁を切り、心がすっかり清浄になった人のこと。その特徴を「よけいなおしゃべりはしないし、楽や苦にも一喜一憂せず泰然自若(たいぜんじじゃく)としている」というのです。
世間には、とにかくおしゃべりが好きな人がいますが、善人賢者は楽しみ(快楽)のためのおしゃべりや無駄話はしないということ。おしゃべりについては、道元禅師(どうげんぜんじ)のこんな話が『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)(※)』にあります。
「世間の人たちは雑談しているとたいてい“猥談(わいだん)”が始まり、それでいっとき気持ちを解放したりしているが、仏道修行者には固く禁ずべきことだ。ところが近頃の若い僧たちは、ときどき猥談をしている。
けしからんことだ」と嘆いたあと、「はげしい悪業(あくごう)はかえって悟りに導くこともあるが、役に立たないおしゃべりは仏道の妨げである。まして猥談などすればよけいな煩悩もわくだろうから重々気をつけるべきだ」と諭しています。
たしかに人とのおしゃべりに刺激され、よからぬ妄想を起こすこともあります。もって戒めとしたいものです。
※道元禅師の折々の話を弟子の懐奘がまとめたもの。
■煩悩の火を吹き消すことができれば
あたかも壊れた鐘のように、自ら沈黙し、声を出さないのなら、君はすでに涅槃(ねはん)に達している。もはや怒り罵(ののし)ることはない。(法句経134)
粗暴なことばを投げつけられても、ことばで返したりせず、壊れてだれも撞かなくなった鐘のように、じっと沈黙を守っている――。
そんなふうになれば、すでにあなたは涅槃に達しており、もう怒りに心を乱すこともないと、この句は言っています。それは「忍辱行(にんにくぎょう)」という修行でもあります。さまざまな侮辱にも耐え忍んで、怨みの心を起こさないという修行です。
ことばに対してことばで反論したり、ことばの応酬をするのは「ことばへの執着」があるということ。
“壊れた鐘”は、「そんな執着はすっかり捨てた。自己を不動のものとしたので、罵られても、殴られても、もはや動じない」という境地を示しています。
この鐘は、岩山や深い湖のように超然としてそこにあります。
涅槃(サンスクリット語でニルヴァーナ)のもとの意味は「吹き消すこと」。
煩悩の火をすべて吹き消した安楽の境地には、怒りや貪(むさぼ)りの燃えカスすらなく、ことばさえ超越しているということです。せめて私たちも怒りの火を吹き消し、罵り合いやことばの暴力のない世界を目指しましょう。

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宮下 真(みやした・まこと)

文筆家・編集者

1957年福島県生まれ。出版社・制作会社を経て独立。仏教や日本・中国の古典を主な分野として出版活動に従事。著書に『禅 心が軽くなる83の言葉』『魂を揺さぶる110のことば 空海』『ブッダがせんせい 心を育てるこども仏教塾』(永岡書店)『猫ブッダは悩まニャイ』(ワニブックス)などがある。

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永井 政之(ながい・まさし)

住職、駒澤大学名誉教授

1946年群馬県生まれ。駒澤大学仏教学部卒。
同大学院修了。仏教学博士。駒澤大学名誉教授。専門は禅学、禅宗を中心とした中国仏教。著書に『中国禅宗教団と民衆』(内山書店刊)、『雲門』(臨川書店刊)などがある。群馬県・良珊寺住職。

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(文筆家・編集者 宮下 真、住職、駒澤大学名誉教授 永井 政之)
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