※本稿は、福田智弘『戦国きょうだいの日本史』(時事通信社)の一部を再編集したものです。
■「豊臣兄弟」唯一の姉・ともの数奇な運命
兄妹などの近い親族同士は、互いに助け合うことでひとりでは出しえない力を発揮し、ともに出世を果たしていくものです。
しかし、時には後継者争いなどの対象となって激しく争い合い、悲惨な結果に陥ってしまうこともあります。
その両方、つまり、兄妹や親族であることの良い面と、悪い面とを極端な形で体験したのが、豊臣秀吉の姉・ともとその息子たちではないでしょうか。
秀吉や秀長の唯一の姉である「とも」ですが、その名は同時代の史料では確認できません。したがって本当の名前は不明なのですが、ここでは有名な「とも」で統一することとします。
ともは、秀吉よりも5つくらい年長とされ、同程度に低い身分であった弥助(弥介)という男と結ばれ、3人の男子に恵まれました。彼らは、やがて秀吉が武将として出世を果たすにつれ、叔父である秀吉に仕えるようになります。
■天下人の後継者となった長男・秀次
特に長男・秀次(永禄11[1568]年?~文禄4[1595]年)は、天下人・秀吉の後継者ともいうべき地位にまで引き上げられました。当初は宮部氏や三好氏の養子となっていますが、その後、賤ケ岳の戦いや四国征伐などで功績を挙げたことから、近江国(滋賀県)八幡山城主となり、43万石の所領を持つ大大名となります。
秀吉が天下統一してからは尾張国(愛知県西部)清須城主となって100万石の知行を得ることとなりました。
とも夫妻は基本、長男・秀次に従って暮らしていました。また、夫の弥助は秀次が三好氏の養子になったことで、自らも三好吉房を名乗り、武将として活動を始めます。秀次が尾張国で大きな所領を得ると、同じ尾張国内の犬山城に入っていますし、秀次の関白としての仕事が多忙になると、尾張国を治める仕事は、父である吉房(弥助)が代行して行うようになりました。
■次男と三男も大名として出世を果たす
それだけではありません。次男・秀勝も武将として秀吉に仕えています。一時秀吉と仲違いして冷遇されたこともありましたが、その後甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)などに所領を得たのち、美濃国(岐阜県南部)の岐阜城主となっています。また、信長の妹であるお市の三女・江と結ばれることになったのも秀吉の指示によるものと思われます。
さらに、三男・秀保は跡継ぎのいなかった秀長の養子となっています。そして、秀長の死後は100万石ともいわれるその所領と居城・大和郡山城を引き継ぎ、若くして「大和中納言」と呼ばれるようになりました。
3人の息子が驚くべき出世を果たしたことを、とももおおいに喜んだことでしょう。弟・秀吉に感謝することも多かったのではないでしょうか。しかしながら、その後、事態は徐々に変化していきます。
■不意に訪れた子や孫たちの死
文禄元(1592)年、朝鮮出兵が始まると、次男・秀勝は朝鮮半島に渡海して戦いに加わりました。しかし、異国の地での戦いは慣れないことばかりで心身に大きな負担を及ぼしてしまったようです。同年、秀勝は現地で病没してしまいました。
「秀吉が無謀な異国への進出など図らなければ……」
大切な息子を亡くしたともは、そんなふうに考えたかもしれません。
その3年後、今度は秀長の跡を継いだ三男・秀保が病死します。自然死とはいえ、まだ17歳の早すぎる死は、ともの心を悲しみで満たしたことでしょう。
それから3カ月も経たないうちに、さらなる悲しみがともに襲い掛かります。唯一残された長男・秀次が、謀反の疑いをかけられて失脚。高野山へ追われた挙句、自害を遂げたのです。
なにが原因で秀次が死に追いやられることになったのか、その理由は、実はよくわかっていません。秀次が横暴なふるまいをした、という噂もありますが、果たしてそうでしょうか?
■妻子30人余りが三条河原で処刑され
その2年前、秀吉にはあきらめていた実子・秀頼が生まれています。このかわいい秀頼に権力の座を譲るには、既に後継者としての地位を固めつつあった秀次が邪魔になったのではないか、そのために秀次は死に至らしめられたのではないか、という説がかなり有力視されています。だとすると、弟・秀吉の個人的な都合のために、息子・秀次が殺されたことになるわけですから、ともの怒りは計り知れません。
悲劇はそれで終わりではありません。秀次の死の翌月、秀次の妻子が京の三条河原で処刑されたのです。その数は30人余りと伝えられています。
秀次の子、といえば、ともにとってはかわいい孫たちです。ともは、弟・秀吉によって、頼りの息子も、かわいい孫たちも、殺されてしまったことになります。
秀次の失脚から自害、妻子の処刑に至る間、実際どの程度、秀吉の意向が働いていたのか、については、実は諸説あります。秀次の自害に関しても、秀吉に強制されたのではなく、秀次自身の意志で行ったとする説も囁かれています。しかしながら、当時関白という重職にあった秀次を失脚させるに至っては、権力者・秀吉の意向が少なからずあったことは間違いないでしょう。
■江戸中期まで続いた「ともの血脈」
悲しみに暮れたともは、これを機に出家します。たくさんの死を見つめてきた彼女はひょっとしたら、こんなことを考えていたかもしれません。
「こんな悲しい思いをするなら、尾張国中村の田舎で百姓をしていたほうがよかった」
と……。
その3年後、秀吉も病没。下の弟・秀長も、政略結婚で家康のもとに嫁いだ妹のあさひもすでにこの世を去っていたので、ともは4きょうだいで最も長生きしたことになります。
秀吉の死後、徳川家康が天下とりに動き出し、元和元(1615)年、秀吉の子(ともの甥)である秀頼が大坂の陣で自害し、豊臣家は滅亡します。その悲しき運命も見定めた後、寛永2(1625)年、94歳の長寿を全うし、ともはその生涯を閉じたのです。
ともの家系は、3人の子どもが相次いで死去した上に、孫までもが処刑されたため、滅亡したと思われがちですが、実はその血脈はつながっています。秀次の子のうち娘(隆清院)が真田信繁の側室となっており、その子(秀次の孫。とものひ孫)が出羽亀田藩主・岩城宣隆に嫁いでいます。この血統は江戸中期まで藩主の座を保っています。また、次男・秀勝の娘・完子は公家である九条幸家に嫁いでいます。
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福田 智弘(ふくだ・ともひろ)
歴史・文学研究家 作家
1965年埼玉県生まれ。東京都立大学卒。歴史、文学関連を中心に執筆活動を行っている。おもな著書に『ビジネスに使える「文学の言葉」』(ダイヤモンド社)、『世界が驚いたニッポンの芸術 浮世絵の謎』(実業之日本社)、『よくわかる! 江戸時代の暮らし』(辰巳出版)などがある。
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(歴史・文学研究家 作家 福田 智弘)

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