戦国武将の活躍のウラには、「地味で無名な」きょうだいがいる。歴史・文学研究家の福田智弘さんは「豊臣秀吉は古くからの信頼できる家臣を持たなかったため、代わりに肉親や親族を召し抱えた。
実弟・秀長が有名だが、大出世を遂げた“もうひとりの兄弟”がいる」という――。
※本稿は、福田智弘『戦国きょうだいの日本史』(時事通信社)の一部を再編集したものです。
■謎に包まれた「豊臣兄弟」の幼少期
戦国の世を制し、天下を統一した豊臣秀吉とその実弟・秀長のふたりは、歴史上かなり有名な人物であるにもかかわらず、その幼少期のことについては多くが謎に包まれています。
生まれ故郷は尾張国の(愛知県西部)中村の、現在中村公園となっている場所(名古屋市中村区)だといわれていますが、異説もあります。
生年については、かつて秀吉は天文5(1536)年の生まれとされていたのですが、近年は天文6(1537)年説が有力となりつつあります。一方の秀長も天文10(1541)年説がありましたが、近年では天文9(1540)年説が定説になりつつあります。
母親(通説「なか」)が、前夫と死に別れた後、再婚しているため、秀吉の父は最初の夫・弥右衛門で、秀長の父は二度目の夫・竹阿弥だとされていましたが、近年ではふたりとも弥右衛門を父とする同父兄弟だとする説が強くなりつつあります。
このように出生の様子が謎に包まれているのは、権力者となった秀吉が、貧しくみじめだった自分の幼少期のことを隠しただけでなく、積極的に神がかり的な出生譚などのフェイクニュースを流したこと、さらにそれが江戸期に伝説化して広がり、どれが真実だかわからなくなっていることに由来するとされています。
■半農半兵の貧しい家庭に生まれ
とりあえず、ふたりが半農半兵(普段は農業に従事していて、戦になると動員される人々)とされる貧しい家庭に生まれたということは確かだと思われます。そして秀吉は、のちに「継父と仲が悪かった」などの理由で家を飛び出し、紆余曲折を経て織田信長に仕えるようになったのだと考えられています。
それでは、弟の秀長のほうはどうだったのでしょうか?
秀長は、秀吉が家を飛び出した後、しばらくは継父の死後、唯一の男手として実家を支えていたと考えられますが、やがて兄の後を追うようにして家を出て、秀吉とともに信長に仕えるようになったと考えられています。それがいつなのか、詳しいことはわかりませんが、戦国武将として秀長が発出した書状で最も古い物は天正元(1573)年頃のものとされているため、その少し前には、信長の家臣となっているはずです。

その経緯も定かではありません。秀長のほうから兄を慕って同じ道を歩んだのか、それとも秀吉のほうが秀長を誘って武士の道を歩ませたのか、まったくわかっていません。しかし、秀吉のほうから誘ったのではないか、と考える人が多いのは事実です。
■「腹心の部下」を求めた切実な理由
というのも、裸一貫で信長の家臣となった秀吉には、心から信頼できる部下がひとりもいなかったからです。武将として出世を果たせば果たすほど仕事も増え、統率する部下の数も多くなります。そうなると、腹心の部下がどうしても必要となるため、実の弟である秀長を誘ったのではないか、と考えられるからです。
時には、兄弟同士で血で血を洗う争いなどが行われることもあった戦国時代ですが、心から信頼できる仲間として肉親を頼るということもしばしば行われてきました。豊臣兄弟は、激動の戦国の世を生き抜くために、兄弟の絆を重視した好例だともいえそうです。
一方、戦国の世は実力がものをいう時代です。成功した時の報酬も非常に大きなものがありました。兄の出世を助けることで、秀長もまた、大きな出世を果たしているのです。
秀吉が、近江国(滋賀県)の浅井氏攻略の褒賞として北近江の所領を得て長浜城主となると、秀長も、その貢献を称えられ、同地に領地を得ることに成功しています。

最終的に秀吉が信長の後継者としての地位を固めると、秀長もまた、おおいに出世を果たしました。大和国(奈良県)を中心に100万石ともいわれる領地を有し、従二位
権大納言という官位を得ることになったのです。以来、秀長は「大和大納言」の尊称を得て、人々から崇敬を集めるようになりました。
■兄のせいで何度も危険な目に
もちろんよいことばかりではありません。秀長は、武将として何度も危険な目に遭っています。例えば、賤ケ岳の戦いの際には、秀吉が軍勢を率いて別の戦に向かったために、手薄となったところを敵の軍勢に急襲され、命の危険にさらされました。紀伊国(和歌山県)の反対勢力を攻撃した際には、秀長軍が放った火矢が敵の火薬庫に命中し大爆発を起こすという事件も起こりました。常に死と隣り合わせだったといえるでしょう。
「人たらし」といわれる秀吉にいいくるめられて武士の世界に入ったのだとしたら、「(兄のせいで)いろいろ巻き込まれる……」と思っていたかもしれません。
そうした中で、秀長は具体的にどのような活躍をしたのでしょうか? もちろんひとつには兵を率いる武将としての活躍があります。四国征伐の際、秀吉は11万もの大軍を送り込みましたが、出陣時に体調を崩したため、全軍は秀長が率いました。
また、九州征伐の際には、軍を2隊に分け、西から秀吉、東から秀長が攻撃を仕掛けました。
この時、秀長が率いた兵数は約10万といわれ、その中には毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家、黒田官兵衛ら歴戦の勇士たちがいました。この大軍勢をまとめあげるには、武将としての卓越した力が必要だったことは間違いありません。秀長は大軍を率いる大将ないし秀吉を支える副将として大活躍したのです。副将となった際には軍師としての役割も果たしていたといわれています。
■秀長の葬儀で評された「人柄」
一方、平時には各戦国大名への対応などを積極的にこなしていました。吉川元春・小早川隆景らが秀吉のもとにやってきた時や徳川家康が秀吉に臣従の意を示した際には秀長が接待したという記録が残っています。秀吉を頼ってきた大友宗麟に応対し、九州征伐のお膳立てや戦後処理を担当したのも秀長でした。
そんな秀長のことを、秀長の葬儀で導師を務めた古渓宗陳は「威ありて猛からず、靄然とし仁有り(威厳はあるが獰猛でなく穏やかで思いやりがある)」と評しています。人と人とのつながりを重視し、人間関係を上手に取り扱う素質に恵まれていたのでしょう。
さらに、時に秀吉が暴走しそうになるのを押さえることができる数少ない存在が秀長だったともいわれています。四国征伐の際に遅れて秀吉が参戦しようとしたところ、「そんなことをしたら兄者の御威光も薄れる」という手紙を出して秀吉の渡海を阻止したりもしています。
■豊臣一族の「その後」
こうして秀吉政権の中枢としての活躍を期待された秀長でしたが、彼に残された時間はあまりにも短すぎました。
秀吉による天下統一を目前にして病に倒れ、天正19(1591)年、兄・秀吉よりも先に52歳で命を落としてしまったのです。領地を治める政治家としても活躍していた秀長の葬儀には、20万人もの人が集まり別れを惜しんだといいます。
一方、秀長の死後、秀吉の暴走を押さえることのできる人間は本当にいなくなってしまったようです。秀長の死の翌年、秀吉は悪名高き朝鮮出兵を実行に移しました。また、秀次事件などの悲惨な事態も起こしています。もし、秀長がもう少し長生きしていたら、このような事態は避けられたかもしれないのです。
豊臣秀吉の子としては、側室・淀殿(茶々)との間に生まれた鶴松(棄)が夭折し、唯一成育した跡継ぎ・秀頼は大坂の陣で自害しました。その子・国松は捕らえられて刑死しており、女児のみ尼となって生き延びました。他に石松丸(秀勝)という子がいたともいわれていますが、少なくとも夭折しています。秀長のほうも唯一の男子・与一郎が夭折しており、女子も本人や配偶者が若くして亡くなったため、家系は断絶したと考えられています。
■正室ねねの実兄・木下家定の存在
先述の通り、豊臣秀吉は貧しい家の出で、古くからの信頼できる家臣というものを持たなかったため、代わりに肉親を忠実なる家臣としました。しかし、実の兄弟は秀長しかいなかったため、いわゆる「親戚」にまでその範囲を広げています。
そのひとりが木下家定です。
家定は、秀吉の正室・ねね(おね。のちの北政所、高台院)の実兄です。秀吉は、まだ身分が低かった頃、ねねと結ばれました。恋愛結婚だと考えられています。
ねねと家定の父は杉原定利という武士で、母も木下という姓を持つ武士の家柄です。一方、秀吉のほうは、諸説あるものの姓(苗字)すらなかった低い身分の家柄だったので、ねねの母は結婚におおいに反対したといわれています。しかし、この後、秀吉が、当初の身分などものともしない大出世を遂げるのは、ご存知の通りです。
秀吉は若い頃は「木下藤吉郎」と名乗っていたとされますが、この「木下」姓は、ねねの母方の姓から来ているのではないかといわれています。
■秀吉が心から信頼していた証
秀吉とねねが結婚したのは、永禄4(1561)年頃とされ、秀吉は当時25歳、ねねは14歳頃。家定は19歳です。家定がいつから秀吉に仕えるようになったのかはよくわかっていませんが、「若い頃から仕えていた」とされているので、この頃ではないかと推測されます。

その後、秀吉は天下人の道を突き進んでいきます。特にライバル・柴田勝家を破って織田信長の後継者の地位を固めた天正11(1583)年からは、天下の堅城・大坂城の建設を始めました。その豊臣政権の中枢となる城を秀吉が留守にした際、守る役目を帯びていたのが家定でした。秀吉が「身内」として、家定のことを心から信頼していた証といえるでしょう。
その後、文禄4(1595)年には、2万5000石を与えられて姫路城主にもなっています。この姫路城は、元はのちに秀吉の軍師と呼ばれることになる黒田官兵衛の居城だったものですが、秀吉が中国地方を攻略するに当たって秀吉に譲られたとされます。その後、秀吉の弟・秀長が入っていましたが、秀長が居城を和歌山城に移すに当たり、家定が跡を継ぐこととなったのです。
家定は天下人・秀吉から重要拠点を任され、出世を果たしていったのです。
■関ケ原で東軍につかなかったが…
しかし、慶長3(1598)年、秀吉が亡くなると、状況は一変します。徳川家康が天下とりに動き出し、世の武将たちが東西に分かれて対立しました。関ケ原の戦いです。
この時、家定はどうしたのでしょうか? 勢いに優る東軍・家康に味方したのでしょうか、秀吉の遺児・秀頼を奉じる西軍・石田三成方に与したのでしょうか?
実は家定は、この時、「中立」の姿勢を貫きました。どちらにも加わらず妹・ねねを警護する役割に終始したのです。戦後は、豊臣の縁者であるにもかかわらず中立の立場をとったことを家康に評価され、2万5000石を保持したまま備中国(岡山県西部)足守に移されています。
ちなみに、関ケ原の戦いにおいては家定の子どもたちも、どちらに付くかでおおいに煩悶しました。結果、長男・勝俊は東軍に味方したのですが、任務を放棄したとして所領を失っています。次男・利房と四男・俊定(としさだ)は西軍に属したため、戦後所領を没収されました。一方、三男・延俊は東軍として活躍したため、3万石の所領を維持され豊後国(大分県仲南部)日出藩主となります。
■幕末まで血脈を保った家系も
最も注目を浴びたのが五男・秀秋です。幼い頃秀吉の養子となり、その後、小早川隆景の養子として家督を継いだ彼は、当初西軍に与していましたが、のちに東軍に寝返って勝利におおいに貢献しました。その褒美として、岡山50万石の大大名の座を射止めたのです。家定が岡山に近い足守の地に転封となったのは、息子である秀秋を援護するためであったともいわれています。
天下人・秀吉に振り回されつつ、大出世を遂げた家定は、秀吉の死後、権力者・家康と豊臣家を奉じた石田三成の争いに親子ともども振り回され、人生が大きく変わりました。その後、家定は8年後の慶長13(1608)年に66歳で天に召されます。戦後所領を没収された長男・勝俊は文芸の道に生き、次男・利房は大坂の陣で活躍したのち父の遺領・足守藩を継ぎました。四男・俊定は弟・秀秋のもと一岡山藩士となります。一方で大出世した五男・秀秋は2年後に21歳で早世してしまいました。
家定の子には、本文で語った以外にも、宗連など複数の男子がいたという説もありますが、残された系図などにより諸説があります。本文で紹介した比較的著名な5人のうち、長男・勝俊、四男・俊定には男子がなく、岡山で50万石を領した五男・秀秋も早世したため男子がなく、これらの家系は絶えたとされています。一方、足守藩を継いだ次男・利房の家系は直系に近い形で幕末以降も存続しました。また、家康に味方して日出藩主となった三男・延俊の家系も兄弟や近い親族間での相続を行いつつ、江戸後期まで血脈を保っています。

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福田 智弘(ふくだ・ともひろ)

歴史・文学研究家 作家

1965年埼玉県生まれ。東京都立大学卒。歴史、文学関連を中心に執筆活動を行っている。おもな著書に『ビジネスに使える「文学の言葉」』(ダイヤモンド社)、『世界が驚いたニッポンの芸術 浮世絵の謎』(実業之日本社)、『よくわかる! 江戸時代の暮らし』(辰巳出版)などがある。

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(歴史・文学研究家 作家 福田 智弘)
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