戦国最強と呼ばれた武田軍団はどのようにつくられていたのか。元国税調査官の大村大次郎さんは「『信玄は、領民思いの領主だった』などと評されることもあるが、この認識は誤りだと言える。
戦国最強と呼ばれた武田軍団は、農民の過酷な税負担により維持されていた」という――。
※本稿は、大村大次郎『お金の流れで読み解く戦国武将』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■領民を干上がらせるほどの大増税
信玄には、貧弱な甲斐で戦費を賄わなければならない、というハンディがあった。
そのハンディをどう克服したのかというと、1つは土木事業である。もう1つが、増税だ。信玄は戦費を捻出するために、たびたび大増税を行っている。
甲斐地方では、普通の方法では十分な税収が上げられず、大掛かりな増税が何度も行われた。そのために、領地から逃亡する領民が続出していた。
「信玄は、領民思いの領主だった」などと評されることもあるが、この認識も誤りだと言える。甲斐の経済状況では、領民のことを考える余裕などはなかった。
天文10年に領主の座についた信玄は、翌天文11(1542)年8月には、すでに最初の大増税を実施している。新たに「棟別帳」の作成を開始したのだ。

棟別帳というのは、簡単に言えば、領内の各家屋とそこに住んでいる家族のことが記された帳簿のこと。現在の固定資産台帳のようなものである。新たに棟別帳を作成したということは、家ごとに課税する「棟別銭」という税金を強化するということだ。
これは信玄の苦肉の策でもあり、甲斐地方の貧しさを物語るものでもある。
■農地ではなく、家屋や家族に課税
当時の税制は本来、農地が基本となっており、田畑に対していくらというふうに定められていた。その場合、天候などで農作物の出来が悪かったら、税の基準を引き下げなくてはならない。つまり、農作物の出来が税収を左右するのだ。
しかし、やせた土地の甲斐地方では、そういう税の掛け方では税収が確保できなかった。不作のため、頻繁に税を引き下げなくてはならなかったからだ。
そのため信玄は、農作物の出来に関係なく、毎年一定の税収を確保できる棟別銭を税の柱に据えた。農地ではなく、家屋や家族に課税することで、税収増と税の安定化を図ろうとしたのだ。
しかし、それは農民の負担を大きくしてしまう。
農作物の出来が悪くても、毎年決められた税を納めなくてはならないからだ。
一方、ライバルの信長は「農民に年貢以外の厳しい税を課してはならない」としていた。信玄の政策は、それとはまったく正反対だと言える。実は信長も、棟別銭を課した事例はあるが、信玄に比べればはるかに小規模で低額のものだった。
■年間200文の重税
ただ甲斐領の重税は、信玄に始まったことではない。信玄の父である信虎の時代にも、大増税が行われていた。大永2(1522)年の正月、領国全土に渡って棟別銭の課税を行った。これは度重なる戦争の費用を補うためである。
大名にとって年貢というのは、基本的に直轄領からしか得ることができない。家臣たちの知行地の年貢は、家臣のものだからである。
しかし信虎は、直轄領、非直轄領にかかわらず、領内すべてに棟別銭を課税した。しかも、それまで年貢が免除されていた寺や神社にまで、課せられることになった。
これには、家臣や国人(地域の有力領主)たちも反発した。
信玄も、この棟別銭の制度を継承し、税収の柱に置いた。しかも、それ以降もたびたび増税しているのだ。当時の棟別銭の相場は年間50~100文程度とされているが、信玄は年間200文を課しており、これはかなり重税の部類に入る。
その後も棟別銭の増税を続け、その上この高額な税金を、信玄はしばしば前倒しで徴収している。永禄5(1562)年には、甲斐国鮎沢郷において、翌年の秋に納めるべき棟別銭のうち30銭を、年末までに納めるように指示した記録が残っている。
■深刻なデフレを加速させた信玄の愚策
しかも棟別銭を納付する場合、悪銭ではなく、精銭とされていた。
戦国時代の後半、当時の中心的な貨幣だった銅銭が不足し、端が欠けるなどの悪銭がたくさん出回り、精銭(きれいな銅銭)は希少となっていた。農民は、棟別銭の納付のために、その希少な精銭を用意しなくてはならなかったのだ。
そのため、武田領内では深刻なデフレに陥った。武田領内では、信玄の治世以前にも銭不足の状態だったが、信玄の世になるとさらにそれが加速したようだ。
天文11年、天文16(1547)年、天文23(1554)年、弘治2(1556)年に、銭の枯渇が起きたという記録がある。

これに対し、信玄が適切な処置を行ったとは言い難い。彼のデフレ対策とは「悪銭の事、市中に立て置くの外は、これを撰ぶべからず(市場などで定められた悪銭以外は通用を妨げてはならない)」という条文を出した程度。これは「市場で悪銭とされた銭は使えない」ということでもあり、銭不足をより加速させたと思われる。
ちなみに信長は、この悪銭の対策については、精銭を1枚1文とし、焼けた銭などは2枚で1文、大欠けしたり割れたりした銭は5枚で1文という具合に、銭の形状によって交換割合を提示し、状態の悪い銭でも貨幣として使えるようにしている。銭不足を解消するための非常に現実的で効果的な方法だ。
それに比べれば、信玄のそれはあまりに雑な金融政策だと言える。
■輪をかけて農民の逃亡が増加
信玄の大増税により、税を納められない者が続出したが、それに対して信玄は「厳格な取り立て」で応じた。天文16年、棟別銭などに関する法度26条を制定している。
この法度は、農民にとって過酷なものだった。棟別銭は郷村ごとに割り振られ、どこかの家が払わなかった場合は、郷村全体でその不足分を負担しなければならなかったのだ。
さらに、家族が死んだり逃亡したりして棟別銭の欠員が出ても、その不足分は残った一族が補填しなければならないとなっていた。
この棟別銭は、よほどのことがない限り、減額や免除はないとされ、例外として認められたのは、逃亡者や死去者が多数に及び、棟別銭が基準額の倍になったときなどに限定されていた。

このような負担に、農民が耐えられるわけがない。もともと武田領は、農民の逃亡が多い地域だったが、信玄の税制改革以降は、それに輪をかけて逃亡が増えていった。
郷村からは、棟別負担の軽減を目的とした「詫言(わびごと)」という訴願が、信玄のもとに殺到することになった。それでも信玄は、基本的にこの棟別銭は変えなかった。そうしないと戦争費用を捻出できなかったからである。
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には、信玄の過酷な税の取り立てについて記載されているので、信玄が棟別銭を容赦なく取り立てようとしているのが、非常によくわかる。
■貧しい国の中でつくっていた大軍団
この『甲陽軍鑑』は、武田信玄の偉業を称えるために書かれた書だ。その書にまで、厳しい徴税のことが書き残されているのだから、実際はもっと厳しかったことが予想される。
戦国時代の税制については、よくわかっていない部分も多く、また増税を行ったのは、信玄ばかりではないこともわかっている。しかし武田家の史料には、ことさらに増税に関するものや、農村の疲弊による農民の逃亡などが記録されているのだ。
武田家は信玄の子・勝頼(かつより)の代で滅びている。だから武田家の文書のほとんどは残っていない。
数少ない残った文書の中に、領国の貧困に関する記録ばかりがあるのだ。
このことから見ても、甲斐がかなり貧しい国だったことがわかる。戦国最強と呼ばれた武田軍団は、農民の過酷な税負担により維持されていたのだ。

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大村 大次郎(おおむら・おおじろう)

元国税調査官

国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務。退職後、ビジネス関連を中心としたフリーライターとなる。単行本執筆、雑誌寄稿、ラジオ出演、『マルサ‼』(フジテレビ系)や『ナサケの女』(テレビ朝日系)などの監修で活躍している。ベストセラーとなった『あらゆる領収書は経費で落とせる』(中公新書ラクレ)をはじめ、税金・会計関連の著書多数。一方、学生のころよりお金や経済の歴史研究を続けており、『脱税の世界史』『脱税の日本史』(ともに宝島社)など、「歴史を経済で読み解く」ジャンルの本も多く執筆し、好評を得ている。YouTubeで「大村大次郎チャンネル」配信中。

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(元国税調査官 大村 大次郎)
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