織田信長はどのように領国を治めていたのか。元国税調査官の大村大次郎さんは「信長は税制について、大掛かりな検地という画期的な政策を実行している。
農民は隠し田などを持っていたりしたので、検地を非常に嫌がったなかで、縄入れ(実測)によるかなり細かい検地を行っていた」という――。
※本稿は、大村大次郎『お金の流れで読み解く戦国武将』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
■信長が「厳しい政策を敷いた」は大間違い
信長というと、激烈な人間性ばかりが強調されるので、農民や領民には厳しい政策を敷いていたのではないかと思われがちである。が、実はまったくその逆。当時のほかの大名と比べても、かなりの善政を行っていたのだ。
信長より前、北条早雲は、年貢体系を簡素化し、税率を下げた。信長は、早雲の年貢改革を、さらにダイナミックに徹底的に行っているのだ。
天正10(1582)年3月、信長は武田勝頼を滅ぼして甲斐・信濃を手に入れた。甲斐・信濃は、河尻秀隆や森長可(勝蔵)・成利(蘭丸)の兄弟らに与えられた。
信長は、このとき甲斐・信濃の両国に対し、基本政策というような法令を発した。天正10年3月というと、信長の死の直前である。この法令は、信長の政治思想の集大成であり、信長の「基本法」とも言えるものだ。
法令の一部は次のようなものだ。
一、関役所、駒の口(馬や荷駄をチェックする場所)において課税してはならない

一、百姓前(農民)からは本年貢以外は過分な税を徴収してはならない

一、訴訟に関しては、よくよく念を入れて糾明し、解決しなければならない

一、各城とも普請は堅固にすること

一、鉄砲、弾丸、兵糧を蓄えておくこと

一、各自が支配する所領単位で、責任をもって道路の普請をすること

一、 所領の境界が入り組んで、少しく領有問題の争論となっても、互いに憎しみを持ってはならない
信長はこの法令の最初に関所での徴税を禁止し、2番目で百姓への過度な年貢を戒めている。
■天下統一を優位にした「かなり安い年貢」
実はここが信長施策の真骨頂だ。当時の農民は領主だけではなく、近隣の有力者などに何重にも税を取られることがあった。信長はそれを禁止し、農民には原則として年貢のほかに、重い税を課してはならないとしたのだ。
では信長は、年貢をどの程度、課していたのだろうか?
明確な記録は残っていないが、永禄11(1568)年、近江の六角氏領を新たに領有した際、収穫高の3分の1を年貢とするように定めている。この地域だけ特別に税を安くするはずはないので、信長領全体も大体この数値の前後だったと考えられる。
収穫高の3分の1とは、かなり少ない。江戸時代の年貢は、5分5民、4部6民などと言われ、収穫高の4割から5割が年貢として取られていた。また戦国時代は戦時だったので、江戸時代よりも年貢は重かったとされている。
そう考えると、信長領の年貢率3割は、かなり安い。これが信長の天下統一作業で優位に働いたと思われる。

信長は、短期間で領土を拡大し続けてきた。これは、単に武力だけではできない。
領民の支持を得られなければ、領民に抵抗されたり逃亡されたりして、スムーズな領土拡大ができないからだ。
領民が潤って、人口が増え、領内が発展すれば税収も増える。信長の経済政策は、そういう好循環を生んでいたのだ。
■ほかの戦国大名が行えなかった「実測検地」
信長は税制について、もう1つ画期的な政策を実行している。大掛かりな検地だ。
検地というと、豊臣秀吉が行った「太閤検地」が有名だが、信長はその前に同様のことを行っていたのである。検地とは、農地の広さや土地柄を調べて、米の収穫量を測り、年貢の基準を策定する作業である。それが、なぜ画期的だったのか?
後世の感覚から言えば、領主は自国の農地に関しては、自由に検地できそうな気がするが、決してそうではなかった。農民は隠し田などを持っていたりしたので、検地を非常に嫌がったのである。
検地をすれば、農民が抵抗し、一揆などを起こされる危険もあった。
そのため、戦国武将たちもなかなか検地はできなかったのだ。
検地をしたとしても「差出検地」といって、農民側が自分で測った数値を報告するだけ、というものがほとんどだった。北条早雲が、戦国大名の中で先駆けて検地を行ったのだが、早雲の検地はこの「差出検地」だったのだ。
しかし、信長は「差出検地」ではなく「実測検地」であり、しかもかなり細かい検地をしていたことがわかっている。近年の研究では、縄入れ(実測)による検地を行っていたことが明らかになっているのだ(網野善彦、石井進、稲垣康彦、永原慶二編『講座 日本荘園史』吉川弘文館)。
たとえば、天正5(1577)年、越前で行われた検地では、「歩」の単位までが報告されている。このような細かい数字まで出されているということは、実測されたものと推測されるのだ。これは信長以前の戦国大名にはないことである。
信長がこのような実効的な検地を行えたのは、信長の勢力がそれだけ強かったということであり、また一方では農民との信頼関係もあったということだと言える。
■現代の日本にも影響を与えた画期的な金融政策
信長は、金融についても歴史に残るような改革を行っている。江戸時代はおろか、現代の日本にも影響を与えるほどの画期的な金融政策を施しているのだ。
戦国時代の日本は、深刻なデフレに陥っていた。
中国の銅銭が急に入らなくなり、せっかく成立していた貨幣経済が停滞してしまったのだ。
信長は、このデフレに対して、非常に画期的で効果的な政策を行った。その政策とは簡単に言えば、金銀を貨幣として流通させたということである。
実は金銀が貨幣として、世界的に認識されるようになったのは、近代になってからだ。以前は、必ずしも世界中で貨幣として使用されていたわけではない。たとえば韓国などでは、近代に入っても物々交換や銅銭での商取引を行っていた。日清戦争のころでも金銀の貨幣使用がされておらず、日本軍は現地での物資調達に苦労した。
戦国の日本でも、まだ金銀は貨幣として流通していなかった。当時もすでに金銀は貴重品としての扱いは受けていたが、貨幣としての使用はされていなかったのだ。
一部で貨幣的な使用はされていたが、制度的には金銀は貨幣ではなく、必然的に貨幣としての流通も少なかった。それを信長は、金や銀を高額の貨幣として設定した。
■日本に初めて体系的な通貨制度を導入
永禄12(1569)年3月16日、信長は京都、大坂、奈良の近畿地区で、通貨に関して次のような発令をした。

・今後、米を通貨として使ってはならない

・糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には、金銀を使うこと。中国からの輸入品などの取引にも金銀を使う

・金銀がない場合は、良質の銅銭を使う

・金10両に対して、銅銭は15貫目で交換する

・銀10両に対して、銅銭は2貫目で交換する
これは日本の中央政権として、初めて金銀を通貨として使用することを決めた法令だった。また金と銀、銅銭の交換価値が明確に定めてあり、これも史上初の試みだ。この法令により、日本に初めて体系的な通貨制度ができたとも言える。
信長の「金銀通貨使用令」が、日本の通貨制度に大きな影響をもたらしたことは間違いない。日本の金銀が、通貨として使われるようになったのは、16世紀の末ごろからだ。
経済学者の浦長瀬隆氏の研究によると、戦国時代には金銀の産出が進められたが、当初は贈答用や貴族、武家間の取引に限られていた。銀が貨幣として使用され始めたのは、1580年代の京都であり、その後、徐々に畿内の周辺地域に広がっていった、ということである(『中近世日本貨幣流通史』勁草書房)。

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大村 大次郎(おおむら・おおじろう)

元国税調査官

国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務。退職後、ビジネス関連を中心としたフリーライターとなる。単行本執筆、雑誌寄稿、ラジオ出演、『マルサ‼』(フジテレビ系)や『ナサケの女』(テレビ朝日系)などの監修で活躍している。ベストセラーとなった『あらゆる領収書は経費で落とせる』(中公新書ラクレ)をはじめ、税金・会計関連の著書多数。
一方、学生のころよりお金や経済の歴史研究を続けており、『脱税の世界史』『脱税の日本史』(ともに宝島社)など、「歴史を経済で読み解く」ジャンルの本も多く執筆し、好評を得ている。YouTubeで「大村大次郎チャンネル」配信中。

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(元国税調査官 大村 大次郎)
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