意外なことに、甲子園出場やプロ野球選手を目指すことは一度もなかったという。なぜ、石毛はプロの道へ進むことになるのか。大きな転機となった高校時代のことを振り返ってもらった。
高校は強豪校ではなく進学校へ
「中学校(旭二中)では野球部でしたが、高校で野球を続けるつもりはなかったんです。ただ、野球部顧問の鷺山(さぎやま)先生から『高校でも野球をやれ』と言われて。抜群に強かった銚子商業を薦められるかと思いきや、『市立銚子へ行け』と。『え、あんなに野球が弱いところへ?!』って思いましたよ。頭のいい進学校でしたしね。実は当時の市立銚子は、野球部を強くするために有望な生徒を集めようとしていたんです。鷺山先生と市立銚子の矢部監督が親しい間柄だったこともあり、旭二中の有望株として自分の名前が挙がったんだと思います」
石毛は、市立銚子の工業化学科へ進学。同科の生徒のうち約13名が野球部に所属していたという。
「普通科に入ると学年が進むにつれて勉強が忙しくなり、みんな部活を辞めてしまうんです。野球を続けるため、工業化学科に進学したようなものでした。
高校卒業後も野球を続けようという気はなく、就職するつもりでした。高校2年時に花王石鹸(現・花王)や武田薬品工業、大日本印刷の工場見学に行きましたし、市立銚子の卒業生が花王石鹸でハンドクリームを開発していたこともあって、『先輩の後に続けるように花王石鹸に入ろう』と決めていたんです」
理不尽に殴られたから、野球は好きじゃなかった
高校卒業後は社会に出て働くという明確な目標を持っていたうえに、そもそも野球に対して良いイメージを持っていなかった。「元来、野球はあまり好きじゃなかったんです。中高の野球部では事あるごとに殴られ、殴られ、『何なんだよ……。野球なんて面白くないじゃん』みたいな気持ちはずっと持っていましたから。いま振り返ってみても、よく続いたよなと。練習は厳しく、理不尽なこともありましたし、部員がどんどん少なくなっていきましたが、最後まで自分は残ったわけですから。
毎朝、自宅から旭駅まで自転車で約20分、旭駅から銚子駅まで電車で約30分、銚子駅から学校まで歩いて約20分。帰りは夜9時くらいの電車で帰宅するのがルーティーンでした。名門校や強豪校ではなかったので朝練はなかったのですが、それでも練習の疲れからか昼間は眠くて、授業中はほとんど寝ていました」
後に甲子園で優勝する銚子商業に惜敗
両親や兄のほか、曾祖父や父親の兄弟など11人の大家族で暮らしていたが、家族団らんや一緒に出かける時間はほとんどなかったという。「親父もお袋も百姓だったので、自分が帰宅する頃には既に寝ていました。
家族が試合を観に来てくれたことはほとんどなかったです。高3の時には何回か観に来てくれましたが、中学時代は一度もなかったんじゃないかなと。野良仕事が忙しくて暇がなかったと思うので仕方がないです。親と顔を合わす時間がなかったので、反抗するようなこともなかったですね」
市立銚子は強豪校ではなかったが、石毛らの活躍もあり、夏の県大会(1974年)では決勝に進出。同年に夏の甲子園(第56回全国高等学校野球選手権大会)で優勝を果たすことになる銚子商業と対戦した。
「後に中日に入団した土屋正勝が絶対的エース。一つ下の学年には元巨人の篠塚和典(当時は篠塚利夫)がいて、ハイレベルなチームでした。天台球場(千葉県総合スポーツセンター野球場)で対戦したのですが、球場には野球好きの漁師のおじさんたちが集結して異様な雰囲気でしたね。
試合は土屋に完封されて2対0で負けてしまったのですが、銚子商業は後に甲子園で優勝したわけですし、善戦はできたはずで。リップサービスだとは思いつつも、土屋が『県大会、全国大会含めて市立銚子が一番強かった』と言ってくれていたみたいですし。ただ、自分は土屋を打てずに4タコでしたし、市立銚子との力の差は歴然でした」
縁あって駒澤大学に進むことに
甲子園は高校球児にとって夢の舞台。しかし、石毛は違ったようだ。「甲子園に出られるとも思っていませんでしたし、出たいという思いもなかったんです。もっといえば、プロ野球選手になりたいと思ったこともありません。銚子商業は甲子園へ行きましたが、自分にとっては『念願の夏休みに突入』という感覚でしたから(笑)。
関東大会での早稲田実業との対戦も印象的でした。群馬県の敷島公園野球場で対戦しましたが、相手のピッチャーに好投され、ノーヒットノーランを食らったんです。矢部監督はカンカンで……。とにかく怒られてばかりでしたし、高校卒業後も野球を続けようとは思っていませんでした」
野球への思いや執着、プロ野球選手になりたいという夢もなかった石毛だが、人生は本人の意志とは違う方向へ導かれていく。
「夏の県大会では6~7試合に出て、そこそこの成績を残しました。
グレていた兄が背中を押してくれた
進学を決めた要因は家族の後押しだった。「私を勧誘するため、太田監督は何度か家に来てくれました。毎回両親と自分が参加して話し合いをしていたのですが、太田監督が最後に来た時に兄も同席したんです。グレていたこともあって、『太田さんよ、こいつは野球でモノになるのか?』みたいな言い方ですよ。太田監督が『モノになる』と言った後も、『本当か?』と念押しして聞いていました。
それを見ていた親父が『おまえ(兄)がそう言うなら、大学に行かせるか』と言っていたので、『家を出ていっていいの?』と聞いたら、兄が『いいよ。百姓は俺が継いで頑張るから』と言ってきたんです。長男坊なので、本来は兄が継がなきゃいけないという話でもあるんですけどね(笑)。覚悟を決めた兄の言葉を聞いて、モチベーションが上がったわけではないのですが、背中を押されたんでしょうね」
両親は日夜身を粉にして働き、石毛は野球部の練習に明け暮れる日々。顔を合わせる時間がほとんどなく、家族の関係は希薄だった。石毛は両親に対する思いをこう語る。
「丈夫な体に産んでくれてありがとう、という感謝の気持ちです。
不思議とすくすくと育ったような気がします。いい意味で物事をあまり深く考えたり、受け止めたりすることはなかったですし。幼い頃から、ストレスをストレスと思わないタイプなのかもしれません。
人によっては、小さな事を大きな出来事のようにとらえ、『どうしよう』と追い込まれたりしますが、傍から見たら大したことではない場合も多いじゃないですか。受け止め方次第だと思うんです」
プロ野球選手になっていなかったかもしれない?
現役時代同様、歳を重ねた今でも変わらずに明るくポジティブな印象の石毛。さっぱりとした性格に見えるが、実際はどうなのだろうか。「繊細ではあると思いますが、強がっているというわけではありません。そうであればストレスがたまってしまいますよね。自分で言うのもなんですが、裏表がないタイプだと思っています」
それにしても市立銚子での活躍がなければ、駒澤大学の太田監督から注目されることもなかったが、同監督を交えた最後の話し合いに兄が参加していなければ、大学へ進学することも、西武の石毛が生まれることもなかったかもしれない。まさにターニングポイントになった一日だ。
「(運命を決めたかといえば)そうですね。ただ、その時点では私がプロ野球選手になるとは家族の誰一人として思っていなかったはずです」
何があっても折れない強い意志を持つこと。他人の導きを素直に受け入れること。成功する人間、人を束ねることができる人間は、頑固さと柔軟性を併せ持つ。高校時代のエピソードを聞き、石毛のリーダーシップの原点を垣間見た。
<取材・文/浜田哲男>
【浜田哲男】
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界を経て起業。「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ・ニュース系メディアで連載企画・編集・取材・執筆に携わる。X(旧Twitter):@buhinton
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