証券アナリスト・エコノミストの経歴を持ち、高齢者の課題解決に努めている黒澤史津乃が世間一般で語られがちな終活について解説し、正しい考え方を指南します。今回のテーマは「終活でしまうもの」。

お墓や私物を「しまう」ことも終活の一環ですが、断捨離そのものに必死になってしまっては、終活の本質を見失ってしまうかもしれません。


「終活=処分」は誤解…知らないと家族でトラブルに?「墓じまい...の画像はこちら >>

1.「〇〇じまい」に走りがちな終活ブーム

「終活」という言葉が市民権を得てからもう15年ほどたつでしょうか。


 今や、70代の女性たちが集まってエンドレスなおしゃべりが始まると、その話題のベスト3は、孫自慢、夫の認知症、そして「終活」なのだそうです。


 終活の専門家を自認する筆者としては、終活のお年頃な女性たちが「終活」をテーマにどんなトークを繰り広げているのかが気になるところです。


 ところがリサーチを進めていったところ、70代マダムたちによる終活の進み具合の尺度は、「しまっているかどうか」なのだということが分かってきました。


 一般に終活の領域では、四つの「しまうもの」があるといわれています。


(1)墓じまい

 代々脈々と引き継がれることを前提にした、いわゆる「〇〇家の墓」という墓石の建っている墓地を終わりにすること。すでに墓の中に収められている先祖の骨つぼを取り出して、別の承継者不要の納骨堂などに改葬することと、その手続きをした人自身が死後に入ることのできる墓所を準備することが必要です。


 子どものいない人はもちろん、子どもがいる人でも、この先ずっと「〇〇家」の名字を継いでいく子孫の誕生を前提とする今のお墓の仕組みを、自分の代で終わらせておきたいという思いから、墓じまいを決心する人が増えているようです。


(2)仏壇じまい

 墓じまいとまったく同じ趣旨で、仏壇を代々脈々と子孫に引き継いでいくことに負担を感じる場合に、「魂抜き」を行って仏壇を撤去すること。位牌(いはい)だけを残したり、小ぶりの仏壇にダウンサイジングしたりするなど、さまざまな仏壇じまいのやり方があります。


 また、先祖の大きな額縁に入った遺影についても、自分の代で懇ろに処分しておかなければ、引き継いでくれる次の世代がいない、いても引き継ぐことを迷惑がる可能性が高いという現実に直面する人が多いようです。


(3)家じまい

 両親が暮らしていて空き家になった実家を、大量の荷物とともに処分することや、自分自身が長年住んでいた戸建ての自宅を、子どもたちも巣立って広すぎる、最寄り駅から遠くて不便などの理由で、駅近のマンションや高齢者住宅にダウンサイジングして住み替えるために売却すること。


 いずれも、家族との懐かしい思い出が詰まっているため、気持ちの踏ん切りをつけるのが難しいことや、ようやく処分する決心がついたところで、実家の不動産としての価値が低すぎて、自分の中での実家の価値と市場で判断される価値との乖離(かいり)にショックを受け、しかもそんな値段でも買い手が見つからないなどの課題が次々と押し寄せます。


(4)その他のコト・モノじまい

「コト」じまいとしては、年賀状じまい(長年つづけてきた年賀状を送る習慣をやめる)、車じまい(車の運転をやめて、運転免許を返納する)、ヘアカラーじまい(白髪染めをやめる)などがあります。


「モノ」じまいとしては、服飾じまい(必要最低限の服飾品だけを残し、新たなモノは購入しない)、食器じまい(夫婦2人分の食器だけを残して、大量の食器を処分する)、推し活じまい(コレクションしていた趣味のモノを処分する)などがあります。


 このように、あれをしまった、次はこれをしまわないと、など友人間で話が盛り上がってくると、どんどん「しまう」ことそのものが終活だと思えてくるのは当然かもしれません。


2.「〇〇じまい」の意味を考える

 しかし、「しまう」ことにばかり必死になってしまうと、終活の本質を見失ってしまうかもしれません。


 終活の一環として「しまう」ことには、大きく分けて二つの意味があると思います。


 一つは、「しまう」ことにより、残される人たちに迷惑や負担をかけないようにすること(「負担軽減」の意味)。もう一つは、「しまう」ことにより過去に執着せず、年を取った現実の自分と向き合って、スッキリ前向きな気持ちでこれから先の余生を過ごせるようになること(「気持ちスッキリ」の意味)です。


 皆さんが終活の一環として行おうとしている「〇〇じまい」が、この二つの意味のどちらか一方に当てはまるのか、はたまたよく考えてみたらどちらにも当てはまらないのか、まずは冷静に分析してみることをオススメします。


 例えば、墓じまいや仏壇じまいは、自分の死後に子どもたちに負担を残さないという意味では「負担軽減」と言えるでしょう。子どもたちに心配を掛けないために運転免許を返納する車じまいも同様です。


 一方で、ヘアカラーじまいや年賀状じまいは、面倒だと思っていたこと、こうしなければならないという支配されていた価値観から解放されるという意味で、「気持ちスッキリ」に分類されるでしょう。


 しかし、服飾じまい、食器じまい、推し活じまいは、どうでしょう?


 不要なものを処分することで、人によっては「気持ちスッキリ」に位置付けられるケースはあると思います。断捨離をすすめることで前向きに生きられると感じるのであれば、どんどんすすめていくべきでしょう。


 ですが、終活ブームに乗って友人たちと「終活レース」を競っている妻に促された夫が、長年コレクションしてきた大量のレコードを処分するのはどうでしょう。


 夫も「スッキリした!」と気持ちが前向きになれるのなら良いのですが、泣く泣く捨てることになるのだとしたら、それは妻にとっては「気持ちスッキリ」かもしれませんが、持ち主の夫にとっては「気持ちスッキリ」とはいかないことでしょう。


3.いま断捨離することより、誰に託しておくかを決めるべき

 そもそも、なぜモノを捨てておく、つまり断捨離しておかなければならないのでしょうか。


 残された人が処分するのが大変だからでしょうか。


 人は荷物ゼロでは生きていくことはできません。だとしたら、洋服や靴、食器、レコード、書籍などが大量に残されていたとしても、最終的に廃棄処分する場合に、その処分費用が多少高くなる程度に過ぎません。


 問題の本質は、残ってしまうモノを減らすことよりも、残ってしまうモノを「誰が選別して、誰が不要品として処分してくれるのか」ということなのです。


 本音で言えば、今はまだコレクションのレコードは1枚たりとも捨てたくない。だとしたら、レコードに囲まれて人生を終えたっていい。


 その代わり、「自分の命が終わるまで、またはこの家に住めなくなるまでは、レコードは捨てないでほしい。寝たきりになったら、たまにはレコードをかけて音楽を聞かせてほしい。この家を処分するときは、何も気にしなくて良いから、レコードは全て廃棄処分してしまって構わない。そのための処分費用は用意しておく」という決意を、死後の手続きを行う予定の子どもたちに託しておけばよいのです。


 こうした意向を理解してくれる、そして託すことのできる人を見つけることの方が、何でもかんでも「しまう」ことよりも、ずっとずっと大切な終活の本質なのです。


 終活は、「捨てること」「しまうこと」ではありません。


 自分自身との対話によって自分自身の価値観を知り、周囲の人との対話を通じて自分の価値観を知ってもらい、自分の大切な価値観を実現してくれる人を見つけて、託す。


 これが終活の本質なのだということを、ぜひ読者の皆さまにご理解いただきたいと願っています。


(黒澤 史津乃)

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