野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・谷沢健一(前編)

 一般企業で定年退職を迎える年齢がまだ55歳だった時代の1980年、近藤貞雄はその年齢で中日の監督に就任した。その年、チームは最下位となり、前任者の中利夫が引責辞任。

それを受けて上田利治、広岡達朗といった日本一を経験した監督の名も紙面で候補に挙がったが、10月24日、近藤が指揮を執ることが正式発表された。

 辞任した中が44歳、同じくその年の10月21日に巨人監督を解任された長嶋茂雄も44歳だった。また、上田は37歳で阪急(現・オリックス)の監督に、広岡は44歳でヤクルト監督に就任した事実を踏まえると、55歳の新人監督は異例だった。近藤自身、中日コーチ就任から25年と指導者経験豊富なことに加え、解説者としても辛口評論で高い評価を得ていた。その実績と存在感が、球団オーナーを動かしたという。

【プロ野球】「おまえはもう球威がない」 星野仙一を切った55...の画像はこちら >>
 コーチングスタッフは、作戦・守備担当に高木守道、投手担当に権藤博が入り、ジム・マーシャルが総合コーチを務めた。かつて中日の助っ人として3番を打ったマーシャルは、帰国後にメジャー、マイナーで監督やコーチを歴任していた。

 さらに、近藤が自ら招聘したのが、ヘッドコーチ格の黒江透修である。V9巨人でプレーした黒江の野球観が、選手だけでなくコーチ陣のプロ意識も刺激してくれれば......という狙いがあった。

 就任早々、近藤は球団社長を前に「優勝を狙います。私は3年以内にこのチームをリーグ優勝させてみせる」と"公約"を掲げ、選手や報道陣に対しても同じことを口にした。

 大方の野球関係者は、それを「負けん気の強い近藤ならではの、一流の大ボラ」と受け止め、冷ややかな視線を向けた。

しかし近藤は、ベテラン中心ではなく、若手の力を積極的に引き出す形をつくれば、戦力の飛躍的な向上が見込めると構想していた。

 では、ナインは55歳の新人監督をどう受け止めていたのか。その当時のチームの空気について、習志野高、早稲田大を経て、1969年のドラフト1位で中日に入団した谷沢健一に聞く。

【投手分業制が生んだ快進撃】

 1年目に新人王を受賞した谷沢は、1976年と80年に首位打者を獲得し、ベストナイン5度選出、通算2062安打を記録した球団を代表する好打者である。近藤の監督就任時は、プロ11年目を迎えた33歳だった。

「近藤さんは、ウォーリー(与那嶺)が監督だった頃にヘッド兼ピッチングコーチを務めていましたからね。投手に対しては本当に厳しいという印象がありました。1974年には優勝も経験していますし、その近藤さんが監督になるのかと、どこか不思議な感じがありました。でも、ご本人には監督への思いがあったんでしょうね。チーフスコアラーの方に『オレは監督をやりたいんだ』と話していた、ということは聞いていました」

 コーチ時代の近藤を知る選手たちにすれば、純然たる新監督ではなかった。一部の記者から「監督もどき」と評されるほど、当時から意欲と存在感を示していた。そうした意欲は、近藤が投手分業制を提唱し、実行していたことと無縁ではないだろう。

 1976年オフに中日を退団した背景には、投手起用をめぐるウォーリー(与那嶺)との対立があった。

しかし、そのはるか以前の1965年から、前例のない継投策を歴代監督に提言し、認められてきた。

「ちょうど81年は、その分業制がうまく機能し始めたんです。5月の初めまでは首位を走っていましたしね。最初は『なんでこんなに勝てるんだろう』という感じでしたけど、チーム全体がうまく回り始めたんですよ。ただ、結局は6月の初めに勢いが止まってしまって、終わってみればBクラスでしたけどね」

 4月は破竹の9連勝を含む15勝4敗と快進撃を演じた。分業制については、小松辰雄が4月だけで7セーブを挙げる活躍。鈴木孝政、堂上照、左腕・水谷啓昭に加え、若手の牛島和彦もリリーフとして機能した。先発は星野仙一、都裕次郎、三沢淳が中心。

 打線は谷沢、田尾安志、大島康徳が中軸を担い、下位では宇野勝が長打力を発揮して活発だった。しかし、6月以降に失速し、最終的には首位と16ゲーム差の5位でシーズンを終えた。

「でも、その6月初めまでの戦いは、翌年につながったんですよ。『まとまれば、うちは上に行ける』という、自信のようなものがチームに生まれました。

そして82年は、5月に勝ち始めて5連勝。6月の終わり頃にも4連勝、ひとつ負けてまた4連勝ですから。『去年はダメだったけど、今年はいけるんじゃないか』という予感がチームに漂っていました」

【功労者に対して非情の采配】

 81年途中に抑えから先発へ回り、82年は開幕投手を務めた小松が、右足の故障で4月から長期離脱する誤算もあった。それでも、都、三沢に加え、来日2年目の郭源治が先発として台頭。さらに、抑え失敗を機に先発へ転向した鈴木も結果を残した。

 一方で、空席となった抑えには牛島がはまり、投手陣は着実に厚みを増していった。そのなかでも、谷沢が印象的だったという「ピッチャーに対する厳しさ」はあったのか。

「一番は星野さんですよ。その年は6月末くらいまでローテーションに入っていたんですが、突然、外されたんです。『おまえはもう球威がないから外す』と言われて。それで星野さんも、『もう終わりだな』という感じで、引退を決めたような感じでしたからね。力が衰えれば、すぐに代えていく。それが近藤さんでした。

キャッチャーの木俣(達彦)さんもそうです。中尾(孝義)に代えちゃいましたからね」

 6月30日の、ナゴヤ球場での巨人戦。星野は4対2とリードした9回一死から、淡口憲治に同点2ランを浴びた。延長10回は牛島が抑えて引き分けたが、近藤は試合後、継投の遅れを認めつつ、「今日の試合は星野に預けたのだ。次からは非情に徹する」と記者に言った。

 その言葉どおり、以降の星野は救援で8試合に登板しただけで、10月12日の阪神戦が現役最後のマウンドとなった。プロ14年目、35歳だった。

 強打の正捕手として長年チームを支えてきた木俣も、36歳を迎え、守備面で衰えが見え始めていた。1980年のドラフトで、中日がプリンスホテルの中尾孝義を1位指名した背景には、近藤の強い意向があった。

 ドラフト直前に監督に就任した近藤は、センターラインの強化を最優先課題に掲げ、その補強ポイントとして真っ先に捕手を挙げた。球団幹部やスカウトの同意を得て、木俣の後継者として指名するに至ったという。

 プリンスホテル監督の稲葉誠治が、近藤の母校・旧制岡崎中(現・岡崎高)の先輩だったこともあり、中尾との交渉はスムーズに進み、入団が決まった。

強肩、俊足、そして俊敏な動きで「捕手の概念を変えた男」と称される中尾を、1年目から116試合に起用。一方で、木俣の先発出場は46試合にとどまった。

【選手には嫌われますよね】

 翌82年も開幕から中尾を正捕手として起用し続け、木俣の初スタメンは5月23日、宮城球場での大洋(現・DeNA)戦。その一戦が、木俣にとって大きな転機となる。

 9対6と中日がリードして迎えた9回裏。抑えの鈴木孝政は、二死から3連打を浴びて満塁のピンチを招く。初球は外角へのシュートが外れてボール。つづく2球目、木俣のサインは外角へのストレートだったが、鈴木の投じた球は内側へ甘く入り、長崎慶一に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びた。

 試合後、近藤は報道陣を前に、こう言い放った。

「打たれた孝政が一番悪いかもしれないが、キャッチャーも悪い。孝政はリリーフ失格、木俣も使わない。これからは代打としてやってもらう」

 その試合で木俣はシーズン第1号を放ち、打撃で存在感を示していた。

82年は通算2000安打まで残り133本としてシーズンを迎えていたが、この試合を最後に二度とマスクをかぶることはなく、同年限りで現役を引退。プロ19年目、38歳だった。

 星野も木俣も、1974年のリーグ優勝を支えた功労者だった。なかでも星野は、近藤が築き上げた投手分業制の中心を担ったエースである。それでも近藤に温情はなかった。両者とも、わずか1球をきっかけに第一線を退くことになったと言っていい。

 一方で、先発へ転向した鈴木は9勝を挙げ、正捕手に抜擢された中尾は攻守走で躍動。いずれもリーグ優勝の原動力となり、中尾はMVPにも輝いた。近藤の厳しい実力主義が、優勝という結果につながったと言えるのだろうか。

「たしかにそういうところはあるけれども、近藤さんの厳しさはそこだけじゃないんです。試合前のミーティングで、名指しで叱り飛ばすような人でね。僕は若い頃、ウォーリーにはよく怒られたけど、ほかの選手にはそんなこと全然なかったし、中さんも寡黙な人だったから。それが近藤さんは怒ってばっかりで、黒江さんも輪をかけて厳しく言うから、選手には嫌われますよね」

 当時の球界では、厳しいヘッドコーチがあえて嫌われ役を引き受けることで、選手は監督のもとで伸び伸びとプレーする。逆に監督が厳しいタイプであれば、ヘッドコーチが緩衝材となって選手との距離を縮める──。そうした役割分担が一般的だったが、"近藤−黒江体制"はかなり特殊ではなかろうか。

「両方というのはね。どっちかがフォローするとか、あればいいけれども、フォローも何もない。それで試合中でもよく怒っていて、一度、宇野がショートでミスした時にね、近藤さん、ベンチ飛び出して来たんですから」

つづく>>

(文中敬称略)

編集部おすすめ