関大北陽100年物語(前編)

 春の大阪大会で選抜王者・大阪桐蔭を破り、決勝では履正社をあと一歩まで追い詰めた関大北陽。だが、辻本忠監督は「大阪桐蔭に勝ったと言っても、相手はエースも2番手も投げていません。

決勝も追い詰めたというより、なぜ勝ちきれなかったのか」と謙遜する。

 春夏通算14度の甲子園出場は、PL学園、大体大浪商、大阪桐蔭、市岡、履正社に次ぐ大阪屈指の実績を誇るが、最後の甲子園出場から19年が経った。今年、創部100年の節目を迎え、OBやファンの期待を背負って悲願の聖地を目指す。

【高校野球】「家庭教師の日は練習を早く終わってた」 岡田彰布...の画像はこちら >>

【進路変更を余儀なくされたまさかの出来事】

「春は準優勝やったよな。(大阪)桐蔭に勝った時は、OBの後輩からすぐ電話があって、『明日、決勝行きませんか?』って言うてきたわ(笑)。そら、気にはなるよ」

 そう語るのは北陽野球部OBの岡田彰布。ナイター中継の解説を前にした甲子園球場で、青春時代の思い出を聞いた。

 生まれは大阪市玉造。紙加工工場を営む父は阪神タイガースの熱心な後援者で、「いつか息子を阪神の選手にしたい」という夢を抱いていた。そして岡田自身も、父の夢とは別にふたつの大きな目標があった。ひとつは高校球児として甲子園に出場すること。もうひとつは、早稲田大のユニフォームに袖を通し、早慶戦の舞台に立つことだった。

 実現に向け、岡田は難関校で野球部も強豪だった私立明星中学を受験し合格。

リトルリーグでのプレーは中学1年の半ばで終えたが、その後は学校の準硬式野球部で投打の中心選手として活躍した。

「自分らの代になってからの大会は、ほとんど負けんかったわ」

 そう振り返るほど充実した中学時代を過ごし、全国制覇経験もある付属の明星高校へ進む予定だった。だが、その進路は思わぬ形で変更となる。

「ちょうどその頃、スポーツには力を入れへんという話が出てきてな......」

 その背景については、こんな話がまことしやかに語り継がれている。前年夏、明星が甲子園に出場した際、実況アナウンサーがある選手について「留年している」と紹介。そのことに校長が「恥をかかされた。もうスポーツには力を入れない」と憤慨し、方針を転換したという。この説について、岡田も大筋で認めた。

「それにしても、放送で言うてしまうんやからなあ......(笑)。ただ、俺らが3年の時は明星のサッカー部が全国優勝してるし、野球も大阪では明星と近大附が優勝候補と言われるくらい力があった。でも、甲子園に出たのは俺が中3の時が最後になってもうたんよ」

 父と共に進路を見つめ直した岡田が新たに選んだのは、明星と同じく私学7強の一角を担っていた北陽だった。もっとも、今で言えば「スーパー中学生」が卒業間際になって進路を変更したのだから、当時の高校野球関係者に与えた衝撃は小さくなかった。

一部では、北陽が岡田を"引き抜いた"のではないかとの疑惑まで向けられた。

「そうなんよ。2月やったかな、親父が東京の私学会館まで説明に行って、俺も普通に受験して入ったんや。まあ、それだけ俺も有名やったいうことやな(笑)」

【週2回は家庭教師のため早退】

 それにしても、なぜ北陽を選んだのか。

「明星中の同級生に俺と二遊間を組んでた梶浦(繁樹)いうやつがおってな。あいつの兄貴が北陽で野球をやってて、『おまえらも来たらええ』って。それで梶浦と一緒に北陽へ行くことになったんよ。あいつがおらんかったら、たぶん北陽には行ってなかったやろうな」

 晴れて北陽への進学が決まった1973年3月。阪神の大エース・村山実の引退試合で、試合前のキャッチボールの相手を岡田が務めたことは有名な話だが、その6日後、岡田は再び甲子園へと向かった。

「村山さんの引退試合の3月21日は忘れもせんけど、そのすぐあとに選抜に出場していた北陽の試合があって、アルプスで見とったんよ」

 開会式直後に行なわれた作新学院との一戦では、当時「怪物」と騒がれていた江川卓が北陽打線からじつに19三振を奪い、完封勝利を挙げた。結果はともかく、岡田にとってはのちにライバルとなる江川との、何とも興味深い出会いだった。だが、岡田の記憶に最も残っていたのは、その試合とは別の出来事だった。

「応援団に、めちゃくちゃ怒られたんよ。

『校歌を歌ってへんやないか』って。でもな、まだ生徒手帳ももろうてへんのに、校歌なんか知るわけないやん。なあ?」

 岡田らしい、もっともなボヤキである。だが選抜が終わり、いざグラウンドに立てば、その実力は群を抜いていた。

 一方で、話題の新入生である岡田は、グラウンドの外でも注目を集めていた。北陽への進学が決まる際、岡田サイドから学校側へひとつの要望が出されたという。それは「週に2回は家庭教師について勉強したいので、その日は練習を早めに切り上げさせてほしい」というものだった。

 上下関係が今とは比べものにならないほど厳しかった時代である。そんな特別待遇が本当に認められたのか。上級生からきつく当たられることはなかったのか。そんな疑問をぶつけると、岡田は意外なほどあっさりと答えた。

「5時半くらいには練習を切り上げとったんちゃうかな。

家庭教師が7時からやったからな。それが北陽へ行く条件みたいなもんやったからな」

【1年からレギュラーとして甲子園出場】

 当時を振り返る岡田の語り口からは、"しごき"とは無縁の高校生活を送っていたことが伝わってきた。それも岡田の実力が群を抜いていた証だろう。事実、夏には7番・レフトとして初戦から全試合に先発出場。決勝のPL学園戦では、2回に先制となる貴重な2ランを左中間へ運び、3対2の勝利に大きく貢献した。

「レフトやなくて、けっこう左中間やな。スライダーやったわ」

 この1973年は、使用するバットが木製から金属製へ切り替わる前年、つまり「木製バット時代最後の夏」だった。大阪大会で記録された本塁打はわずか8本。そのうちの1本を、1年生だった岡田が決勝の舞台で放ったのだ。

 それだけでも非凡さは十分に伝わるが、7試合すべてに出場して残した成績は23打数9安打、10打点、1本塁打、打率3割9分1厘。1年生とは思えない、堂々たる数字だった。そして甲子園でも3試合を戦い、9打数3安打とチームのベスト8進出に貢献した。

 1年秋には3番・遊撃手兼投手としてチームの中心を担い、大阪大会で準優勝。

つづく近畿大会でも東山(京都)、天理(奈良)を相手に2試合連続で完投勝利を挙げ、準決勝で敗れたもののベスト4入り。翌春の選抜出場は確実視されていた。

 ところが、出場校発表を目前に控えた1月19日、事態は急変する。応援部でしごきがあったことを理由に、学校が選抜出場校としての推薦を辞退したのだ。岡田にとって2度目となるはずだった甲子園は突然消えた。

「あの頃は何でも連帯責任やからな。サッカー部が1月に全国優勝して、応援団も少し休んで『次は選抜の応援練習や』いうことになったんよ。ところが、練習初日に部室へ置いてあった団旗にシワが入っとったという理由で、1年生がしごきにあったんや。

 その頃、いつも梶浦と朝から大阪城の周りを走って、7時頃にうちで朝飯食うて、一緒に学校へ行っとったんやけど、その朝、親父がテレビをつけたら、いきなり<北陽暴力事件>って流れてきてな。『うそやろ!』って思ったわ。それで背番号をもらっとった選手が何人か辞めてしもうたんや。『夏があるから頑張ろう』なんて雰囲気やなかったな」

 連覇を目指した2年夏は、エースの岡田が肩を痛めて本来の力を発揮できず、2回戦で城東工業に敗れる波乱の結末となった。

【最後の夏は決勝で涙】

 新チームでは主将に就任したが、2年秋の大阪大会は準決勝敗退。そして、いよいよ甲子園をかけた最後のチャンスとなる3年夏を迎える。北陽は順調に勝ち上がり、浪商、近大附などを破って2年ぶりの決勝へ進出。相手は興国だった。

 チームは9日間で7試合を戦い、5回戦以降は4連戦。全試合に先発出場していた岡田は、4連投で決勝のマウンドに上がった。しかし、7回に喫した2失点が最後まで重くのしかかり、0対2で敗戦。最後の夏は、甲子園まであと一歩届かなかった。

「練習試合もやってたし、負けるとは思うてなかったんや。9回にチャンスも来たんやけどなあ......」

 そう言うと岡田は、試合終盤の場面を鮮明に語り始めた。

「2点差で迎えた9回、ワンアウトから俺がツーベースを打ってな。そこからワンアウト満塁までいったんや。でも、あと1本が出んかった。空振り三振とショートゴロやったわ。あのふたりは後輩やったんよ。2年春の選抜辞退の時に、同級生がようけ辞めてしもうたからな......」

 1年春にはグラウンドにあふれるほどいた同級生も、最後の夏まで残ったのはわずか7人。選手層の薄さが、最後の最後でチームに重くのしかかった。それでも岡田はチームを引っ張り、4番として大会通算24打数13安打、8打点。エースとしても、縦のカーブを武器に52イニングを投げ抜いた。

 そんな岡田に「北陽の野球とは?」と尋ねると、ひと呼吸置き、こんな答えが返ってきた。

「選手がみんな大阪の人間やったいうのが、一番『北陽らしさ』やったんちゃうかな。遠くても尼崎や橘、武庫之荘あたりまで。阪急沿線やから十三で乗り換えて来る選手もおったけど、寮はなくて、みんな自宅から通ってた。要するに、大阪の人間だけでやってたいうことや」

 その北陽野球部は今年、創部100年を迎えた。岡田が主将としてグラウンドを駆け回ったあの日々から、半世紀近い歳月が流れた。

「11月にホテルで100周年の会をやるいうて案内が来とったけど、その前に、まずは夏よ。最後に出た2007年の選抜は、甲子園のマネジャー室やったかな、そこからのぞいて見とったわ。あれからもう20年近くになるんか。また楽しみにしとくわ」

(文中敬称略)

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