「小指1本では許してもらえなかったでしょう」医師である中村哲はなぜ白衣を脱いだのか…アフガンの荒地を長大な用水路で潤す“緑の大地計画”で、中村が命をかけて挑んだこと
「小指1本では許してもらえなかったでしょう」医師である中村哲はなぜ白衣を脱いだのか…アフガンの荒地を長大な用水路で潤す“緑の大地計画”で、中村が命をかけて挑んだこと

次々と井戸が涸れていく。空爆と未曽有の大旱魃に苦しむアフガニスタンの人びとを救うには、用水路を築くしかなかった。

だが、クナール川から13キロの水路を引き、荒野を潤すという途方もない計画が実現すると信じていた者は、ほとんどいなかった。中村哲は、30年間着た白衣を脱ぎ、仲間たちと暴れ川に挑んでいく。やがて、乾いた大地に水が流れ込む奇跡の瞬間が訪れる……。

 

100人以上の証言をもとに中村哲の実像を描いた、ノンフィクション作家・山岡淳一郎の『炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅』。今年度の「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」を受賞した同書より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全3回のうち2回目〉

緑の大地計画

中村は、2002年春、次々と涸れていく井戸の代わりに用水路を築き、クナール川の水を引き入れて荒地を潤す構想を「緑の大地計画」にまとめた。

……2003年(平成15年)3月19日、用水路建設の起工式がおこなわれた。

中村は、作業服の上下に平たいパコール帽を被り、式に臨んだ。村の長老や地域の顔役を前に挨拶に立つ。クナール川から村まで13キロメートルの用水路を引いて600ヘクタールを灌漑し、5万人以上の生活を成り立たせる。用水路は2、3年で完成させると豪語し、こう締めくくった。

「これが我々のジハード(聖戦)であります」(ペシャワール会報75号・2003年4月16日)

こうして「緑の大地計画」は始動したが、中村の決意とは裏腹に、まわりに水の気配はまったくない。干からびた荒野と岩山が見えるばかりで、水路の設計図もできていなかった。



「……村人たちのなかで、水路ができると信じていた人はいなかったと思います。もちろん僕もまったく想像できませんでした」と中山(※博喜 元日本人ワーカー、現・京都芸術大学教授。以下、※は筆者注)は追想する。

「中村先生は、寝る間も惜しんで河川工学や、流体力学、数学などの本を読み漁り、勉強をしていました。素人の僕らにはチンプンカンプン。雲をつかむような話でした。世間には、中村先生が独りで計画をまとめて、ダダーッとドラマチックに用水路をつくったように伝わっていますが、そうではありません。大変な紆余曲折がありました。用水路の建設で力を発揮したのが鈴木学くんです。日本人スタッフで土木工学の知識があったのは鈴木くんだけでした。中村先生は、鈴木くんをとても信頼していました」

近代土木と伝統工法

鈴木学は、1979年(昭和54年)、群馬県の有機農業を営む農家の6人きょうだいの次男に生まれた。鈴木は中学を卒業すると、五年制の高等専門学校に進んだ。国立大学の工学部3年に編入した鈴木は、地球規模の水需要予測の研究に没頭した。



「水需要は、人口の推移や、人間1人が使う水の量などをもとに予測します。旱魃が深刻なアフガニスタンには関心がありました。アフガニスタンの役に立ちたくて、水需要を予測しようとしたのですが、できないんですよ」

そもそもアフガニスタンは正確な人口すらわからない。もとになるデータがないのだ。

「先進諸国の水需要の予測は簡単ですが、データのないアフリカやアジアの途上国の予測は非常に大雑把になる現実を知って、愕然としました。アカデミックな分野でのアプローチに限界を感じました。こうなれば実際に現地に入って、仕事をしなくちゃ、おれのやりたいことは完結しない。図書館や本屋を回って、ひたすらアフガニスタンの資料を探しました。

新宿の紀伊國屋書店で中村哲さんが書いた『医者 井戸を掘る』を初めて手に取って、マジか、こんなサムライ・ドクターがいたのかと衝撃を受けて、自分もアフガンで井戸を掘ろうと思い、ペシャワール会に連絡したんです」

鈴木は中村が待ち望んでいた人材だった。

アフガニスタンへ井戸を掘りにきた鈴木は、初対面の中村に「これを使って、村人総出で用水路をつくるんだ」と江戸時代の古文書のコピーを見せられ、びっくり仰天した。

そこには1辺1メートルほどの立方体の竹や籐を編んだ籠に石を詰めた「蛇籠(じゃかご)、ふとん籠」と、丸太を三角錐に組み上げて底辺に重石を置いて川底に固定する「聖牛(せいぎゅう)」、川岸に柳を植えた「柳枝工(りゅしこう)」の絵が描かれていたのだ。

現代の日本では、中小河川や水路のほとんどが、近代工学による改修のしやすさや、経済性を優先し、左右の側壁と川底の三面がコンクリートで固められている。

これはコンクリート三面張り(三面掩蔽(えんぺい))と呼ぶが、中村の発想はそうではなく、古い工法の活用だった。

鈴木は、中村のプランに耳を傾けているうちに強く胸を打たれる。

「僕は、近代土木を学びましたが、コンクリートの三面掩蔽では川に草も木も生えないし、動物も生きられないのですごく嫌でした。石や木材、竹を使う伝統的な河川工法に惹かれていました。蛇籠は、いまも中国、台湾、アジアの山岳地帯のネパール、パキスタン、アフガニスタンでも使われています。素材が竹から針金に変わりましたが、安価で強く、地形にフィットします。最初は、いきなり用水路をつくると言われて驚きましたが、話を聞いているうちに、これだ! 中村先生は、僕がやりたかった方法で水路をつくろうとしているんだ! と感激しました。先生は、最初から確固とした水路のイメージを持っておられました」

覚悟の“独断専行”

2003年11月上旬、クナール川は水量が減って水が澄み、(※右岸の)ジャリババの取水口を築く地点の川面には広大な中州が現れた。夏の洪水期に、対岸(※左岸)のカシコートまでの川幅400メートルいっぱいに濁流が下っていたのが嘘のようだ。

工事を統括するのは技術責任者のディダール(※アフガン人の技術者)だ。中村は病院での診療も忙しく、たまに現場に来てディダールの報告を聞いて指示を出す。それを現場監督のエンジニアたちが作業員に伝えて工事を進めていた。

ディダールは、ダンプカーで運ばせた巨大な石や土砂を、右岸の取水口を設ける地点より200メートルばかり上流から中州に向かって投入させ、突堤を築き始めた。

突堤と中州がつながれば、右岸側を閉塞できる。そうして干上がった川床に重機を入れて巨石を置き、蛇籠を組み上げれば、堰や取水口を悠々と築けるはずだった。

ところが、川は生き物のようだ。突堤を延ばせば延ばすほど、押された川水は突堤の先へと逃げる。突堤と中洲の間隔が狭まるにつれて流れが速まった。中洲と突堤の距離は十数メートルに縮まったが、その間に激流が生じ、巨石や蛇籠を投じてもあっという間に流された。

そのうえ、突堤を延ばした分、川水は(※左岸に沿う)分流に押しやられて、カシコート側の岸の土砂を削って洗い流し、洗掘が起こる。放っておけば分流は勢いを増して左岸の堤を越えて、その先の農地に浸水しそうだった。

鈴木学は、為す術のない突堤を眺め、この状態では春までに用水路に水は引けない、と直観した。春にクナール川の水が増水すれば川床の工事は中断される。不完全な用水路は、豪雨による崩壊や、洪水、人身事故などの危険をはらむ。この絶体絶命の危機を、中村にどう伝えればいいか、鈴木は熟考した。


水路工事には、鈴木より1歳上のワーカー、清宮伸太郎も携わっていた。

鈴木は、密かに清宮に相談した。

「誰かが左岸に回って護岸の工事をしなくちゃ、向こうの農地は台なしになります。それに右岸の川床を干すには、中途半端な突堤では無理です。中州の地面を、上流から下流方向へエクスカベーター(油圧ショベルカー)で掘り進め、新しい河道を通して水を逃がさなくてはダメだ。匙加減が難しいけど、とにかく左岸側からの工事が必要なんですが、どうしたものか……」

「そうですか。じゃあ、自分がオペレーターと一緒にショベルカーを向こうに運んで、掘削作業をしましょうか」
と清宮は応じた。「ほんとうですか。お願いします」と鈴木は頭を下げた。

鈴木と清宮の判断は、ワーカーの身のほどを超えていた。

日本人のワーカーはサポート役であり、指揮系統を無視した口だしは許されなかった。

鈴木と清宮は、中村の許しを得ず、“独断専行”で対岸の工事に踏み切った。


鈴木は中村に相談もせず、なぜ、独断でおこなったのか。

「清宮さんも僕も、何かあれば死ぬだろうと覚悟して用水路にかかわっていました。とにかく水を通したかった。そこで、先生に、このままでは水路はできません、日本人スタッフを現場に張りつけないと、この事業は失敗しますよ、と伝えたかったんです。でも、口で言うのは憚られました」

と鈴木は、長い間、うちに秘めてきた思いを語りだした。

「下の者が、こうしたほうがいいと、批判的なことを口にしたら日本に帰されそうでした。まして、僕はアフガンに入って1年目。先生に、こうしたらいいとはひと言もいわず、接していました。だけど、土木の世界は厳しい。川と格闘して、やるかやられるかの局面に立って、行動で表すしかなかったんです。それに先生は、黙して語らず、という日本男児風の美学を持っておられた。

それは、パシュトゥン人(※多民族国家のアフガニスタンで最大の民族)の気風にも通じます。行動で察し合えればベストです。重機を対岸に回した意味を、もしも先生がわからなければ、あなたはぼんくら上司だ、この事業は失敗する。日本の帰れと言うなら、やることをやったので帰ってもいいじゃねぇか、と腹をくくりました」

中村は白衣を脱いだ

左岸に重機が渡って間もなく、中村がジャリババの現場にきた。

中村は、自分が指示してもいない対岸にショベルカーがあるのを見て、ハッとする。心のスイッチが入り、目に獣のような光が宿った。鈴木が呼ばれ、状況を説明すると、中村はいきなり、ずかずかと工事中の水路に入った。そのようすが鈴木の瞼に浮かぶ。

「全身に気合がみなぎって、水路のなかで、こうやって石を積めばいいんですよッ、と現場のエンジニアを怒鳴りつけ、自ら石を抱えて積もうとされました。指示どおりにやりなさい、と叱咤しましてね。僕らは怒られませんでした。

そこから先生の目の色が変わりました。現場に張りついて、僕らと一緒にダラエヌールのスタッフハウスに泊まって、現場に通うようになったんです。医療界の権威に裏打ちされたピラミッド型の世界から、みんなで一緒に汗をかかなきゃつくれない用水路の肉体労働の世界に入ってこられて、先生は解放されたようでした。大きな転換だったと思います」

中村は、30年間着た白衣を脱いだ。

2004年(平成16年)1月下旬、中村は、難関の堰の構築に挑んだ。

2月に入って、透明だった川水が雪どけの土を含んで緑がかり、増水の兆しが表れた。

中村は河原に下り、ダンプカーを誘導して、築後川の山田堰のように川上に向かって斜めに巨石と蛇籠を投入する。石が受ける水圧が弱まり、堰は延びた。

ワーカーたちは、馬車馬のように働いた。

鈴木は、蛇籠で取水口の土台をつくる。

斜め堰が川上へ延びるとともに、川水がせき上げられ、取水門のほうへ流れてきた。

2月27日の朝、突然、中村は、水門を開け、とスタッフに命じた。

午前10時、作業員が土嚢を取り除き、鈴木が膝まで水に浸かって、川水を止めていた堰板を外し、水門を開いた。川水がどっと水路に流れ込む。

水路に下りた中村は、流れてくる水を招き入れるようにゆっくり後ずさりしながら顔を上げ、
「おーい。見においでー」とワーカーたちに声をかけた。

そのシーンは、カメラマンで映画監督の谷津賢二が撮影したドキュメンタリー作品『荒野に希望の灯をともす~医師・中村哲 現地活動35年の軌跡』(日本電波ニュース社)に収められている。

数年後、谷津は「もしも水が通っていなかったら、どうなっていたでしょうねぇ」と中村に訊ねた。すると、中村は、「小指1本では許してもらえなかったでしょう。片腕1本、切り落として、詫びるしかなかった」と答えたという。

「難民が続々と帰ってきて、大勢が心待ちにしていて、水を通せませんでした、これで帰りますとは言えない。ただ、わたしも人の親、腹を切るわけにはいかない、と中村先生は、ほんとうに片腕を切り落とすような険しい目つきで言ったんです」と谷津は語った。

文/山岡淳一郎

炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅

山岡 淳一郎
「小指1本では許してもらえなかったでしょう」医師である中村哲はなぜ白衣を脱いだのか…アフガンの荒地を長大な用水路で潤す“緑の大地計画”で、中村が命をかけて挑んだこと
炎と水 中村哲と名もなき人たちの旅
2026/2/262,860円(税込)452ページISBN: 978-4087817744

父は共産党活動家、母は玉井組の親方の娘。15歳で自らの意思で洗礼を受け、学生運動で検挙された青春時代……戦乱と大旱魃のアフガニスタンで90万人以上の命を救い、2019年12月、正体不明の武装集団の凶弾によって命を落とした医師・中村哲とは、いったいどんな人間だったのか。その生涯にわたり中村が巡り合い、深く関わった様々な人びと100人以上に著者はインタビューする。福岡、鹿児島、岡山、静岡、神奈川、東京、パキスタン、そしてアフガニスタンと約5年に及ぶ取材を敢行。群像のなかから鮮やかな「人間・中村哲」の姿を立ち上がらせる。大勢の人生を巻き込み、滔々と流れる大河のような中村哲を源流までさかのぼり、生い立ちから死まで描いた驚くべき本格的評伝、圧巻の452ページ。今こそ読まれるべき「人間・中村哲」の真実。

【目次】
プロローグ 水が天に昇る谷
第一章 革命の炎
第二章 同志
第三章 浸礼――永遠の別れ
第四章 青春漂流
第五章 失われた世代
第六章 空爆とナン
第七章 冬の陣
第八章 口紅
第九章 カカムラ!
第一〇章 帰還
あとがき 神と出会った男、神になりたかった男

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