「ちゃんと振ってくれてたんだ、と思ってくれれば」車いす女性が10年越しの始球式…阪神・近本が“フルスイング”した理由
「ちゃんと振ってくれてたんだ、と思ってくれれば」車いす女性が10年越しの始球式…阪神・近本が“フルスイング”した理由

7月18日、マツダスタジアムで行われた広島東洋カープ対阪神タイガース戦。始球式のピッチに立ったのは、10年前の事故で身体の自由を奪われた車いすのネイリスト・中野由佳さんだ。

彼女の投球と、それに応えた阪神・近本光司選手のフルスイングには賞賛の声が送られている。始球式を終えた彼女の気持ちとバッターボックスに立った近本選手を追った――。

絶望の交通事故から10年。諦めなかった始球式

今から10年前の2016年、中野さんは悲劇的な交通事故に遭い、身体の自由を奪われた。突如として始まった寝たきりの生活。これまでの日常が失われ、絶望の淵に立たされてもおかしくない状況の中で、中野さんは懸命なリハビリを続けた。

そんな過酷な日々の中で、野球好きだった彼女が近しい友人たちに語っていたこと。

「いつか始球式で投げてみたい」

その願いが今夏、現実のものとなった。ことの発端は、彼女が暮らす広島県三次(みよし)市の農産物や特産品をPRする「三次デー2026」が、マツダスタジアムで開催されることが決まった日からはじまる。

三次市の福岡誠志(さとし)市長から「三次市で頑張っている人に始球式をお願いしたい」と、中野さんのもとに連絡が入った。念願叶っての、夢の大舞台。その時の心情を彼女はこう語る。

「大きなグラウンドで投げてみたいという願いが叶って、喜びを噛み締めました」

当初、三次市や球団側は、中野さんが車いすに座ったまま投球するものと考えていた。しかし、中野さんは、歩行器を使いつつも「立って」投げることを自ら志願。

「今まで寝たきりだった自分がリハビリを10年頑張ってきて、自分の足で立ち上がれるようになったということをなにか残したい。車いすからではなく、自分の足で立って投げたい。今まで積み重ねてきたリハビリの成果を、ここで発揮したいという思いがありました」

全力の一球に敬意を込めたフルスイング

本番当日、三次市の公式アンバサダーを務める元SKE48・藤本冬香さんのサポートを受けながら、中野さんはグラウンドへと進む

「歩行器を持ったり、それを投げる場所に設置したり、車いすのフットレストを上げたり……障がい者だからといって、全部をサポートしてもらうのではなく、自分でできることは自分の力で、と。その時は、もうとにかく必死で、できることを全力でという思いでした」

観客が見守るなか、中野さんはマウンドの少し手前に、歩行器を使いながらも慎重に身体のバランスをとりながら自らの足でしっかりと立った。そんな彼女の必死な姿を応援するように「頑張れー!」「中野!」と大きな声援が響きわたる。

「グラウンドに立って、みなさんからの『中野コール』が聞こえた時、本当に力をもらえたような気持ちになりました。目の前では近本選手が優しい笑顔で投球を待ってくれていて、どうかキャッチャーまでボールが届いてほしいと思いながらボールを投げました」

そして、運命の瞬間。全身の力を振り絞って投げた白球は、バウンドしながらも、まっすぐにキャッチャーのもとへと吸い込まれていった。

その投球に対し、阪神のリードオフマンである近本選手は、豪快なフルスイングをみせる。

始球式では、バッターが投球に軽く合わせるといった光景も珍しくない。しかし、近本選手はあえて全力のスイングをみせた。

そのフルスイングについて近本選手に話を聞くと、こう返ってきた。

「始球式でボールを投げることは、とても緊張することだと思います。僕も投げたことがありますが、たくさんの人に見られる中、投げるのはやっぱり緊張しました。

そんな中で一生懸命に投げてくれた一球を、しっかりと受け止めて、全力でスイングする。その気持ちが僕は大事かなと思っています。

僕のスイングは、相手には見えてなくてもいい。でも、映像をあとで見返した時に、『あ、ちゃんと振ってくれてたんだ』って思ってくれるだけでも僕はいいかなって」(近本選手)

さらに近本選手は、中野さんへのエールとしてこう付け加えた。

「野球を通して、プレーもそうですけど、こういった始球式一つとっても誰かの力になれれば嬉しいと思っています。僕自身、これからも頑張っていくので、中野さんも、自分のやりたいこと、できることに向かって頑張ってほしいです」(近本選手)

10年間の過酷なリハビリを乗り越え、自分の足で投球位置に立った中野さんの「本気」に対し、プロ野球選手としてこれ以上ない全力の「敬意」を返した瞬間であった。

近本選手の一振りについて、中野さんは、声を弾ませこう振り返っている。

「『嬉しかった』という言葉では片づけられない。本当に感激しました」

「平和の街で、誰一人として取り残さない」これが新たな出発点

前例のなかったマツダスタジアムでの車いすを伴う始球式は、カープ球団、スタジアム、そして三次市長たちの尽力によって実現した。

球場スタッフたちも階段を登るために車いすの中野さんを2人がかりで持ち上げた。カープの坂倉将吾選手は同じユニフォームを着る中野さんへサインボールを贈るとともに「頑張って!」と声をかけてくれたという。

中野さんは、実感を込めて感謝の思いを語った。

「広島という平和の町で、誰一人として取り残さないというインクルーシブな思いが強く感じられて……自分達とは違う人を特別視するのではなく『みんな一緒にやろうよ』という思いが会場を一つにしてくれた。私もみんなと一緒なんだと思えた温かな時間でした」

彼女はこの経験を「ゴールではない」と続ける。実際に投げてみて、体重移動の難しさや、体幹の弱さを実感したのだ。

「今は、立って投げられることが証明できただけだと思います。また冬には自分の中で目標を立てていますし、そこに向かって頑張ろうという私にとっての『新たな出発点』になりました」

彼女は自分の力で立つことを諦めない。インタビューが終わろうとする時、どうしても伝えたいことがあると、熱を持って切り出した。 

「多くの方々のサポートがあったから私は投げることができました。市長やマツダスタジアムのスタッフ、両球団の選手たち。障がいの有無に関わらず当日チケットを取って観に来てくれた友人。

私に合わせてリハビリをしてくれる先生。私が投げるために日々の練習から付き合ってくれた家族。本当にいろんな人に支えられていて、それが頑張れる源になっている。全ての人に心から感謝を伝えたいです」

一つの白球が、観客、プロのスター選手、そして一人の障がいを持つ女性の心を一つにした。歴史に残る一球入魂に心が動いた瞬間であった。

取材・文/小島ゆう
(写真提供/中野由佳さん)

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