『神様のカルテ』は、地域病院の一医師を主人公とする医療小説だ。第10回小学館文庫小説賞を受賞した、夏川草介のデビュー作でもある。
第1巻が2009年8月に発売されると口コミで一気に評判が広まり、第7回本屋大賞の最終候補作にまでなった(結果は2位)。2010年に第2巻が刊行されるとシリーズの累計は200万部に達し、2011年には嵐の櫻井翔主演で映画化も実現した。
主人公の栗原一止は過酷な労働環境をものともせずに働き続ける医師だが、夏目漱石(とりわけ『草枕』)が好きで、人生の指標にしているという変人でもある。彼と愛らしい奥さんの榛名(ハルさん。職業は山岳写真家)の関係も魅力的で、そうした人間ドラマも人気の原因である。今回刊行された『神様のカルテ3』は、前2作を上回る深度のある物語が展開される問題作だ。
作者の夏川草介に、小説執筆のこと、作品のこと、そしてこれからのことをざっくばらんに聞いてみた。ファンの方はぜひご注目を!

ーー夏川さんは現役医師でたいへんお忙しいと思うのですが、学生時代から小説はずっとお書きになっていらっしゃったんですか?
夏川 長編を書いて終わらせたのは1巻が最初なんです。短い物語は大学時代にちょっと書いたりしていましたけど、他人に見せる前提ではなかったですね。
ーー海堂(尊)さんは、長い時間をかけてご専門の本を書き終えてゲラをチェックしたあと、ぽっかりと時間があいたので小説を書いてみたそうです。夏川さんはどんな書き方なんですか?
夏川 デビュー前は気分転換に書くような感じだったんです。少し疲れたときに文章を書きたいと思ったり。
ただ、2巻、3巻と続いて本の刊行のための締め切りができてくるとそんなことは言ってられず、毎日眠りたいけど一時間は書くという感じに変わりました。
ーーなるほど、最初は息抜きだったんですね。お仕事もハードでしょうし、そこから解放されるために書くみたいな。
夏川 そうですね。基本的に普段は病院から一時間以上かかるところには行けないんです。
ーーいつ呼び出しがかかるかわからないからですね。

夏川 はい。家にいてできることっていうと文章を書くことだったんですよね。それをいかに自分で楽しむかっていうことですね。本を読むことが最初は一番だったんですけど、妻に「じゃあ書いてみたら」って言われて。それも、すごく唐突に言われました(笑)。不思議な感じがしましたね。
本業の医療で行き詰まって、助かる人も助からなかったみたいなことが続いて鬱々としていたときに「気分転換に」という感じで勧められたんですよ。
ーー奥様に書きたい願望があることを見抜かれていたんですね。それまで書いたものを見せたりとかは?
夏川 自分が読むためだけのものだったので、見せたことはなかったです。
ーーそれはどんなものをお書きになっていたんですか?
夏川 全然まとまりがないものです。風景を書いただけのものだったり、ちょっとした学生時代のできごとを小説風に書いてみたりだとかですね。内容より、書くという行為そのものが目的という感じでした。
絵を書いたり写真を撮るというのと近いと思うんですよ。
ーーいわゆる写生文ですね。
夏川 そうです。全然長くないものですけど。
ーー『神様のカルテ』シリーズの栗原一止は、職業が職業ですから作者と同一視されることも多いと思います。夏川さんにはどの程度彼と共通する部分がありますか?
夏川 基本的には自分ではないですね。
いろんな失敗もするけど、かっこいい主人公だと作者としては考えているので。自分もそういうふうにできればいいな、とは思っているんですよ。書いている最中は誰かをモデルにっていうのは考えてないし、自分がそこにいるというよりはもう一人の仲間がそこでがんばっているという感覚で書いてます。
ーー一止が漱石を好きであるという設定はどこからでてきたんですか?
夏川 自分自身が漱石を好きなもので、文章をどうせ書くなら漱石のようなものをと思っていました。文章のリズムとかおもしろさを出したいという気持ちがあったんです。内容は人が亡くなったりする小説ですから、ある程度エンターテイメントとしておもしろくするにはそれくらい変な設定でもいいか、自分の尊敬する漱石の文章を無理やり入れることで重い主題が軽くなっておもしろくなるならやってみようか、という感じでした。
ーー漱石は18〜19世紀イギリスの諷刺小説が好きな人ですから『坊ちゃん』などの作品にはその影響が見出せます。あえて類型的な人物を登場させるやり方であるとか。デビュー作の『神様のカルテ』にもそういうところはありますね。
夏川 意識はしていませんが、似ているかもしれません。
ーー夏川さんの小説の好みを少しおうかがいしたいです。特に漱石をはじめとする明治の文豪に対する嗜好の部分ですね。
夏川 あの時代の作家たちって当時のエリート階級の人達ですよね。知識もあって、学識もある。文章力という意味では桁外れなんです。泉鏡花とか森鴎外とか、あの人たちは本当に文章をつきつめて、ものすごいものを書いているんです。そこは本当にすごいとおもうんですよ。きっと自負がある人たちだからプライドも高かったんだろうなと思います。実は鴎外は、文章の凄さには驚くんだけど作品はそれほど好きではないんです(笑)。
ーーよくわかります(笑)。漱石はどのへんの作品がお好きなんですか?
夏川 漱石って、作品でしようとしていることを変えていたんだと思います。おそらく『虞美人草』は、文章そのもので何かをしたかったんです。『坊っちゃん』はそうではなくて、何か言いたいことがあった作品でしょう。それから『明暗』は小説としてのある種の完成形みたいなものです。そんな風に違うので、自分の気分によって読みたいものが変わるんです。だから漱石で一冊って言われると困りますね。
ーー多分、一止の住む御嶽荘の住人たちを作られたときは漱石の『猫』を意識されたんじゃないですか?
夏川 そうですね。あの、下宿にいろいろな人が来て勝手に帰っていく感じはそうです。
ーー泉鏡花もやはり文章がお好きな作家ですか?
夏川 そうですね。何度読んでも読みにくいんですけど(笑)。句読点がどこにあるかもわからなくて、ずーっとつらつら続く文章だったり、突然の体言止めだったり、誰が何をしゃべったのかがよくわからなかったりするんですけど、読んでいるうちに泉鏡花でしか味わえない文章だなと思うんですよね。だから漱石とは逆で、泉鏡花だったらどれというより「鏡花は泉鏡花」というイメージなんです。いつかああいったものを書いてみたいんですけど、なかなか(笑)。
ーーそういった明治の文豪たちの文章に触れられていて、いざ自分が書くときにそういう文体にはしたくならなかったですか?
夏川 最初はけっこうそんな感じになってましたね。体言止めを多用したり、誰がしゃべってるのかわからないようなものを書いたり(笑)。そこからは何度も書きなおして読みやすい方にいきました。1巻のときにいろんなお便りをもらったのですが、若い人からのものも多かったんです。そうなるとやはり中学生、高校生が読めるようなものにもしなくてはいけないなと思って、どんどん変えていきました。伝わることを第一にしようとおもって。いつかは好き放題書いてみたいんですけど、この小説に関してはちゃんと多くの人に伝わるようにということで書いてます。
ーー第1巻が出たとき、「これは地方医療についての医師からのメッセージである」という風に受け止められることもあったと思うんです。それは狙い通りではあったんですか?
夏川 実をいうと、1巻のときは医療小説のつもりは全然なかったんです。本当に一生懸命生きているひとの姿を書いているだけのつもりだったので、地域医療の大変さを伝えている小説というふうに受け取られてびっくりしました。
ーーあ、意外だったんですか。夏川さんとしては、ご自分がよく知っている世界だから医者を主人公にしただけだったと……。
夏川 そうですね。一番書きやすかったので。だから第1巻では御嶽荘のエピソードが多いんです。むしろそっちのほうが自分の書きたかったものなんだと思います。研修医のころ、僕は医療とまったく関係ない人たちと一緒に住んでいたんですよ。家を一軒借りて。そのときに、社会人とか絵描きさんとか自分と違う人がたくさんいて自分はいろいろな元気をもらったんですよ。こういう暖かい空気を書き留めたいなという気持ちですね。
ーー応募時点から刊行まで加筆修正はあったと思うんですが、原型は完成形のものとは違っていたんですか?
夏川 編集者さんに文学的なこだわりは全部削除されました(笑)。たしかに元のままだと読みにくいんですよ。たとえば各章の出だしが自分の好きな小説の冒頭そのままとか、ところどころに好きな作家の一文をそのまま挿入したりとかしていたんです。純文学が好きな人は読むとおもしろいんじゃないかと自負しているんですが、たしかに滑らかではないんです。最初は直すのがすごく嫌だったんだけど、今思うと素晴らしい判断だったかなと。おかげでこうして2巻、3巻と続きましたしね。
ーーそもそも、なんで応募先が小学館文庫小説賞だったんですか?
夏川 書き始めて2ヶ月先ぐらいに締め切りがあったんで(笑)。なんか目標があったほうがいいんじゃないかと、妻に勧められたんです。
ーー小学館にとっては嬉しい判断でしたね、それは(笑)。受賞されて、本が出て、反響はどうでしたか? 口コミですごい広がり方をしたデビュー作でした。
夏川 僕は仕事があって普段はあまり病院から出られないので、「テレビに出てた」とか、「昨日行った本屋で見つけた」みたいに周囲の人が言ってくれて、ようやく反響を知るという感じでした。発行部数を聞くといまでもびっくりします。
S デビュー作でいきなり本屋大賞の候補作にもなりましたしね。書店員からの後押しをしたい、という熱気は感じられたんじゃないですか?
夏川 会場に行ったときはびっくりしましたね(結果は2位)。本屋大賞は大きな賞だという認識はしていたんですけど、あれほどだとは思ってなかったですし。当日、会場に行けるかどうかもわからなかったんですけど、上司が「ぜひ行ってこい」と非常に応援してくれまして。行ってよかったなと思いました。どれくらいの人たちが応援してくれていたのかということを、あの会場に行って初めて知りましたから。
(杉江松恋)

(後編に続く)