「不登校を許すのは甘やかしになる?」「子どもの心に寄り添うって具体的に何をすれば?」──わが子の不登校に向き合う保護者なら、一度は抱いたことがある疑問ではないでしょうか。

30年以上にわたり不登校の相談に携わってきた心療内科医の明橋大二さんは、地域の居場所「ほっとスマイル」を設立し、スクールカウンセラーとして学校で子どもや先生と関わるほか、親の会で保護者の話を聞くなど、さまざまな方法で不登校の子どもたちや保護者を支えてきました。


そんな明橋さんが新刊『不登校からの回復の地図』(青春出版社)で伝えているのは、「不登校でも大丈夫。心配しなくていい」というメッセージです。

今回は本書の中から、保護者の切実な悩みに答えた「Q&A」を抜粋してご紹介します。きっと読者の皆さんの不安を和らげ、これからの希望につながるヒントが見つかることでしょう。

■Q:不登校を許す=子どもを甘やかしている? 甘えと甘やかしの境は?
「子どもを信じて見守る」と言われても、いつまで見守っていればいいのか、一向に学校に行こうとしないわが子を見て、「これって、ただ甘やかしているだけじゃないか」と不安になる親御さんも少なくないと思います。

周囲からも「まだ学校に行かないの? 少しは強く言ったほうがいいんじゃないの」と言われたりすると、ますます「これでいいのか?」と不安になるでしょう。

どこまで見守って、どこで背中を押すか、ということに関して、「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります。

これは仏教から出た言葉で、ひなが卵から孵(かえ)るときに、ひなが中から外に出ようとして殻をつつく(これを「啐(そつ)」と言います)のと同時に、親鳥が外から殻をつついて割る(これを「啄(たく)」と言います)と、ひなが無事、卵から孵ることができる、ということです。

それと同様に、ものごとが成就するときにタイミングというものがあり、そこで両者が息を合わせて協力することで、成就するのだ、という意味です。

ここで、ひながまだ十分成熟していないのに、親鳥が焦って卵を割ってしまうと、ひなは生き延びることができません。またひなが十分成長して外に出ようとしているのに、親鳥がそれに気づかず、手助けしなければ、また外に出ることはできません。

不登校の場合も、子どもがまだ十分回復しないときに、無理やり外に出したり、学校に行かせようとしたりしても、それは続かないし、余計に子どもを追い詰めることになってしまいます。


逆に、子どもが十分元気になっているのに、それに親が気づかず手助けをしなければ、また外に出る機会を失う、ということです。

実際の不登校の支援においては、子どもが元気になってきたら、親が手助けをしなくても、子どものほうから殻を破ってくることも多いので、当てはまらないことも多いです。

しかし少なくとも、子どもがまだ十分回復していないのに、焦って外に出してはいけない、ということだと思います。

また子どもが十分回復してきたサインとしては、子どもから学校や勉強の話題、友達の話題が出てくることがあります。

そういうときに、必要な情報提供(学校への行き方にも、放課後登校や別室登校などいろいろあることや、学校以外にも通える場所はあることなど)をすることは大切なことだと思います。

■Q:子どもの心に寄り添うってどういうこと?
よく「子どもの心に寄り添うことが大事」と言われますが、では「寄り添う」って具体的にどういうこと? と疑問に思われる方も少なくないと思います。

私は、「寄り添う」というのは、子どもの気持ちに共感する、子どもの気持ちを理解する、ということだと思っています。

たとえば子どもが「学校に行きたくない」と言ったとします。そういうときに、私たちは、つい「そんなこと言わずに行きなさい」と言いがちです。あるいは、「じゃあ休めば?」と割り切った親御さんなら言うかもしれません。

しかし、どちらの対応も、子どもに「寄り添う」対応とは言えないのではないかと思います。

「行きなさい」と言われても、行くのがつらいから、「行きたくない」と言っているのであって、それをただ「行きなさい」と言われても、子どもは、自分のつらさが分かってもらえたとは思えないでしょう。


また、「じゃあ休めば?」と言われたとしても、そんなに簡単に休めないと分かっているから子どもも困っているのであって、そのようにいきなり返されても子どもは困ってしまいます。

ですから、そういうときにまずかけるべき言葉は、「学校に行きたくないんだね」という言葉です。子どもの気持ちを言葉にして、そのまま返す、ということです。

同じ言葉だから、意味ないじゃないかと思いますが、同じ言葉でも、親から返ってくると、「自分の気持ちが分かってもらえた」と思うのです。学校に行くのがつらい自分の気持ちが、分かってもらえた、という気持ちが安心感になります。

その上で、行くかどうかは子どもが決めることで、親が理解してくれることで少し気持ちが落ち着いて、「でも行く」と言うかもしれませんし、「やっぱり休む」と言うかもしれません。

休むとしても、親が自分の気持ちを理解してくれていると思いますから、少しは自分を責める気持ちが軽くなるでしょう。

同じ休むでも、そのように理解してもらって休むのと、理解がない状態で休むのとでは、子どもの安心感もずいぶん違うと思います。「寄り添う」というのはそういうことだと思います。

寄り添う親というのを「子どもの後をついていく親」と言った人もあります。子どもが歩き始めたら同じペースで後をついていく。子どもが立ち止まったら、親も立ち止まる。
そして歩き出すまで待つ。歩き出したら、また同じペースで後をついていく、ということです。

子どもが右に行くと言ったら「分かったよ」とついていく。「左にいく」と言ったら「分かったよ」とついていく。「やっぱり右にいく」と言ったら、「もういい加減にしなさい!」と言いたくなりますが、やっぱり「分かったよ」とついていく。

先回りして無理やり「こっちに来なさい」と手を引っ張ることもなければ、後ろからどんどん背中を押して「早く行きなさい」とせかすこともない。子どもと同じペースでついていく。

しかし、本当に危ないところに行こうとするときには、きちんと止める、そういう親の姿です。

なかなか理屈通りにはいかないと思いますが、そういうイメージを頭の中に思い描いて、少しずつやってみてはどうかと思います。この記事の執筆者:明橋大二 プロフィール
心療内科医。子育てカウンセラー。NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長。
一般社団法人HAT共同代表。児童相談所嘱託医。心療内科医としての勤務やぱれっとでの活動を通して、30年以上不登校の子どもたちを支援している。シリーズ累計500万部を突破した『子育てハッピーアドバイス』(1万年堂出版)など著書多数。最新刊は『不登校からの回復の地図』(青春出版社)。
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