人々は、無意識のうちに権威構造に身を置き、「服従マインド」を培養されています。意外にも、それは誰にとっても身近な2つの場所だといいます。現代社会に氾濫する不思議なルールの数々に「なぜ?」と問いかける 『謎ルール: 10代から考える 「こんな社会」を生き抜く解放論』(内田樹監修、高部大問著)より一部抜粋し、あまりにも身近な「隠れた謎ルール接種会場」について解説します。■「服従マインド」を培養する意外な場所、家庭私たちは、気づかぬ間に、権威構造のもとで育っています。その最初の場所は、家庭です。家庭が権威のはずがない? ボクたちワタシたちのお父さんやお母さんは優しい? 常識に囚われることなく、一緒にじっくり考えてみましょう。「昨日までの世界」を飛び出し土着の共同体を放棄した私たちの多くは、核家族化した家庭で産まれ育ちますね。核家族とは夫婦と子の生活ですから、複合家族と違って誰が基本的な実権を握るのでしょう。保護者ですね。保護者以外に権威はいるでしょうか。基本的にはいませんね。それはつまり、競合する権威が不在の隔離空間だということです。サバイバル力のないヒトの子は、産まれたあと、どうやって生活するのでしょう。親の指示に従い親の庇護のもとで日々を生き延びます。この状況は、生存と引き換えに服従しているといえるでしょう。好みでない親に当たった場合に「親ガチャ」と表現するのは、容易に権威を取り替えられない不運な実態を反映した切実な吐露です。親という権威が年端も行かぬ子どもに何かを指示するとき、それは2つのことを要求しています。指示内容の実行だけではありません。権威への無条件の服従も要求しているのです。たとえば「早く食べなさい」と指示するとき、親はスピーディーな食事を指示すると同時に、「権威からの指図が権威からの指図だからというだけで従え」ということをも指示しているのです。ルールへの無条件の帰依(きえ)。無条件降伏。そういったことをオーダーしているのです。ミルグラムが「暗黙の指示」と呼ぶこの第2の指示は、端的にいえば、「私の言うことを聞け」「私の言うことは絶対である」ということであり、服従的態度の醸成に一役買っているのです。■「服従マインド」を醸成する第2の場所、学校権威構造の第2の場所は学校です。お世話になった恩師や優しい先生のことは一旦忘れてくださいね。学校には誰がいるでしょう。校舎という隔離された環境で、教師という特定の権威しかいません。服従のプロセスが進行する絶好の場です。と同時に、第2の指示である「暗黙の指示」が日常茶飯事として行われている場が学校です。なぜなら、先生しか知らない知識を学びに行くのですから、「先生の言うことは黙って聞け」という要求を呑むことが自然に感じられるのです。学校は服従という世渡り術とその意義を学ぶ場だといえます。「そんなことを身につけるために学校に行っているんじゃない」「賢くなるためだ」という人もいるでしょう。たしかに、学校は国語・算数・理科・社会・音楽・体育などのカリキュラムを提供しており、個々人の知識・技術を高める働きを担っています。しかし、教科の類は表のカリキュラムにすぎません。■学校の「裏」目的とは?実は、学校には、軍隊組織に並ぶ「裏のカリキュラム」があるのです。軍隊組織の場合は、表向きは行進の訓練でも、裏の目的は規律づけでしたね。では、学校の裏目的はなんでしょうか。それは、「時間励行と従順と機械的な反復作業」 の3つといわれます。大事なのは教育の中身ではなく、教育のされ方に隠されているのです。極端ないい方をすれば、教える内容はなんでもよく、服従体質にさえなってくれればミッション・コンプリートなのです。裏のカリキュラムとは馴化作用、すなわち習慣化です。ミルの『自由論』によれば、「習慣はふつう、他人や自分自身に対して、〔なぜそうなっているのかという〕理由を示す必要があるものだとは考えられていない。それだけに、人々がたがいに課している行為のルールに関して疑念を持たせないという点で、習慣の効果はいっそう徹底している。こういう性質の問題に関しては、自分たちの感情が理由よりもすぐれたものであって、理由は不要だという考えに人々は馴染んで」いるのです。人々が馬車に乗っていることが当たり前だった社会で、「なぜ馬車に乗るのか」の理由は不要です。人々が自動車に乗っていることが当たり前の社会でも同様ですね。少なくとも、馬車利用者や自動車ユーザーからすれば、疑問を挟む余地はありません。学校も同じです。みんなが習慣的に学校に通っているとき、そこに理由は要りません。少なくとも、みんなが通っている間は。「学校」と聞くと、皆さんはどんなイメージがあるでしょう。最近では完全オンラインの学校もありますが、きっと、教室で複数の児童や生徒が先生の話を聞いている風景を反射的に思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。ですが、同年齢集団を一カ所に集め、一人の教師が一斉に指導を行う「授業」というスタイルが生まれたのは、約600万年の人類史のなかでは極めて最近のこと。工場型の運営方法が最も生産性が高いと称賛された産業革命が契機でした。日本でも、教師が黒板や掛図(かけず)を用いて教科書に基づき教室の生徒全員に教える授業形態は、明治になって始まったものです。ということは、裏のカリキュラムは、近代学校ならではの現象といえます。近代教育は、意図的に個人の頭に知識を注入する知的作用にも励んでいますが、無意識に個人の体に習慣を沁み込こませる馴化作用にも大いに励んでいるのです。授業のはじめに発せられる「起立・礼」という掛け声の裏の意味は、「規律・励」だったということでしょう。裏のカリキュラムは説明されることがありませんから、知らず知らずのうちに思考習慣や行動習慣が沁みつき、謎ルールも増殖していきます。学校は隠れた謎ルール接種会場だったのです。 監修:内田樹(うちだ・たつる)1950年東京生まれ。思想家、武道家、凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。著者:高部大問(たかべ・だいもん)1986年淡路島生まれ。教育思想家。全員バラバラの血液型の家族、片目は失明し歯も1本だけの祖父、不登校の近親者、母子家庭の幼馴染、車椅子のクラスメイトなど、いわゆる多様性に囲まれた幼少期・青年期を経て、慶應義塾大学商学部在学中、地球2周分の海外ひとり旅、中国へのインターンシップ・留学を経験。卒業後、リーマン・ショックによる就職氷河期にリクルートに就職。人事・総務・営業を経験した後、大学事務職員にキャリア・チェンジ。入口の学生募集業務から出口の進路支援業務まで10年間従事し、現在はインクルーシブ保育・教育を実践する社会福祉法人どろんこ会に所属。1年間の育休経験も踏まえ、幼児教育から高等教育まで教育現場のリアルを執筆・講演などで幅広く発信。