「なぜ学校に行かないといけないの?」と問われた大人は、子どもにこう言います。「決まりだから」。口答えを封じる呪文です。子どもより賢いはずの大人たちが正解を知らないまま常套句を繰り返す世の中で、教育が行われた結果とは……?『謎ルール: 10代から考える 「こんな社会」を生き抜く解放論』(内田樹監修、高部大問著)から一部抜粋し、「疑問を持つこと」が悪者扱いされる仕組みを解説します。■「決まりだから」大人の常套句のなぜ社会の基本理念や注意事項を忘れると、どうなるでしょうか。悪の存在が許せなくなり、ルールを無理矢理他人に押しつけるようになります。特に、何も知らない子どもたちに。これは、多くの人が思い当たる節があるのではないでしょうか。「決まりだから」これが、ルールのルーツを忘れた人々の常套句であり、口答えを封じる呪文です。これさえ復唱しておけば救われ、復唱をやめると救われないと思い込んでしまうのです。因襲を踏襲してしまうのです。ある家庭でのワンシーンを思い浮かべてください。「なぜボクは学校に行かないといけないの?」「そうね……お父さんもお母さんも行っていたの。行けばいいことも沢山あるよ。頭がよくなったり、いい仕事に就けたり。ほら、周りのみんなも行ってるじゃない? 心配しないで、頑張って行ってらっしゃい」。どれだけ温和で親身に返答したとしても、それは姑息な方便であり、疑問に蓋してさっさと指示通りに行動せよ、という命令が主訴です。約600万年に及ぶ人類史を長旅してきた皆さんならばもうお分かりの通り、学校は頑張って行かねばならないものではありませんね。もしそうだとすれば、「仲間による審判」でそういうルールにしてしまっただけの話でしょう。「なぜ学校に行かねばならないの?」と問う純粋無垢な子どもたちの主訴はなんでしょうか?子どもたちは、「これは運命だから大人しく諦めなさい」と諭す大人が、その理由として持ち出す損得も、忍耐や勤勉などの道徳も、周囲の動向や傾向も、問題にしているわけではありません。なぜ、自分よりも賢いはずの大人が、それほどまで証拠をてんこ盛りにしないと説得できないのか、もっといえば、矢継ぎ早に投げつけてくる取るに足りない小さな根拠群の裏側に、実は誤魔化しがあるんじゃないか、重大な理由を、マジシャンのように反対の手で腰の後ろにさっと隠したのではないか。そちらの方を、曇りなき眼でピュアに問うているのです。■子どもより賢いはずの大人も答えを知らない無論、大人は重大な理由を隠しているわけではありませんね。自分も分からず「決まりだから」で早期解決を図っているにすぎないわけですが、その場凌ぎの拙速(せっそく)が、子どもたちに次のことを学び取らせてしまいます。すなわち、疑問を持つことは社会の秩序を乱す行為であるということ。つまり、疑問は悪。考えることを放棄してしまい、ついには、思考停止の方が社会貢献性が高いことを、「仲間による審判」を経て体に記憶させてしまうのです。様々な成文律と不文律で成り立っている社会において、不規則な動きをされると困ります。誰が困るでしょうか。規則に則って行動している規則正しい人々ですね。ルール・ピープル(=規則主義者)です。規則ずくめの社会における、社会適合者であり、優等生です。「なんでそうなってるの?」「なぜこのルールに従わないといけないんですか?」などとピュア・ピープル(=純粋主義者)に聞かれても、ルール・ピープルは答えられません。自分たちはとっくの前にそんな疑問には蓋をし、ルールを守ることで、まずまずの安心とそこそこの満足を得てきたからです。社会はそういうもので、人生はそういうものだと思い込んできたからです。ルール・ピープルは質問には答えられませんが、言うことを聞かせないといけませんね。するとどうなるでしょう。自然、高圧的になります。問答無用。説得的ではなく説教的になります。教師的ではなく教官的になります。こうなると、みんながみんなに当たり散らします。なぜなら、社会の基本コンセプトを知る人が年々少なくなり、その教育も日々行われなくなるためです。その結果、どうなるでしょう?■人は「誰かのせい」にして生きていく誰しも余裕がなくなり、他人を権威主義的に服従させがちになります。国民は政治家のせいにし、政治家は国民のせいにし、経営者は従業員の能力不足を愚痴り、従業員は経営者の無能を嘆く。「人民は政府に向かい我儘(わがまま)を申し立て、子どもは親に向かい我儘を申し立て、妻は夫に向かい我儘を申し立て、貴重の民権を下し、下等の我儘と混ずるの憂いあれば、国の幸福期し難き、我儘起こり、国家の滅亡の基礎となるも計りがたし」とは新島襄の嘆きです。モンテスキューは警鐘を鳴らしています。「堕落するのは決して幼少の人々ではない。人々が身を滅ぼすのは、成熟した人間たちがすでに腐敗しているときだけである」。 監修:内田樹(うちだ・たつる)1950年東京生まれ。思想家、武道家、凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。著者:高部大問(たかべ・だいもん)1986年淡路島生まれ。教育思想家。全員バラバラの血液型の家族、片目は失明し歯も1本だけの祖父、不登校の近親者、母子家庭の幼馴染、車椅子のクラスメイトなど、いわゆる多様性に囲まれた幼少期・青年期を経て、慶應義塾大学商学部在学中、地球2周分の海外ひとり旅、中国へのインターンシップ・留学を経験。卒業後、リーマン・ショックによる就職氷河期にリクルートに就職。人事・総務・営業を経験した後、大学事務職員にキャリア・チェンジ。入口の学生募集業務から出口の進路支援業務まで10年間従事し、現在はインクルーシブ保育・教育を実践する社会福祉法人どろんこ会に所属。1年間の育休経験も踏まえ、幼児教育から高等教育まで教育現場のリアルを執筆・講演などで幅広く発信。