鶴見線はJRの路線にしては駅と駅の間隔がとても短く、本線のほか2つの支線がある。そのうちの1つ海芝浦支線の終点・海芝浦駅は京浜運河と東芝の子会社の事業所に囲まれており、一般の乗客は駅に隣接する「海芝公園」以外には出入りできないなど、なんとも「特殊」な路線だ。
この鶴見線にまつわるいくつかの謎を解き明かしていくと、今では信じられないような、川崎・鶴見臨海エリアがこの100年で大きく変化した様子が見えてくる。今回は、そんな鶴見線の「謎解き」の旅に出掛けることにしよう。
■川崎沖に海水浴場があった?
鶴見線が「特殊」なのは、貨物専用の私鉄路線としてスタートしたという歴史によるところが大きい。現在の鶴見線沿線エリア(横浜市鶴見区・川崎市川崎区の臨海部)は埋立地であり、「日本のセメント王」や「京浜工業地帯の父」とも呼ばれる浅野総一郎(1848~1930年)によって埋立が進められた。
浅野は現在の富山県氷見市の出身で、石炭商などを経てセメント製造業に進出。その後、海運(東洋汽船)、造船(浅野造船所)、炭鉱(磐城炭鉱)、石油(浅野商店石油部)、発電(関東水力電気)、通信(沖電気工業)などさまざまな事業分野に進出し、一代で浅野財閥を築き上げた立志伝中の人物である。
その浅野が晩年に手掛けたのが埋立事業である。大正から昭和のはじめにかけて、浅野は欧米視察の際に見聞したドイツ、イギリス、アメリカの港湾施設を参考にして、川崎・鶴見の地先に約150万坪にもおよぶ埋立地(現・末広町・安善町・白石町・大川町・扇町など)を造成し、工場を誘致した。
この埋立工業地帯の物流を担うために建設されたのが鶴見臨港鉄道(現在の鶴見線)だった。同鉄道は1926(大正15)年3月10日に貨物専用線として開業(浜川崎駅-弁天橋駅間と大川支線)し、1930(昭和5)年10月からは旅客営業も開始している。
旅客営業の主目的はもちろん工場への通勤客輸送だったが、興味深いのは1931(昭和6)年7月(8月とする文献もあり)から夏季限定の臨時駅として「海水浴前駅」(1943年廃止)を設置していることだ。今ではちょっと信じられないような話だが、かつては川崎沖の扇島(埋立地である人工島)に海水浴場(鶴見臨港鉄道が運営)が開かれていたのだ。
この扇島への渡船の発着場付近に臨時駅を設け、海水浴客を運んだのである。鶴見臨港鉄道が発行した扇島海水浴場のパンフレットには「水のきれいな扇島」とある。この時期にはすでに工業地帯もだいぶ発展していたはずだが、工業廃水などの影響はなかったのだろうか。
さらに鶴見臨港鉄道が開業する4年前、1922(大正11)年測図の川崎沿岸部の地図を見ると、左下に「淺野セメント工場」が見られる一方、右側には「魚介養殖場」が描かれている。100年前の川崎沿岸部は、このようにまだまだ牧歌的な風景が広がっていたことが分かる。
■「本山駅」は、なぜ存在した?
JR鶴見線の平均駅間距離(支線含む)は0.81kmで、JR線ではもっとも短いという。ちなみに2位の大阪環状線が1.14km、3位の山手線が1.15kmである。
ただでさえ駅間距離の短い鶴見線に、昔はさらにいくつかの駅が存在した。その1つが鶴見駅と国道駅の間にあった本山駅(1942年廃止)である。本山駅は1930(昭和5)年10月、弁天橋駅-仮鶴見駅(現在の鶴見駅より200mほど国道駅側にあった)間が延伸開業し、旅客営業を開始したのと同時に開業した。
本山駅は、現在の鶴見駅からの距離が約500m、仮鶴見駅からだとわずか300mしかなかった。鶴見駅から発車した鶴見線の列車は、まもなく大きな跨線橋(こせんきょう=線路を渡る橋)で東海道線などJR各線と京急本線の上空を横切るが、この跨線橋の手前に、今も本山駅のホームの遺構が残っている。このような近距離にわざわざ駅を設けたのはなぜだろうか。
理由の1つは、総持寺の参詣客の輸送である。駅名の「本山」とは曹洞宗の大本山である総持寺のことであり、昔は今よりも有名寺社を訪れる物見遊山の客が多かった。
また、当時は近隣にもう1つ、とても集客力のある施設が存在した。「花月園遊園地」である。花月園遊園地は1914(大正3)年に、東京・京橋の料亭「花月楼」の主人・平岡廣高によって開園。2万5000坪の敷地を有し、動物園、花壇、子どもの遊技場、野外劇場、活動写真館(映画館)のほか、貸別荘や浴場もあり、大変なにぎわいだったという(1946年閉園)。
こうしたことから当時の本山駅は、「花月園、総持寺への利用者と通勤者でごった返した」(『鶴見線物語』サトウマコト著)という。
さらに、他路線への接続が必要だったことも、この場所に駅が設置された理由として挙げられる。京浜電鉄(現・京急電鉄)には、かつては京浜鶴見駅(現・京急鶴見駅)と花月園前駅(現・花月総持寺駅)の間に総持寺駅(1911年開業、1944年廃止)が存在した(現・本山前桜公園付近)。
ちなみに、総持寺駅には京浜電鉄のほか、さらにもう1路線が乗り入れていた。海岸電気軌道という路面電車である。当時、川崎・鶴見の臨海部では工場の進出に付随して住宅や店舗が次々と新築され、人口が増え続けていた。その輸送のために京浜電鉄の子会社として設立されたのが海岸電軌であり、1925(大正14)年10月までに総持寺駅-大師駅(現・川崎大師駅)間の約9.5kmを全通させた。
ところが、この海岸電軌は昭和初期の経済不況などから極度の経営不振に陥り、さらに路線がほぼ並行する鶴見臨港鉄道が旅客営業を開始することになると、いよいよ経営が行き詰まり、1930(昭和5)年3月に鶴見臨港鉄道に吸収合併されてしまう。こうして海岸電軌は鶴見臨港鉄道軌道線となった。
しかし、同じ会社の並行する2つの路線がともに旅客営業を行うのはやはり合理性がなかったため、軌道線は1937(昭和12)年12月に廃止されている。
■鶴見線に未成線があった?
戦時下の1943(昭和18)年7月、軍需輸送上の重要路線と位置付けられた鶴見臨港鉄道は、戦時買収によって国有化され、鉄道省線(後の国鉄)の鶴見線となる。
戦後になると、国に対して払い下げ運動が行われたが功を奏さず、1949(昭和24)年6月に日本国有鉄道(国鉄)が発足すると、国鉄鶴見線となった。
こうして鉄道事業を失った後も、鶴見臨港鉄道株式会社は、不動産賃貸・売買事業などを営む不動産会社(旧・浅野財閥系の東亜建設工業の完全子会社)として存続。2019年4月に東亜地所を吸収合併して東亜リアルエステートと商号変更した(さらに2025年7月に東亜ビルテックと合併し、現在は東亜リアテックに商号変更)。
筆者は2019年12月、鶴見臨港鉄道に関する資料を閲覧するために同社を訪問した。その際、不動産管理部長の長松健さんから、興味深い話を聞くことができた。鶴見臨港鉄道には鶴見駅-矢向駅間(矢向線)、および浜川崎駅-羽田-大森駅間(大森線)という2つの路線延長計画があったというのだ。このうち矢向線は、同じく旧・浅野財閥系の路線だった南武鉄道(現・JR南武線)と接続して、環状線とする意図があったらしい。
長松さんは、「この矢向方面への延長計画があったからこそ、鶴見線(鶴見臨港鉄道)の鶴見駅は、路線の大半がある海側(東口)ではなく、東海道線や京急本線を跨(また)いで山側(西口)につくられた。また、矢向線建設のために鶴見駅から森永製菓鶴見工場(鶴見区下末吉2丁目)の手前まで、実際に用地買収も進められた」と話す。
結局、矢向線も大森線も実現せず未成線のままに終わったものの、矢向線建設のために買収した土地は、戦中・戦後を通じて国や他企業に買収されずに鶴見臨港鉄道が所有し続けた。現在、東亜リアテック横浜事業所(旧・東亜リアルエステート)は鶴見駅の駅ビル「ミナール」をはじめ、この矢向線用地を基盤として不動産事業を営んでいる。
■ほかにも支線があった?
鶴見線には今も、冒頭に記した海芝浦支線(浅野-海芝浦間)、首都圏で最後までチョコレート色の旧型国電車両が走っていた大川支線(武蔵白石-大川間)があるが、かつてはさらに石油支線、鶴見川口支線という2つの支線が存在した。
石油支線は1926(大正15)年4月、安善町にあった日本石油、ライジングサン石油(後にシェル石油)、スタンダード石油(後にモービル石油など)の製油場からの石油輸送を目的として開業。1930(昭和5)年から1938(昭和13)年の間は旅客輸送も行った。
同支線は1986(昭和61)年に廃止されたが、その後も安善駅の構内施設扱いで線路(約1km=JR貨物が管理)が残り、現在も不定期ながら、米軍の鶴見貯油施設から横田基地への航空燃料輸送に使われている。
現地に足を運ぶと、支線の終点に設けられていた浜安善駅(開業時は石油駅。国有化時に浜安善駅に改称)跡地に、コンクリート製の車止めが駅の遺構として今も残っている。
また、浜安善駅跡のやや手前(北側)で分岐した引込線が米軍の貯油施設内へと延びており、フェンス越しに石油タンク車が並んでいるのが確認できる(米軍施設内は撮影禁止のため注意)。
次は、鶴見川口支線(1982年廃止)についてだ。今も線路が残っている石油支線と比べると、この支線(1982年廃止)を知る人は少ないのではないか。
同支線は1929(昭和4)年から1932(昭和7)年にかけて神奈川県が不況対策として行った埋立事業(現・鶴見区末広町1丁目の大部分)完了後、同地区の貨物輸送のために1935(昭和10)年に開業した。当初は弁天橋駅を起点に鶴見川口駅との間を結び、国有化時に起点が浅野駅に移されている(浅野-鶴見川口間2.4km)。
面白いのが、この支線の線形だ。浅野駅を出発した貨物列車は、いったん鶴見小野駅上りホーム西側に敷かれた側線に入り、ここでスイッチバックしていた。鶴見小野駅西側のレンガ敷きの遊歩道が、その側線跡だ。
鶴見小野駅で方向転換した後は、産業道路の南側で鶴見線本線から分岐し、その先で日本鋼管(現・JFEスチール)鶴見川工場の引込線と交差。現在のバス通りに沿って鶴見川口駅へと進んでいた。
ただし、1948(昭和23)年測量の地図を見ると、この時点では浅野駅方面から鶴見川口駅へ直接入線する線形になっており、スイッチバックを行うようになったのは、その後のことのようだ。
さて、本記事では鶴見線の謎解きをしながら、その歴史を見てきたが、鶴見線にはほかにも、「なぜ、人名のような駅が多いのか」などの謎があり、興味が尽きない。鶴見線や海岸電軌の歴史や廃線跡探訪については、拙著『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年刊)で詳述している。興味のある方は、ぜひ参考にしてみてほしい。
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