2025年9月19日より公開される劇場アニメ『ひゃくえむ。』。
劇場アニメ化を担当したのは、国内外の映画祭から自主制作アニメ映画『音楽』が高評価を受けた岩井澤健治監督。実写映像をもとに作画をする「ロトスコープ」が持ち味で、『ひゃくえむ。』を緻密かつ大胆にアニメ化した。
本稿では魚豊先生と岩井澤健治監督の対談を実施。お互いの作品への印象や、「10秒」の描写へのこだわり、そして作画に約1年かかったという『ひゃくえむ。』屈指の名シーン制作秘話を伺った。
「作家性のある方に選んでいただけて光栄です」
――おふたりは『ひゃくえむ。』劇場アニメ化が決まる前から、お互いをご存じでしたか?
岩井澤監督 僕は『チ。ー地球の運動についてー』(以下、チ。
魚豊先生 岩井澤監督の『音楽』は知っていたものの、公開当時は観ることができなかったんですが、評判がよかったので「絶対おもしろいんだろうな」と気になっていて。制作背景もかなり独特で、オリジナリティーがある監督、といった印象を持っていました。
驚いたのは、僕が何も言わずとも、親も『音楽』を熱心に見ていて「おもしろい!」と言っていたこと。そういう経験は自分の人生で少なかったので、誰にでも伝わるものがある作品だと思いました。そんな厚みや強度のある作品を創っている監督に『ひゃくえむ。』を担当していただけて、とても光栄です。
岩井澤監督 『ひゃくえむ。』を読んで2週間くらい経ったとき、ポニーキャニオンの担当者さんから「一緒にやりたい企画がある」とお声がけいただきました。その企画こそが『ひゃくえむ。』で。ちょうど僕の中で“魚豊ブーム”が起きており今いちばん注目している作家さんの作品だったので「ぜひやりたい!」と快諾しました。その場ですぐ、具体的な話を始めたほどです。
――どのような話をしたのでしょうか?
岩井澤監督 主に映像のイメージですね。陸上や100m走は、みんなが知っているけれど野球やサッカーなどに比べたら少しマイナーな競技かもしれません。しかも個人種目で、試合時間も10秒と短い。これをエンタメとして見せるにはどうするかを話し合っていきました。
――魚豊先生は、『ひゃくえむ。』劇場アニメ化をどう感じましたか?
魚豊先生 とても嬉しかったですね! メディア化するだけでなく、作家性のある岩井澤監督に選んでいただけたのがいちばん嬉しかったです。
――劇場アニメ化に際して、魚豊先生から要望は伝えましたか?
魚豊先生 要望は全然なかったです。ただ、マンガはモノローグなどを使って競技中の10秒内でさまざまな表現ができますが、映像でそのままやるとチープになってしまうのではないか。そのあたりは懸念点としてお伝えしました。でも、プロの方々に「懸念は当然クリアします」と言っていただけたので、心配していなかったです。
岩井澤監督 僕は心配でした。魚豊さんのマンガって強烈なんですよ。
映画ならではの表現と、原作のバランス感を重視
――劇場アニメ化にあたって岩井澤監督が大切にした点はありますか?
岩井澤監督 原作のある作品ですし、中途半端なものにはできないと思いました。魚豊さんや原作ファンを無視して、自分がやりたいように作ってはいけない。それと同時に、原作をただなぞってダイジェストにするのも違うと考えました。自分の中で、絶対に変えてはいけないところと、映画としてアレンジするところのバランスは最初からなんとなく決めていて。まず魚豊さんに構成案を見ていただき、フィードバックをいただいて修正していきました。
実は最初の案に対して「全然ダメです。最初からやり直してください」と言われるかもしれない、と覚悟していたんです。実際はそうではなく、かなり細かなニュアンスまで見てくださったことが伝わるフィードバックをいただきました。
――魚豊先生は完成した映像を見て、どのような感想を抱きましたか?
魚豊先生 まず役者さんたちの声がイメージ通りで、かなりハマっていると感じました。
岩井澤監督 声は重要だな、と自分も思っていました。アニメーションで声がハマらないとがっかりしてしまいますし、見ている方にとってノイズになってしまう。
魚豊先生 劇伴もよかったですね。抑制的だからこそ、ここぞという場面で盛り上がる曲がかかったときはテンションが一気に上がるんです。それでいて、劇伴がかかっていないときにも音が聞こえてくるような雰囲気もいいな、と思いました。
――音楽の使い方はどういった点を意識しましたか?
岩井澤監督 音楽の堤博明さんには、メインテーマを作ってもらいたい、とはっきり要望を出しました。ほかの作品では映像の邪魔をしないよう、寄り添いながら盛り上げる音楽が求められることが多いと思いますが、僕の好みは音楽がバーンと前に出る作品。ですからキャッチーなメインテーマで、耳に残る劇伴がほしかったんです。ちなみにメインテーマを創る過程でできたほかの曲は別のシーンに使われていて、それらの曲もメインテーマ候補なので、結構贅沢な作り方だったと思います。
ロトスコープで表現した慣性のある「生々しさ」
――ほかにも魚豊先生が映画を見て感じたことはありますか?
魚豊先生 走ったあとや疲れている描写など、ロトスコープ(ロトスコ)ならではの慣性があると驚きました。ありふれた運動かもですが、慣性はマンガで描くのが難しくて…それを生々しく映像で観られてよかったです。僕は生々しい表現も好きなので(笑)、とても気に入っています。
――ロトスコ用の映像を撮影するときに意識した点を教えてください。
岩井澤監督 実写で撮影しながら役者の方に演じてもらうのを演出しながら、撮影中もリアルタイムで頭の中で絵に変換していきました。ロトスコは絵にすると生々しい動きやリアリティーが出ますが、もとにする実写映像を撮るときは舞台演技のように大きくコミカルに動いてもらったほうがよくて、実写がすぎると、絵にしたときに気持ち悪く見えてしまうのが「ロトスコあるある」なんです。シーンによってはオーバーリアクションで撮ると、絵にした時にちょうどいいバランスになるんです。
魚豊先生 なるほど。『ひゃくえむ。』がほかのロトスコ作品と少し違うと感じたのは、独特な撮り方をしていたからだと納得しました。あと、小学生編ではロトスコを使わず、高校生編から使っていましたよね?
岩井澤監督 そうですね。
魚豊先生 それがまたよくて。ひとつの映画のなかで、ロトスコープとそうでない動きの2種類のアニメを見られるんです。実験映画では可能なのかもしれませんが、全国的に上映する長編作品で試みていただけたのはおもしろくも、嬉しくもありました。
画面に流れる10秒の内実は、1秒あたりの作画枚数をあえて減らす「リミテッドアニメーション」と、枚数を増やしてなめらかな動きにする「フルアニメーション」では全然違います。でも、作中で流れる時間は同じ10秒。「メタなルールが内実の解像度を変えていく」という『ひゃくえむ。』のテーマが映像表現からも感じられて、おもしろかったです。
アニメとマンガで描かれるいくつもの「10秒」の世界
――『ひゃくえむ。』では何度も競技中の「10秒」の景色が描かれます。この10秒間をアニメやマンガで表現する際、それぞれ工夫した点を教えてください。
魚豊先生 『ひゃくえむ。』では実験や挑戦をして、アイデアをたくさん入れられたと自分でも思っています。スタートするまでの緊張感や、時間が永遠に続くかのような感覚。しかしスタートしてしまうと一瞬で終わる、という対比を意識しました。マンガは時間をどれだけ分割するかもカットするかも自由なメディアです。描き方も本当に自由で、コマやページの使い方で一瞬を分厚くすることだってできます。しかし個人競技なので、試合が始まったらほかの選手との関わりは終わりで、あとは内省だけといった難しさもありました。でも難しい分、描いていて楽しかったですね。
岩井澤監督 映像は観る人の体感に委ねられてしまうので、時間をこちらで完全にコントロールすることはできません。ただ、マンガと同じようにひとつの場面を短く見せることや伸ばすことはできます。しかし『ひゃくえむ。』では100mの10秒を、体感として「本当に10秒で描いている!」と感じてもらいたくて。試合が一瞬で終わる、というのが100m走や『ひゃくえむ。』の魅力でもあるので、それを映画を観た人に感じてもらうにはどうしたらいいかを意識しています。とにかく走るシーンが多いので毎試合「新しい見せ方はないだろうか」と、すごく考えました。
――高校全国大会の決勝戦は、試合前から終了までの3分40秒をワンカットで描いた挑戦的なシーンでしたね。
岩井澤監督 このシーンはワンカットで描こうと初期から決めていました。シーンのイメージが浮かんだときに、「この作品はいける」と確信しました。
きっかけは、シナハンで実際の陸上大会を見に行ったとき、TVの中継などでは映らなかった選手の動きがたくさんあると気づいたことです。試合が始まる前にも、スタブロ(スターティングブロック)をセットし、アップや精神統一をして。こうした一連の流れを知り、普通の映像や物語だったら絶対にカットするようなところもあえて見せる映画にしたいと考えました。
手持ちカメラ1台で撮影したロトスコ用映像をもとに作画して長尺のアニメーションにするなんて、なかなか無い試みかもしれません。でも前例のないことができ、それが作品のテイストとマッチするなら挑戦しない手はないと思いました。
――斬新なシーンを作りあげようと、スタッフ陣も力を入れたのではないでしょうか。
岩井澤監督 そもそも、うちの会社は『ひゃくえむ。』のためにスタッフを集めてスタジオにしたので、みんな未経験だったり新人だったり、まっさらな状態の人が多いんです。僕が「アニメってこういうものだよ」という雰囲気を出していたので、「こんなこと普通はやらないよな」と思いながらも取り組んでくれていたんだと思います(笑)。商業アニメの経験が豊富な方ほど、「これは無理です」と反対していたと思います。
でも映画館で映画を観る醍醐味のひとつは、特別な体験ができることだと思っていて。『ひゃくえむ。』でそれができるのであれば、絶対に入れたほうがいいです。作品としての厚みも出るので、映画館に行った人が「すごいシーンがあったよ」と周りに広めてくれるかもしれません。大変ですが挑戦した結果、決勝戦の作画は丸々1年かかりましたね。
――1年ですか!?
岩井澤監督 24年の8月頭から作画を始めて、常に誰かが描いている状態で。今年の8月頭にようやくできあがりました。
魚豊先生 これほど力を入れる作品として選んでもらえて、本当にありがたいです。アニメやマンガは産業構造のひとつになっているので、仕事や会社の存続のために作られているものも正直たくさんあると思います。そのおかげで僕みたいな者もお金をもらって生きていけるのでとてもありがたいのですが、作品が持っている本来の可能性は商品の交換や経済の最大化とは別のところにある。それは断言します。だからこそ監督に「商業作品では普通ではない作り方だけれど、作品にとって最善のはずだからやってみよう」とこだわっていただけたのは嬉しいですね。僕も本当はそんな作品を生み出したいものの、体力がないのでできなくて。真正面から作品作りをしているアニメーターの方や監督を、本当にリスペクトしています。
岩井澤監督 どれも『ひゃくえむ。』という作品があったからこそできた表現です。ゼロから作品を創り出すすごさを、改めて感じました。こちらも魚豊さんには尊敬しかないです。
「アニメ制作を志す人にも見てほしい」アニメの厚み
――本作をどのような人に見てほしいですか?
魚豊先生 僕は全く業界に詳しくはないのですが、アニメを作っている方が劇場アニメ化された『ひゃくえむ。』を観たらどう思うのか気になっています。僕レベルの素人でも「これを作るのは相当難しいはずだぞ」と感じたシーンがたくさんあるので、アニメを作っている人が見ると、よりすごさに気づくかもしれません。
あと、これからアニメを作りたいと思っている方にも驚いてもらえそうです。きっと映像の1秒とはまた違う、アニメとして厚みのある1秒として分析できるのではないかな、と。そういう解像度や粒度の剔抉に耐え得る強度のある映像作品だと思うので、ぜひ本作に触れていただきたいです。
岩井澤監督 個人的に『ひゃくえむ。』にハマるのは40代や50代の方が多いかなと思っています。青春時代を回想するような気持ちになれるかもしれません。でも、これから何かをやりたいと思っている小学生や中学生にも見てもらいたいですね。『ひゃくえむ。』をきっかけに、その“何か”に目覚めてもらえると嬉しいです。自分が世に出したものが循環して若い世代にも伝わり、何かを生み出すきっかけになっていくといいな、と思います。
――映画を楽しみにしている方へのメッセージをお願いします。
岩井澤監督 マンガとはまた少し違う『ひゃくえむ。』の世界ですが、原作ファンが見たいシーンやセリフもあると思うので、それも含めて楽しんでいただけたら。映画で初めて『ひゃくえむ。』に触れた方には、ぜひ原作で掘り下げている心理描写や、キャラクターの背景を読んでほしいです。マンガと映画、両方楽しんでください。
魚豊先生 岩井澤監督が仰ったとおりで、原作で自分なりに考えたよさと、映画のよさには違うところがあると思います。どちらのよさも感じていただきたいですし、両方観ていただくのは無駄ではありません。映画にもマンガにもお金を落としていただけると、とても嬉しいです(笑)!
劇場アニメ『ひゃくえむ。』
2025年9月19日(金)全国公開
【CREDIT】
松坂桃李、染谷将太/笠間 淳、高橋李依、田中有紀/種崎敦美(崎は「たつさき」)、悠木 碧/内田雄馬、内山昂輝、津田健次郎
原作:魚豊『ひゃくえむ。』(講談社「マガジンポケット」所載)
監督:岩井澤健治
脚本:むとうやすゆき
キャラクターデザイン・総作画監督:小嶋慶祐
音楽:堤博明
主題歌:Official髭男dism「らしさ」(IRORI Records / PONY CANYON)
美術監督:山口渓観薫、色彩設計:松島英子、撮影監督:駒月麻顕、編集:宮崎 歩、音楽ディレクター:池田貴博、サウンドデザイン:大河原 将、キャスティング:池田舞 松本晏純、音響制作担当:今西栄介
プロデューサー:寺田悠輔、片山悠樹、武次茜
アニメーション制作:ロックンロール・マウンテン
製作:『ひゃくえむ。』製作委員会
配給:ポニーキャニオン/アスミック・エース
【原作情報】
『ひゃくえむ。』(講談社「マガジンポケット」所載)
著:魚豊
コミックス全5巻、新装版全2巻:好評発売中
(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
原作は『チ。―地球の運動について―』などで知られるマンガ家・魚豊先生の連載デビューコミックスだ。陸上競技の100m走を題材としており、たった10秒にすべてを懸けたトガシと小宮たちの人生が描かれる。
劇場アニメ化を担当したのは、国内外の映画祭から自主制作アニメ映画『音楽』が高評価を受けた岩井澤健治監督。実写映像をもとに作画をする「ロトスコープ」が持ち味で、『ひゃくえむ。』を緻密かつ大胆にアニメ化した。
本稿では魚豊先生と岩井澤健治監督の対談を実施。お互いの作品への印象や、「10秒」の描写へのこだわり、そして作画に約1年かかったという『ひゃくえむ。』屈指の名シーン制作秘話を伺った。
「作家性のある方に選んでいただけて光栄です」
――おふたりは『ひゃくえむ。』劇場アニメ化が決まる前から、お互いをご存じでしたか?
岩井澤監督 僕は『チ。ー地球の運動についてー』(以下、チ。
)で魚豊さんを知りました。本屋で『チ。』が平積みされているのを見て、とても気になったんです。タイトルもそうですし、表紙がほかの作品と全然違うデザインで。単行本が3巻あたりまで出たところでまとめ買いして読みました。「おもしろいし、新しい!」と思いましたね。作家さんについて調べたところ、まだ20代前半だと知ってさらに驚いて。しかも『ひゃくえむ。』という、『チ。』とはまったく違う題材の陸上競技マンガを描いていて衝撃を受けました。
魚豊先生 岩井澤監督の『音楽』は知っていたものの、公開当時は観ることができなかったんですが、評判がよかったので「絶対おもしろいんだろうな」と気になっていて。制作背景もかなり独特で、オリジナリティーがある監督、といった印象を持っていました。
その後『ひゃくえむ。』劇場アニメ化の話をいただき、遅ればせながら『音楽』を観たんですが、それがめちゃくちゃおもしろくて! アニメーションの喜びが詰まっているというか、実際に創ってみたくもなる作品だと感じました。
驚いたのは、僕が何も言わずとも、親も『音楽』を熱心に見ていて「おもしろい!」と言っていたこと。そういう経験は自分の人生で少なかったので、誰にでも伝わるものがある作品だと思いました。そんな厚みや強度のある作品を創っている監督に『ひゃくえむ。』を担当していただけて、とても光栄です。
岩井澤監督 『ひゃくえむ。』を読んで2週間くらい経ったとき、ポニーキャニオンの担当者さんから「一緒にやりたい企画がある」とお声がけいただきました。その企画こそが『ひゃくえむ。』で。ちょうど僕の中で“魚豊ブーム”が起きており今いちばん注目している作家さんの作品だったので「ぜひやりたい!」と快諾しました。その場ですぐ、具体的な話を始めたほどです。
――どのような話をしたのでしょうか?
岩井澤監督 主に映像のイメージですね。陸上や100m走は、みんなが知っているけれど野球やサッカーなどに比べたら少しマイナーな競技かもしれません。しかも個人種目で、試合時間も10秒と短い。これをエンタメとして見せるにはどうするかを話し合っていきました。
――魚豊先生は、『ひゃくえむ。』劇場アニメ化をどう感じましたか?
魚豊先生 とても嬉しかったですね! メディア化するだけでなく、作家性のある岩井澤監督に選んでいただけたのがいちばん嬉しかったです。
――劇場アニメ化に際して、魚豊先生から要望は伝えましたか?
魚豊先生 要望は全然なかったです。ただ、マンガはモノローグなどを使って競技中の10秒内でさまざまな表現ができますが、映像でそのままやるとチープになってしまうのではないか。そのあたりは懸念点としてお伝えしました。でも、プロの方々に「懸念は当然クリアします」と言っていただけたので、心配していなかったです。
岩井澤監督 僕は心配でした。魚豊さんのマンガって強烈なんですよ。
だからお会いするまでは「どんな人なんだろう」と(笑)。
映画ならではの表現と、原作のバランス感を重視
――劇場アニメ化にあたって岩井澤監督が大切にした点はありますか?
岩井澤監督 原作のある作品ですし、中途半端なものにはできないと思いました。魚豊さんや原作ファンを無視して、自分がやりたいように作ってはいけない。それと同時に、原作をただなぞってダイジェストにするのも違うと考えました。自分の中で、絶対に変えてはいけないところと、映画としてアレンジするところのバランスは最初からなんとなく決めていて。まず魚豊さんに構成案を見ていただき、フィードバックをいただいて修正していきました。
実は最初の案に対して「全然ダメです。最初からやり直してください」と言われるかもしれない、と覚悟していたんです。実際はそうではなく、かなり細かなニュアンスまで見てくださったことが伝わるフィードバックをいただきました。
――魚豊先生は完成した映像を見て、どのような感想を抱きましたか?
魚豊先生 まず役者さんたちの声がイメージ通りで、かなりハマっていると感じました。
岩井澤監督 声は重要だな、と自分も思っていました。アニメーションで声がハマらないとがっかりしてしまいますし、見ている方にとってノイズになってしまう。
それは絶対に避けたかったので、キャスティングはキャラクターとマッチさせたいと要望を出しました。キャストが決まった瞬間は、全員がハマり役だったのでありがたかったです。
魚豊先生 劇伴もよかったですね。抑制的だからこそ、ここぞという場面で盛り上がる曲がかかったときはテンションが一気に上がるんです。それでいて、劇伴がかかっていないときにも音が聞こえてくるような雰囲気もいいな、と思いました。
――音楽の使い方はどういった点を意識しましたか?
岩井澤監督 音楽の堤博明さんには、メインテーマを作ってもらいたい、とはっきり要望を出しました。ほかの作品では映像の邪魔をしないよう、寄り添いながら盛り上げる音楽が求められることが多いと思いますが、僕の好みは音楽がバーンと前に出る作品。ですからキャッチーなメインテーマで、耳に残る劇伴がほしかったんです。ちなみにメインテーマを創る過程でできたほかの曲は別のシーンに使われていて、それらの曲もメインテーマ候補なので、結構贅沢な作り方だったと思います。
ロトスコープで表現した慣性のある「生々しさ」
――ほかにも魚豊先生が映画を見て感じたことはありますか?
魚豊先生 走ったあとや疲れている描写など、ロトスコープ(ロトスコ)ならではの慣性があると驚きました。ありふれた運動かもですが、慣性はマンガで描くのが難しくて…それを生々しく映像で観られてよかったです。僕は生々しい表現も好きなので(笑)、とても気に入っています。
――ロトスコ用の映像を撮影するときに意識した点を教えてください。
岩井澤監督 実写で撮影しながら役者の方に演じてもらうのを演出しながら、撮影中もリアルタイムで頭の中で絵に変換していきました。ロトスコは絵にすると生々しい動きやリアリティーが出ますが、もとにする実写映像を撮るときは舞台演技のように大きくコミカルに動いてもらったほうがよくて、実写がすぎると、絵にしたときに気持ち悪く見えてしまうのが「ロトスコあるある」なんです。シーンによってはオーバーリアクションで撮ると、絵にした時にちょうどいいバランスになるんです。
魚豊先生 なるほど。『ひゃくえむ。』がほかのロトスコ作品と少し違うと感じたのは、独特な撮り方をしていたからだと納得しました。あと、小学生編ではロトスコを使わず、高校生編から使っていましたよね?
岩井澤監督 そうですね。
魚豊先生 それがまたよくて。ひとつの映画のなかで、ロトスコープとそうでない動きの2種類のアニメを見られるんです。実験映画では可能なのかもしれませんが、全国的に上映する長編作品で試みていただけたのはおもしろくも、嬉しくもありました。
画面に流れる10秒の内実は、1秒あたりの作画枚数をあえて減らす「リミテッドアニメーション」と、枚数を増やしてなめらかな動きにする「フルアニメーション」では全然違います。でも、作中で流れる時間は同じ10秒。「メタなルールが内実の解像度を変えていく」という『ひゃくえむ。』のテーマが映像表現からも感じられて、おもしろかったです。
アニメとマンガで描かれるいくつもの「10秒」の世界
――『ひゃくえむ。』では何度も競技中の「10秒」の景色が描かれます。この10秒間をアニメやマンガで表現する際、それぞれ工夫した点を教えてください。
魚豊先生 『ひゃくえむ。』では実験や挑戦をして、アイデアをたくさん入れられたと自分でも思っています。スタートするまでの緊張感や、時間が永遠に続くかのような感覚。しかしスタートしてしまうと一瞬で終わる、という対比を意識しました。マンガは時間をどれだけ分割するかもカットするかも自由なメディアです。描き方も本当に自由で、コマやページの使い方で一瞬を分厚くすることだってできます。しかし個人競技なので、試合が始まったらほかの選手との関わりは終わりで、あとは内省だけといった難しさもありました。でも難しい分、描いていて楽しかったですね。
岩井澤監督 映像は観る人の体感に委ねられてしまうので、時間をこちらで完全にコントロールすることはできません。ただ、マンガと同じようにひとつの場面を短く見せることや伸ばすことはできます。しかし『ひゃくえむ。』では100mの10秒を、体感として「本当に10秒で描いている!」と感じてもらいたくて。試合が一瞬で終わる、というのが100m走や『ひゃくえむ。』の魅力でもあるので、それを映画を観た人に感じてもらうにはどうしたらいいかを意識しています。とにかく走るシーンが多いので毎試合「新しい見せ方はないだろうか」と、すごく考えました。
――高校全国大会の決勝戦は、試合前から終了までの3分40秒をワンカットで描いた挑戦的なシーンでしたね。
岩井澤監督 このシーンはワンカットで描こうと初期から決めていました。シーンのイメージが浮かんだときに、「この作品はいける」と確信しました。
きっかけは、シナハンで実際の陸上大会を見に行ったとき、TVの中継などでは映らなかった選手の動きがたくさんあると気づいたことです。試合が始まる前にも、スタブロ(スターティングブロック)をセットし、アップや精神統一をして。こうした一連の流れを知り、普通の映像や物語だったら絶対にカットするようなところもあえて見せる映画にしたいと考えました。
手持ちカメラ1台で撮影したロトスコ用映像をもとに作画して長尺のアニメーションにするなんて、なかなか無い試みかもしれません。でも前例のないことができ、それが作品のテイストとマッチするなら挑戦しない手はないと思いました。
――斬新なシーンを作りあげようと、スタッフ陣も力を入れたのではないでしょうか。
岩井澤監督 そもそも、うちの会社は『ひゃくえむ。』のためにスタッフを集めてスタジオにしたので、みんな未経験だったり新人だったり、まっさらな状態の人が多いんです。僕が「アニメってこういうものだよ」という雰囲気を出していたので、「こんなこと普通はやらないよな」と思いながらも取り組んでくれていたんだと思います(笑)。商業アニメの経験が豊富な方ほど、「これは無理です」と反対していたと思います。
でも映画館で映画を観る醍醐味のひとつは、特別な体験ができることだと思っていて。『ひゃくえむ。』でそれができるのであれば、絶対に入れたほうがいいです。作品としての厚みも出るので、映画館に行った人が「すごいシーンがあったよ」と周りに広めてくれるかもしれません。大変ですが挑戦した結果、決勝戦の作画は丸々1年かかりましたね。
――1年ですか!?
岩井澤監督 24年の8月頭から作画を始めて、常に誰かが描いている状態で。今年の8月頭にようやくできあがりました。
魚豊先生 これほど力を入れる作品として選んでもらえて、本当にありがたいです。アニメやマンガは産業構造のひとつになっているので、仕事や会社の存続のために作られているものも正直たくさんあると思います。そのおかげで僕みたいな者もお金をもらって生きていけるのでとてもありがたいのですが、作品が持っている本来の可能性は商品の交換や経済の最大化とは別のところにある。それは断言します。だからこそ監督に「商業作品では普通ではない作り方だけれど、作品にとって最善のはずだからやってみよう」とこだわっていただけたのは嬉しいですね。僕も本当はそんな作品を生み出したいものの、体力がないのでできなくて。真正面から作品作りをしているアニメーターの方や監督を、本当にリスペクトしています。
岩井澤監督 どれも『ひゃくえむ。』という作品があったからこそできた表現です。ゼロから作品を創り出すすごさを、改めて感じました。こちらも魚豊さんには尊敬しかないです。
「アニメ制作を志す人にも見てほしい」アニメの厚み
――本作をどのような人に見てほしいですか?
魚豊先生 僕は全く業界に詳しくはないのですが、アニメを作っている方が劇場アニメ化された『ひゃくえむ。』を観たらどう思うのか気になっています。僕レベルの素人でも「これを作るのは相当難しいはずだぞ」と感じたシーンがたくさんあるので、アニメを作っている人が見ると、よりすごさに気づくかもしれません。
あと、これからアニメを作りたいと思っている方にも驚いてもらえそうです。きっと映像の1秒とはまた違う、アニメとして厚みのある1秒として分析できるのではないかな、と。そういう解像度や粒度の剔抉に耐え得る強度のある映像作品だと思うので、ぜひ本作に触れていただきたいです。
岩井澤監督 個人的に『ひゃくえむ。』にハマるのは40代や50代の方が多いかなと思っています。青春時代を回想するような気持ちになれるかもしれません。でも、これから何かをやりたいと思っている小学生や中学生にも見てもらいたいですね。『ひゃくえむ。』をきっかけに、その“何か”に目覚めてもらえると嬉しいです。自分が世に出したものが循環して若い世代にも伝わり、何かを生み出すきっかけになっていくといいな、と思います。
――映画を楽しみにしている方へのメッセージをお願いします。
岩井澤監督 マンガとはまた少し違う『ひゃくえむ。』の世界ですが、原作ファンが見たいシーンやセリフもあると思うので、それも含めて楽しんでいただけたら。映画で初めて『ひゃくえむ。』に触れた方には、ぜひ原作で掘り下げている心理描写や、キャラクターの背景を読んでほしいです。マンガと映画、両方楽しんでください。
魚豊先生 岩井澤監督が仰ったとおりで、原作で自分なりに考えたよさと、映画のよさには違うところがあると思います。どちらのよさも感じていただきたいですし、両方観ていただくのは無駄ではありません。映画にもマンガにもお金を落としていただけると、とても嬉しいです(笑)!
劇場アニメ『ひゃくえむ。』
2025年9月19日(金)全国公開
【CREDIT】
松坂桃李、染谷将太/笠間 淳、高橋李依、田中有紀/種崎敦美(崎は「たつさき」)、悠木 碧/内田雄馬、内山昂輝、津田健次郎
原作:魚豊『ひゃくえむ。』(講談社「マガジンポケット」所載)
監督:岩井澤健治
脚本:むとうやすゆき
キャラクターデザイン・総作画監督:小嶋慶祐
音楽:堤博明
主題歌:Official髭男dism「らしさ」(IRORI Records / PONY CANYON)
美術監督:山口渓観薫、色彩設計:松島英子、撮影監督:駒月麻顕、編集:宮崎 歩、音楽ディレクター:池田貴博、サウンドデザイン:大河原 将、キャスティング:池田舞 松本晏純、音響制作担当:今西栄介
プロデューサー:寺田悠輔、片山悠樹、武次茜
アニメーション制作:ロックンロール・マウンテン
製作:『ひゃくえむ。』製作委員会
配給:ポニーキャニオン/アスミック・エース
【原作情報】
『ひゃくえむ。』(講談社「マガジンポケット」所載)
著:魚豊
コミックス全5巻、新装版全2巻:好評発売中
(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
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