オリジナルアニメ映画『ホウセンカ』は、運命と呼ばれるものに対する闘争を描いた作品だ。ただし、その語り口は闘争という言葉からは遠くとても静かなものだ。
※以下の内容は映画の重要な部分に触れています。映画鑑賞後に読むことを勧めます。
例えば映画はまず、虫の音から始まる。そこに重なる少し苦しそうな息遣い。画面がフェードインすると、そこは夜の花壇らしくムカデや蛾の姿が見える。彼らは動いているので、虫の音と相まって、静けさの中に“命”の気配が漂ってくる。
カットが変わって刑務所の個室の中で老人が寝ている姿が描かれる。この老人にホウセンカが話しかけることで、物語が始まる。この静けさの中に宿る、じんわりと温もりを感じさせる命の気配は、この映画の基調をなしている。そして、この老人・阿久津の回想が始まる。
回想は、阿久津と那奈が新居に引っ越してきたその夜から始まる。斜面に建った家の庭からは、海岸で打ち上げられる花火が見える。
アバンタイトルを飾るこの花火は「我々の生(ヴイ)のような花火」という芥川龍之介の小説『舞踏会』の一節を思い出させる。この言葉は小説中で一瞬のうちに過ぎ去っていく美しい時間のことを指して使われている。そしてこの小説はそこに人生の本質を凝縮してみせる。
『ホウセンカ』の花火もまた、主人公・阿久津実の人生の象徴だ。ただしこちらは「美しい一瞬」というより、最後の一瞬に向けて時が満ちていく、その感覚の象徴として花火が使われていく。この「最後の一瞬」こそ、刑務所の老人となった阿久津にとっては、彼が願った大逆転の一瞬ということになる。そして阿久津の大逆転以外にも、この「最後の一瞬」に向けて時が満ちていく感覚は、この映画のさまざまなモチーフの形で登場する。そもそも阿久津の大逆転は、むしろこの「時が満ちていく感覚」に対するカウンターとして存在しているといえる。
新居に引っ越してきた阿久津と那奈、そして赤ん坊の健介。健介は那奈の子供で阿久津とは血がつながっていない。そして阿久津と那奈は結婚しているわけでもない。
序盤で重要なシーンが2つある。
ひとつは、引っ越しの段ボールを空けるときのガムテープの音と、電子レンジのチンという音を楽器のように響かせることで、『スタンド・バイ・ミー』を阿久津と那奈のふたりが鼻歌で歌うシーン。『スタンド・バイ・ミー』はこのあと2回登場して、「花火」とは別の支柱として本作を支えることになる。
もうひとつは、庭に咲いているホウセンカの種に阿久津が触ろうとするシーン。それに気づいた那奈は、阿久津を制止する。「触っちゃだめ。自然に生まれてきたものは、自然に任せなきゃ。そこは神の領域なんだ」。時が満ちるまではホウセンカに触れてはいけない、という原則。この「神の領域」は、映画の後半で起こる出来事とも、そして「大逆転」とつながっている。
こんな、なんてことはない阿久津たちの暮らしを描く序盤は、阿久津の兄貴分である堤の登場で締めくくられる。
ここから物語は、幸福そうに見えながら微妙なバランスの上に乗っている3人の関係が描かれていく。物語が転調するのは、健介が心臓に重大な病気を抱えていることがわかる瞬間だ。このままでは健介は大人になれるかどうかもわからない。助かるためには心臓移植が必要だという。ここでもうひとつ「健介の死」という「時が満ちていく」ものが登場する。「健介の死」は、見通すことのできないバブルの行く末と違い、もっと具体的な「時が満ちていく」感覚として、阿久津の心を揺さぶる。この話を聞いた直後、パチンコ屋から阿久津が持ってきた風船が弾けるのは、まさにこの具体性ゆえだ。
こうして映画後半は、健介をいかに救うか。阿久津が、不安定であるがゆえに目を背けてきた、“家族”のために、動き出す様子を描く。
ここで那奈の前半の台詞が生きてくる。「自然に生まれてきたものは、自然に任せなきゃ。そこは神の領域なんだ」。しかしそのままでいたら、健介は失われ、家族を守ることもできない。阿久津は健介の命とその延長線上にある家族の平和だけを守ろうと考えただけだ。しかし、それは「避けられることのできない一瞬」へと向かっていく運命――つまり神の領域――への挑戦だったのだ。
だから阿久津は最後に、ホウセンカの実に自ら手を触れて、それを弾けさせるのだ。何か取り柄があるわけでもない男の、ささやかな、神の領域への抵抗。暗闇の中に飛び散るホウセンカの種は、人生の最期の一瞬に、それが成し遂げられたことを知った阿久津が打ち上げた、“花火”そのものだ。
そして、この口下手な男が口にすることができなかった愛の言葉の代わりに、最後にようやく歌詞入りの「Stand By Me」が流れ、映画を締めくくるのだ。
【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。
※以下の内容は映画の重要な部分に触れています。映画鑑賞後に読むことを勧めます。
例えば映画はまず、虫の音から始まる。そこに重なる少し苦しそうな息遣い。画面がフェードインすると、そこは夜の花壇らしくムカデや蛾の姿が見える。彼らは動いているので、虫の音と相まって、静けさの中に“命”の気配が漂ってくる。
カットが変わって刑務所の個室の中で老人が寝ている姿が描かれる。この老人にホウセンカが話しかけることで、物語が始まる。この静けさの中に宿る、じんわりと温もりを感じさせる命の気配は、この映画の基調をなしている。そして、この老人・阿久津の回想が始まる。
回想は、阿久津と那奈が新居に引っ越してきたその夜から始まる。斜面に建った家の庭からは、海岸で打ち上げられる花火が見える。
この印象的な花火の描写を積み重ね、その最後に本作のタイトルが浮かび上がる。
アバンタイトルを飾るこの花火は「我々の生(ヴイ)のような花火」という芥川龍之介の小説『舞踏会』の一節を思い出させる。この言葉は小説中で一瞬のうちに過ぎ去っていく美しい時間のことを指して使われている。そしてこの小説はそこに人生の本質を凝縮してみせる。
『ホウセンカ』の花火もまた、主人公・阿久津実の人生の象徴だ。ただしこちらは「美しい一瞬」というより、最後の一瞬に向けて時が満ちていく、その感覚の象徴として花火が使われていく。この「最後の一瞬」こそ、刑務所の老人となった阿久津にとっては、彼が願った大逆転の一瞬ということになる。そして阿久津の大逆転以外にも、この「最後の一瞬」に向けて時が満ちていく感覚は、この映画のさまざまなモチーフの形で登場する。そもそも阿久津の大逆転は、むしろこの「時が満ちていく感覚」に対するカウンターとして存在しているといえる。
新居に引っ越してきた阿久津と那奈、そして赤ん坊の健介。健介は那奈の子供で阿久津とは血がつながっていない。そして阿久津と那奈は結婚しているわけでもない。
映画は、そんな訳ありの3人の静かな生活を、まずはゆったりとしたペースで描いていく。
序盤で重要なシーンが2つある。
ひとつは、引っ越しの段ボールを空けるときのガムテープの音と、電子レンジのチンという音を楽器のように響かせることで、『スタンド・バイ・ミー』を阿久津と那奈のふたりが鼻歌で歌うシーン。『スタンド・バイ・ミー』はこのあと2回登場して、「花火」とは別の支柱として本作を支えることになる。
もうひとつは、庭に咲いているホウセンカの種に阿久津が触ろうとするシーン。それに気づいた那奈は、阿久津を制止する。「触っちゃだめ。自然に生まれてきたものは、自然に任せなきゃ。そこは神の領域なんだ」。時が満ちるまではホウセンカに触れてはいけない、という原則。この「神の領域」は、映画の後半で起こる出来事とも、そして「大逆転」とつながっている。
こんな、なんてことはない阿久津たちの暮らしを描く序盤は、阿久津の兄貴分である堤の登場で締めくくられる。
阿久津の家にやってきた堤との阿久津の会話は穏やかなものだが、そここでこれから日本がバブル経済の真っ只中に突き進んでいくことが示される。まずここを起点として、来たるべきバブル崩壊へ向けて「時が満ちていく」ひとつのベクトルが映画に持ち込まれる。バブル経済は本作の背景に過ぎないが、それによって観客は、この作品が崩壊の一点へ向かっていくベクトルをバックグラウンドにしていることを意識せざるを得ない。
ここから物語は、幸福そうに見えながら微妙なバランスの上に乗っている3人の関係が描かれていく。物語が転調するのは、健介が心臓に重大な病気を抱えていることがわかる瞬間だ。このままでは健介は大人になれるかどうかもわからない。助かるためには心臓移植が必要だという。ここでもうひとつ「健介の死」という「時が満ちていく」ものが登場する。「健介の死」は、見通すことのできないバブルの行く末と違い、もっと具体的な「時が満ちていく」感覚として、阿久津の心を揺さぶる。この話を聞いた直後、パチンコ屋から阿久津が持ってきた風船が弾けるのは、まさにこの具体性ゆえだ。
こうして映画後半は、健介をいかに救うか。阿久津が、不安定であるがゆえに目を背けてきた、“家族”のために、動き出す様子を描く。
それは静かな語り口による犯罪映画の形をとる。そこで描かれるのは、時が満ちていく感覚」に導かれて示される、破滅的な一瞬へ向かっていく運命に対して抗って、大逆転を目指す阿久津の闘争である。この終盤の、阿久津の行動や、大逆転に至る仕掛けなどは、『オッドタクシー』の監督・脚本コンビらしく前半の伏線を生かした巧みな語り口で展開され観客をうならせる。
ここで那奈の前半の台詞が生きてくる。「自然に生まれてきたものは、自然に任せなきゃ。そこは神の領域なんだ」。しかしそのままでいたら、健介は失われ、家族を守ることもできない。阿久津は健介の命とその延長線上にある家族の平和だけを守ろうと考えただけだ。しかし、それは「避けられることのできない一瞬」へと向かっていく運命――つまり神の領域――への挑戦だったのだ。
だから阿久津は最後に、ホウセンカの実に自ら手を触れて、それを弾けさせるのだ。何か取り柄があるわけでもない男の、ささやかな、神の領域への抵抗。暗闇の中に飛び散るホウセンカの種は、人生の最期の一瞬に、それが成し遂げられたことを知った阿久津が打ち上げた、“花火”そのものだ。
阿久津の人生(ヴイ)のような“花火”がホウセンカなのである。
そして、この口下手な男が口にすることができなかった愛の言葉の代わりに、最後にようやく歌詞入りの「Stand By Me」が流れ、映画を締めくくるのだ。
【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。
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