『死亡遊戯で飯を食う。』は同名の小説のアニメ化。主人公は、謎の主催者によるデスゲームに続けて身を投じ連勝を目指す少女・幽鬼(ユウキ)。第1話「All You Need Is----」は第1巻の最初のエピソード「ゴーストハウス」を60分枠で映像化している。
本作は、さまざまな理由で奇妙なデスゲームに参加することになった少女たちの物語であり、作品世界そのものがかなり“人工的”あるいは“作り物的”である。アニメはその“作り物的”な部分をさらに強調する作りになっている。
ひとつは美術の質感。緻密ではあるが、どこか書き割りのような雰囲気がある。壁に正対するカメラ位置がよく使われたこともこの雰囲気を強調している。
こうした映像表現を補強するように、本作には登場人物たちが“防腐処理”を施されているという設定が存在している。ゲームの運営から“防腐処理”を受けた彼女たちは、傷ついても血は吹き出さず、四肢を切断したとしても、ゲーム生還後に問題なく修復される。血の代わりに、彼女たちからは、白い綿のようなものなのが吹き出すのだ。つまり彼女たちは“人形”になったのだ。そしてゲームの運営が用意したこの館は“ドールハウス”なのだ。
TV画面から見る視聴者は、ちょうどこのゲームを隠しカメラで見ている(そういう設定なのだ)、ゲームで賭けをしている人々と限りなく重なり合うことになる。考えてみると序盤で、目覚めた幽鬼が、部屋の奥から画面手前にやってきて、画面のほうを覗き込むカットがあった。カットが切り替わると、彼女がクラシックなレコードプレイヤーのラッパ状のスピーカーを覗き込んでいる姿が描かれているが、おそらくスピーカーの中にカメラがあったのだろう。あそこで視聴者の視線は、デスゲームで賭けを楽しむ人々と視線を重ね合わせられていたのだ。
登場人物たちは“人形”だから、感情移入を狙って演出されていない。
このように人工的で感情移入を促さない作りだからこそ、第1話で「目覚め」が印象的な位置に配置されていることにおもしろさが生まれる。
第1話は洋館の一室で、幽鬼が目覚めるところから始まり、最後は彼女が自室で目覚めたことで締めくくられる。展開は原作と同じだが、具体的に目覚めのシーンを入れることで、先ほどまでのデスゲームが“夢”であったかのようにも感じられるように演出されている。しかし、同時にこの自室の風景もリアリティがあるわけではなく、どちらが“現実”でどちらが“夢”かを問うても意味がない、終わりのない夢がそのまま続いているような、そんな締めくくりだった。
そんな印象は、ゲームクリアの瞬間に流れたドリス・デイの『ケ・セラ・セラ』の「なるようになるさ」の言葉が、明るく空虚に響くさまと調和している。
『違国日記』も『死亡遊戯~』とは違う形で語り口が非常に印象的だった。こちらは、この作品で何を伝えるべきかを考え行間を映像で補完し、展開を再構成している。
アニメ第1話で伝えるべきは、第一に両親を亡くした田汲朝(たくみ あさ)が、叔母で小説家の高代槙生(こうだい まきお)と同居生活を始めるまでの顛末であるのはいうまでもない。ただこれは表層的なことに過ぎない。
アニメ第1話は、原作第1話から第3話までで構成されている。原作第4話は、槙生の知り合いである醍醐奈々(だいご なな)の登場するエピソードで、また別の内容なので原作第1~3話の中に組み合わせることはできない。
ではどのようにアニメ第1話は構成されたのか。これはまず「ちがう国の女王の玉座のかたすみで眠る」というフレーズを謎掛けのように視聴者に投げかけ、それを「ここは見知らぬ砂漠の土地。私はそこでたったひとりの玉座に座るちがう国の孤独な女王に出会ったのだ」という最後のセリフで受けるという形で、物語の進む方向を示したのだ。最後の台詞はアニメオリジナルだが、最初の台詞との差分、「砂漠の土地」「孤独な」に本作の重要な部分が含まれているであろうことが想像できる。
ふたりの共同生活の一コマを描いた原作第1話は、アバンタイトルで描き終わる。その最後が朝の「ちがう国の女王の玉座のかたすみで眠る」というモノローグで占められる。ここで難しいのは続く原作第2話は、朝の両親が亡くなり、槙生が朝を引き取るまでを描いている。
原作第3話のほうは、朝が日記を書こうとしたことをきっかけに孤独を実感する内容で、孤独を砂漠のイメージを通じて描いている。朝の「砂漠のまん中に/テントを建てて暮らす/人もきっと いる」というモノローグで、砂漠=孤独の象徴を通じた、ふたりの接近を感じさせるような内容で締めくくられる。
原作通りに語っていくと、アニメ第1話としてはクライマックス感が薄いということはあっただろうが、それだけでは原作第2話と原作第3話を複雑にリミックスした理由には足りないように思える。
最後の「ここは見知らぬ砂漠の土地。私はそこでたったひとりの玉座に座るちがう国の孤独な女王に出会ったのだ」という台詞から伝わってくるのは、「槙生は自分が知っているタイプの人とはぜんぜん違う(違う国の人)」でも「朝と槙生はともに砂漠にいる(孤独)」で、「その中で槙生は女王のように毅然と生きている(と朝は思っている)」ということである。アニメ第1話を見る限り、物語はここを軸に進むだろうと思われるので、なるべくこの3つのカードを同じタイミングで揃えて視聴者に提示したかったのではないか。
そこで原作第3話で日記を書こうとして砂漠のイメージが登場するくだりと、原作第2話で槙生が、親戚の中でも居場所がなさそうな朝を連れて来ることになる名シーンを、時間を越えてカットバックすることで、ひとまとまりの出来事として描き出そうとしたのだ。この時間を越えたカットバックが、「朝!」という槙生の声で繋がっているところが非常に映像的でアニメ第1話を印象的なものにしていた。
また砂漠のイメージも印象的で、特にノートを前にして罫線が風紋になっていくというアニメオリジナルの場面転換は、「日記を書こうと思ったけれど書けない」という朝の心象がすごく伝わってくるものだった。
そもそも原作はヤング・レディース誌掲載で、歴史的に少女漫画に由来する心象的な表現――コマの中に効果とセリフだけ、とか現実の風景が少しイメージ化した表現とか――が登場する。しかし、アニメ第1話ではそういった表現は極力踏襲せず、砂漠だけを採用している。
例えば、列車の中の槙生が姉を思い出すカット、原作ではイメージとして黒バックの独立したコマで描かれている。アニメでは、トンネルの中の車窓に姉の姿が浮かぶという形で実景の中にイメージを落とし込んでいる(槙生の正面の車窓だけでなく、槙生の背後の車窓にも姉の映り込むように描かれていて、槙生が姉にいかにプレッシャーを与えられていたかが端的に伝わってきた)。
あるいはカフェで朝食を食べながら朝に日記を書くよう語るシーン。原作は槙生の目元のアップと枠線で区切られない白地にセリフがある形で表現されている。これに対しアニメではそのセリフを槙生が、朝から視線をはずした状態で語るという芝居が加えられていて、(その後明確に描かれる)槙生の性格が伝わるように演出されている。
このように砂漠のイメージが、ひときわ際立つように扱われていて、ここを入口にアニメは「違国」のイメージを積極的に招き入れている。アニメ第2話で、醍醐と槙生の会話している様子をエスニックな衣装を着たイメージとして描いていた。これなどは砂漠を旅する朝が、あるオアシスかバザールにでも立ち寄ったかのような発想なのではないだろうか。そう考えるとアニメ第1話の終盤で砂漠を歩く朝が口にする「私はどこかにたどり着けるのだろうか」という台詞も、この物語の目指す先を示しているように思う。
原作の先を読めばわかることも多いのだろうが、楽しみたいのはストーリーではなく、独立した映像作品として第1話を見たときにその語り口から喚起されるイメージなのである。
【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。
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