【和歌山市発】一社を預かる宮司には、神社を護り神様にお仕えすると同時に、氏子や崇敬者をはじめ多様な方々と良好な関係を築く役割がある。30代の頃のほとんどを東京にある神社本庁で過ごされた奥宮司は、全国8万社の神社を束ねる巨大な組織でもある同庁で交渉と調整に関するさまざまな術を学び培われた。
(創刊編集長・奥田喜久男)
●交渉や調整の術を培った
秘書課に仕えた時代
貴志川線存続の話をうかがって感じたのですが、企業や行政への働きかけには、策を講じたり交渉したりする技術のようなものが必要になりますよね。宮司はそうした術をどこで身につけられたのですか。
神社本庁の秘書課にいる頃です。神社本庁は全国の神社を包括する組織ですから、秘書課は各方面に気を配り、あらゆることに対応していく必要がありました。
おいくつの時ですか。
30歳くらいから8年ほどいましたね。毎日のように新幹線に乗って全国を飛び回っていました。
どなたか指南役がおいでに?
いろいろな方に教えを乞いましたが、とりわけ当時の統理を務められていた徳川宗敬氏と、総長の篠田康雄氏(熱田神宮宮司)には多くのことを教えていただきました。
徳川氏はお名前からすると徳川家の末裔ですかね。
水戸徳川家から一橋徳川家へご養子となり、貴族院議員で副議長を歴任され、伊勢神宮の大宮司も務められた方です。
指南してもらったことを何か一つお願いします。
篠田総長から教わったことですが「交渉事は一人で行くな。必ず二人で行け」と。
ふむ。基本からというわけですね。
秘書にはボスを支える“秘書学”のようなものがあります。ボスが何を欲しているか、常に先回りして考える。そして考えたらどんどん実行に移してみるんです。
自分の考えが合っていない時もありますよね。
あります。見当違いのことも多い。
秘書課での業務は宮司の肌に合っていたように感じますね。
やりがいがありました。
その後、神社本庁という“中央”を離れて、伊太祈曽に帰られる時の気持ちはどうでしたか。
うーん。今は神様にお仕えすることが大事と思っています。まあ、気持ちを切り替えるのに結構時間はかかりましたが。
――社務所を出て社殿へ。階段を登って割拝殿をくぐると、一段と木の香りが濃くなるのがわかる――
(社殿を見ながら)ご本殿と中央の中門は檜皮葺なんですね。堂々たる佇まいです。ご祭神は「五十猛命」とありますが、どんな神様なんでしょう。
植樹造林の神様です。父神である素戔嗚命が高天原から持ってこられた木の種を、日本中に植えるように五十猛命に命じられたと伝えられています。
木に因んだお祭りとかあるんですか。
毎年4月の第1日曜に行われる「木祭り」がそうです。常日頃からの木々の恩恵に感謝するお祭りで、林業や製材業の関係者をはじめ、たくさんの方々にお参りいただいています。
割拝殿にある大きな木の幹は?
「木の俣くぐり」です。五十猛命には「大屋毘古神」という別名があります。命を狙われた大国主神を大屋毘古神が木の俣にかくまって救ったという神話に因んだものです。
実際にくぐれるのですか。
くぐれますよ。くぐると災難除けになると言われています。奥田さんもぜひどうぞ(笑)。
●木の神様がつないだ
不思議なご縁
木の俣くぐりの横には十二支の木彫りが並んでいます。
チェーンソーカービングで世界チャンピオンになった城所啓二さんからご奉納いただいた作品群です。
まさにご祭神である木の神様にぴったりですが、城所さんとの出会いは?
ある時、家内とテレビを観ていたら、城所さんのチェーンソーカービングの様子を放映していたんです。龍神村(現和歌山県田辺市)在住ということで「近くにそんな方がいるんだね」と話したりしていました。車で1時間ちょっとですから。
なるほど…。
そうしたら数日後、龍神村にある丹生神社の宮司さんから電話がかかってきて、「城所さんという人がそちらにお参りに行くから」と。
え? いきなり? 偶然ですか?
まったくの偶然です。ビックリしましたよ。宮司さん曰く、チェーンソーカービングは木を扱うことから「伊太祈曽に木の神様がおいでになるから、ぜひお参りに行くように」と勧めておいたと。
すごいタイミング……。で、いらしたんですか。
いや、電話があったことを家内と話しているうちに、来られるのを待つよりこちらからおうかがいしようとなって。
城所さんとは面識はないんですよね。
ありません。でも、丹生神社の宮司さんからうちの神社については話してもらっていますから。それで電話してお訪ねしたのが初見です。
城所さんとの行き来が始まった。
何度かお参りいただくうちに、城所さんが「何かご奉納させていただきたい」と言ってくださって、思い付いたのが干支。12年の間、関わっていただけるし、年ごとに揃っていく楽しみにもなるし。
おお。考えましたね。
しかも木祭りの時に、参詣客の前で彫ってもらうことにしたんです。
え? 完成までにはずいぶん時間がかかるのでは……。
いや、1時間ほどなんです。チェーンソーカービングは、決められた時間内で丸太の状態から作品を完成させるのがルールなので。
ライブで彫り上げる。迫力ありますねえ。
4月のお祭りですから、彫り上げていただくのは次の年の干支。完成したらお祓いをして神前に供え、木の俣くぐりのある割拝殿で来年の出番を待つわけです。
始められたのはいつですか。
僕の干支(戌)からなので、2006(平成18)年ですね。
ではもう一巡された。
そう。2018(平成30)年に一巡したところで城所さんに相談したら、「リメイクしましょうか」と。
リメイクとは。
チェーンソーカービングも時代と共に変わっていて、今はただ彫るだけではなく少し彩色を施して、目などもよりリアルにするのが主流なんだそうです。なので、そうしていただくことにしました。
二巡目が始まったわけですね。今はどのあたりですか。
今年の4月に来年の兎をご奉納いただきましたから、再来年の辰から酉まで六つの干支がこれからリメイクされます。
それにしても、城所さんとのご縁は絶妙というか、不思議な始まりです。
まあ、それも神様のお力です。
加えて、宮司が秘書課時代に培われた「先回りして考え、行動に移す」ことも奏功していると思いますね。今日は興味深い数々のお話をありがとうございました。
●こぼれ話
このところ和歌山市に通っている。はじめのうちは、なんて遠いんだと思いながら出向くのだが、回を重ねるごとに、こんなに近いんだ、と思い始めた。新幹線の新大阪駅から特急くろしおで約1時間。駅弁を広げるには慌ただしい。旅の楽しみは車窓からの景色、降り立った駅前の風景、空の広さと街づくり、外せないのが食に酒。そして何よりも“人”に会うことだ。奥重視さんには、1967年の秋頃にお会いした。私が18歳の時だ。伊勢で初めてお目にかかった。人って、輝いて見える時がありますよね。何も特別な時でなく、普通の日の普通の時にである。その時がそうだった。その光景は今でも動画で思い出すことができる。そして、何かが心で弾けた。「この人はどんな“人”なのだろうか」である。言い換えると、「人とは何ぞや」である。『千人回峰』の意(おもい)はその時に芽生えたようだ。当時の私は大学1年生。2歳年上の先輩は仰ぎ見る存在で、満足な会話ができなかった。しかも初対面では、到底叶わない。
時は流れて、55年後…。先輩と後輩が、年月を経てそれぞれの立場で会った。伊太祁曽神社の宮司と、インタビュアーの私である。場所は神社の社務所。最寄り駅の伊太祈曽駅は和歌山市の東の方角にある。猫駅長で全国に名が通った貴志川線沿いだ。場所は特定できなくても、うなずくことはできよう。御祭神は五十猛命(いたけるのみこと)。由緒には「我が国に樹木を植えて廻り、緑豊かな国土を形成した神様」とある。コロナ禍以前から地球規模で社会問題となっている温室効果ガス排出量、温暖化対策などの原点で活動しておられる神様が和歌山においでになる。713年の鎮座以前から樹林を増やす意義を理解して、活動しておられる。すごいぞ日本、と唸ってしまう。それが連綿と受け継がれている。やはりお聞きしよう。「奥家としては50代目の宮司です」。すごいなと思って感嘆したところ、和歌山にはまだまだ古い宮司家がありますよ、とのこと。奥宮司の話ぶりから、「何代目かということ自体はなんでもないことです」と聞こえた。「過去を遡っても3、4代前の人のことしかわからないですよ」。でも何かが違う。
“何代目”という言葉には独特の響きがある。何代も生き延びた価値への評価、どの時代にもある環境の変化に対応した力の評価、継続した組織の力の評価である。要不要の論理に当てはめればわかりやすい。実業界で言えば、常に新しいベンチャー企業が生まれる。企業は年月を重ねながら3周年、5周年、10周年といった節目を刻んでいく。歴史を重ねることは存在価値の証明として、自負することができる。その一方、M&Aで事業構造を新たに構築しながら力を蓄えて継続する企業もある。市町村の合併もその一例だ。そうか、神社で言えば、あちらこちらにある神社の御祭神を特定の神社に「合祀」することなのだ。伊太祁曽神社にも立派な合祀殿がある。生命の維持、組織の持続、神社の継続にはそれぞれに人の歴史が底流に流れている。過去の人の思い出は数代前までだ。さらに遡るには書物に頼ることになる。伊太祁曽神社の場合は「古事記」「日本書紀」「続日本紀」である。いずれも700年代に書き残されたわが国の歴史書だ。話題を戻そう。奥宮司と話していると、三人の人間像が浮かぶ。生まれてから大学卒業までと、その後の奥先輩、伊太祁曽神社に戻った奥先輩。50代目を継ぐことに決めた心のうちには、得るものと捨てるものが禍福と同じようにあざなっているように見えた。社殿を背にした立ち姿の目は遠くを見ておられた。奥宮司家100代目をいつかお祝いしてほしい。その時はどんな時代なのだろうか。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
貴志川線存続の難題は、宮司が地元に戻られたちょうどその頃に起きたという。木の神様に呼び戻されたのかもしれない。
(創刊編集長・奥田喜久男)
●交渉や調整の術を培った
秘書課に仕えた時代
貴志川線存続の話をうかがって感じたのですが、企業や行政への働きかけには、策を講じたり交渉したりする技術のようなものが必要になりますよね。宮司はそうした術をどこで身につけられたのですか。
神社本庁の秘書課にいる頃です。神社本庁は全国の神社を包括する組織ですから、秘書課は各方面に気を配り、あらゆることに対応していく必要がありました。
おいくつの時ですか。
30歳くらいから8年ほどいましたね。毎日のように新幹線に乗って全国を飛び回っていました。
どなたか指南役がおいでに?
いろいろな方に教えを乞いましたが、とりわけ当時の統理を務められていた徳川宗敬氏と、総長の篠田康雄氏(熱田神宮宮司)には多くのことを教えていただきました。
徳川氏はお名前からすると徳川家の末裔ですかね。
水戸徳川家から一橋徳川家へご養子となり、貴族院議員で副議長を歴任され、伊勢神宮の大宮司も務められた方です。
日本の緑化運動にも尽力されました。
指南してもらったことを何か一つお願いします。
篠田総長から教わったことですが「交渉事は一人で行くな。必ず二人で行け」と。
ふむ。基本からというわけですね。
秘書にはボスを支える“秘書学”のようなものがあります。ボスが何を欲しているか、常に先回りして考える。そして考えたらどんどん実行に移してみるんです。
自分の考えが合っていない時もありますよね。
あります。見当違いのことも多い。
でもいいんです、違った時は向こうから言ってきますから。それを繰り返して、合っていたことを積み重ねることで、別の局面にも応用することができる。
秘書課での業務は宮司の肌に合っていたように感じますね。
やりがいがありました。
その後、神社本庁という“中央”を離れて、伊太祈曽に帰られる時の気持ちはどうでしたか。
うーん。今は神様にお仕えすることが大事と思っています。まあ、気持ちを切り替えるのに結構時間はかかりましたが。
――社務所を出て社殿へ。階段を登って割拝殿をくぐると、一段と木の香りが濃くなるのがわかる――
(社殿を見ながら)ご本殿と中央の中門は檜皮葺なんですね。堂々たる佇まいです。ご祭神は「五十猛命」とありますが、どんな神様なんでしょう。
植樹造林の神様です。父神である素戔嗚命が高天原から持ってこられた木の種を、日本中に植えるように五十猛命に命じられたと伝えられています。
木に因んだお祭りとかあるんですか。
毎年4月の第1日曜に行われる「木祭り」がそうです。常日頃からの木々の恩恵に感謝するお祭りで、林業や製材業の関係者をはじめ、たくさんの方々にお参りいただいています。
割拝殿にある大きな木の幹は?
「木の俣くぐり」です。五十猛命には「大屋毘古神」という別名があります。命を狙われた大国主神を大屋毘古神が木の俣にかくまって救ったという神話に因んだものです。
実際にくぐれるのですか。
くぐれますよ。くぐると災難除けになると言われています。奥田さんもぜひどうぞ(笑)。
●木の神様がつないだ
不思議なご縁
木の俣くぐりの横には十二支の木彫りが並んでいます。
チェーンソーカービングで世界チャンピオンになった城所啓二さんからご奉納いただいた作品群です。
まさにご祭神である木の神様にぴったりですが、城所さんとの出会いは?
ある時、家内とテレビを観ていたら、城所さんのチェーンソーカービングの様子を放映していたんです。龍神村(現和歌山県田辺市)在住ということで「近くにそんな方がいるんだね」と話したりしていました。車で1時間ちょっとですから。
なるほど…。
そうしたら数日後、龍神村にある丹生神社の宮司さんから電話がかかってきて、「城所さんという人がそちらにお参りに行くから」と。
え? いきなり? 偶然ですか?
まったくの偶然です。ビックリしましたよ。宮司さん曰く、チェーンソーカービングは木を扱うことから「伊太祈曽に木の神様がおいでになるから、ぜひお参りに行くように」と勧めておいたと。
すごいタイミング……。で、いらしたんですか。
いや、電話があったことを家内と話しているうちに、来られるのを待つよりこちらからおうかがいしようとなって。
城所さんとは面識はないんですよね。
ありません。でも、丹生神社の宮司さんからうちの神社については話してもらっていますから。それで電話してお訪ねしたのが初見です。
城所さんとの行き来が始まった。
何度かお参りいただくうちに、城所さんが「何かご奉納させていただきたい」と言ってくださって、思い付いたのが干支。12年の間、関わっていただけるし、年ごとに揃っていく楽しみにもなるし。
おお。考えましたね。
しかも木祭りの時に、参詣客の前で彫ってもらうことにしたんです。
え? 完成までにはずいぶん時間がかかるのでは……。
いや、1時間ほどなんです。チェーンソーカービングは、決められた時間内で丸太の状態から作品を完成させるのがルールなので。
ライブで彫り上げる。迫力ありますねえ。
4月のお祭りですから、彫り上げていただくのは次の年の干支。完成したらお祓いをして神前に供え、木の俣くぐりのある割拝殿で来年の出番を待つわけです。
始められたのはいつですか。
僕の干支(戌)からなので、2006(平成18)年ですね。
ではもう一巡された。
そう。2018(平成30)年に一巡したところで城所さんに相談したら、「リメイクしましょうか」と。
リメイクとは。
チェーンソーカービングも時代と共に変わっていて、今はただ彫るだけではなく少し彩色を施して、目などもよりリアルにするのが主流なんだそうです。なので、そうしていただくことにしました。
二巡目が始まったわけですね。今はどのあたりですか。
今年の4月に来年の兎をご奉納いただきましたから、再来年の辰から酉まで六つの干支がこれからリメイクされます。
それにしても、城所さんとのご縁は絶妙というか、不思議な始まりです。
まあ、それも神様のお力です。
加えて、宮司が秘書課時代に培われた「先回りして考え、行動に移す」ことも奏功していると思いますね。今日は興味深い数々のお話をありがとうございました。
●こぼれ話
このところ和歌山市に通っている。はじめのうちは、なんて遠いんだと思いながら出向くのだが、回を重ねるごとに、こんなに近いんだ、と思い始めた。新幹線の新大阪駅から特急くろしおで約1時間。駅弁を広げるには慌ただしい。旅の楽しみは車窓からの景色、降り立った駅前の風景、空の広さと街づくり、外せないのが食に酒。そして何よりも“人”に会うことだ。奥重視さんには、1967年の秋頃にお会いした。私が18歳の時だ。伊勢で初めてお目にかかった。人って、輝いて見える時がありますよね。何も特別な時でなく、普通の日の普通の時にである。その時がそうだった。その光景は今でも動画で思い出すことができる。そして、何かが心で弾けた。「この人はどんな“人”なのだろうか」である。言い換えると、「人とは何ぞや」である。『千人回峰』の意(おもい)はその時に芽生えたようだ。当時の私は大学1年生。2歳年上の先輩は仰ぎ見る存在で、満足な会話ができなかった。しかも初対面では、到底叶わない。
時は流れて、55年後…。先輩と後輩が、年月を経てそれぞれの立場で会った。伊太祁曽神社の宮司と、インタビュアーの私である。場所は神社の社務所。最寄り駅の伊太祈曽駅は和歌山市の東の方角にある。猫駅長で全国に名が通った貴志川線沿いだ。場所は特定できなくても、うなずくことはできよう。御祭神は五十猛命(いたけるのみこと)。由緒には「我が国に樹木を植えて廻り、緑豊かな国土を形成した神様」とある。コロナ禍以前から地球規模で社会問題となっている温室効果ガス排出量、温暖化対策などの原点で活動しておられる神様が和歌山においでになる。713年の鎮座以前から樹林を増やす意義を理解して、活動しておられる。すごいぞ日本、と唸ってしまう。それが連綿と受け継がれている。やはりお聞きしよう。「奥家としては50代目の宮司です」。すごいなと思って感嘆したところ、和歌山にはまだまだ古い宮司家がありますよ、とのこと。奥宮司の話ぶりから、「何代目かということ自体はなんでもないことです」と聞こえた。「過去を遡っても3、4代前の人のことしかわからないですよ」。でも何かが違う。
“何代目”という言葉には独特の響きがある。何代も生き延びた価値への評価、どの時代にもある環境の変化に対応した力の評価、継続した組織の力の評価である。要不要の論理に当てはめればわかりやすい。実業界で言えば、常に新しいベンチャー企業が生まれる。企業は年月を重ねながら3周年、5周年、10周年といった節目を刻んでいく。歴史を重ねることは存在価値の証明として、自負することができる。その一方、M&Aで事業構造を新たに構築しながら力を蓄えて継続する企業もある。市町村の合併もその一例だ。そうか、神社で言えば、あちらこちらにある神社の御祭神を特定の神社に「合祀」することなのだ。伊太祁曽神社にも立派な合祀殿がある。生命の維持、組織の持続、神社の継続にはそれぞれに人の歴史が底流に流れている。過去の人の思い出は数代前までだ。さらに遡るには書物に頼ることになる。伊太祁曽神社の場合は「古事記」「日本書紀」「続日本紀」である。いずれも700年代に書き残されたわが国の歴史書だ。話題を戻そう。奥宮司と話していると、三人の人間像が浮かぶ。生まれてから大学卒業までと、その後の奥先輩、伊太祁曽神社に戻った奥先輩。50代目を継ぐことに決めた心のうちには、得るものと捨てるものが禍福と同じようにあざなっているように見えた。社殿を背にした立ち姿の目は遠くを見ておられた。奥宮司家100代目をいつかお祝いしてほしい。その時はどんな時代なのだろうか。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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