【東京・港区発】 ジョン・D・クランボルツ教授が提唱する「計画的偶発性理論」こそ、和泉さんにぴったりだ。偶然に見える出会いや出来事が、キャリア形成にしっかりつながっていく。
(本紙主幹・奥田芳恵)
●学位もないのに12月から大学で教鞭
奥田 大阪府立大学から、ちょっと変わった経緯で静岡大学に就職されたと伺いましたが。
和泉 大阪府立大学のドクター課程の3年時に、11月末でいったん退学して、12月1日に学位なしの助手として静岡大学に就職したんです。国立大学では初めての情報学部をつくったものの、担当できる教員が足りなかったんです。面接したらすぐ来いとなって。年度途中の中途半端なタイミングで入ることになりました。
奥田 それはまた急な話で。よっぽど困っていたんですね。具体的なカリキュラムはどんな感じだったんでしょう。
和泉 まず、Cでプログラムが書けるように教え、アルゴリズムやデータ構造とかも教え、より大きなプログラムを書けるように導くんです。さらに、学生が自分でプログラミング言語を設計し、そのコンパイラーを自分でつくらせて……という感じです。ハードウェアの実験もあります。CADでCPUを設計して、FPGAというボードに流して……という感じです。最後にアセンブラーを流し込んで実行して、動いたらオッケーなんですが。
奥田 学生って、学部生ですよね。
和泉 だから、簡単にはできないんですよ。週2回、昼から翌日朝まで徹夜しても動かない、みたいな感じでした。カリキュラムとしては美しいんですが、実際に教材を探してきて、学生が使えるようにマニュアルをつくってとか、とっても大変でした。学生相手に、手取り足取りできる奴がいないってことで、僕が採用されたんです。
奥田 学生さんたちにとっては、どんな先生だったんですか。
和泉 僕が一番の若手だったからか、ある学生がこう言うんです。
奥田 使ってやる?
和泉 女の子に食事をおごるだけの「メッシー君」だの、送り迎えするだけの「アッシー君」だのがはやっていました。とはいえ、どっちもおごって終わり、送って終わり。
奥田 ちょうどバブルの頃ですかね。
和泉 そこで学生に言ったんです。「これからはシステム君だ」と。彼女のパソコンを直しに行けば、部屋に上がれるんだぞと。そしたら、「おー」ってなって、アホな学生がいっぱい集まってきたんですよ(笑)。
奥田 集まったシステム君たちに何をさせたんですか。
和泉 教授会で「情報学部なのにコンピューター部がないじゃないか、学生主導で学ばせるんだ」と一席ぶったんです。新しく建てる校舎の教室一部屋を確保し、コンピューター部を新設しました。システム君たちには、生協のパソコンの修理とかを手伝わせて、その分、UNIXの本とかいっぱい買ってあげたりして研究して、結構盛り上がりました。夜は夜で、王将に連れて行ったり……。
奥田 いい先生じゃないですか。光景が目に浮かびます。
和泉 そのシステム君たちが、後に大活躍するんですよ。僕が産業技術総合研究所(産総研)に入って何年か経ったときに、愛知万博で政府館のプロジェクトを担当したんです。来場者がどこに向かっているかをリアルタイムに計算し、その人に向かって説明音声を多言語で流すシステムをつくる、というものでした。予算は10億円くらいあったんですが、とにかく時間がない。そこでシステム君たちに電話を掛けたら、名だたる企業に勤めている彼らが会社を辞めて、産総研のアルバイト部隊として手伝ってくれました。
●「僕にはもう時間がないんだ」恩師が残した一冊の本
奥田 ご自身の研究はどうでしたか。
和泉 静岡大で頑張っている若手がいるからと、浜松出身の慶応の超有名な先生に繋いでもらったんです。そいつは本当に頑張っていて優秀なのかと。だったら俺が学位をくれてやると。それが永田先生(永田守男・慶應義塾大学工学部教授、2003年没)だったんです。
奥田 どんな方だったんでしょう。
和泉 すごく教育熱心で厳しかったです。研究室にかかってきた電話に居留守を使って出なかったりすると、家に帰ったらファクスから紙の山が届いているんです。「この通りにドキュメントをつくって、今すぐ慶應に来い」と。そこでまた、ここが違う、あそこが違うとご指摘されて。
奥田 学位を授与されるときには、どんなことをおっしゃったんですか。
和泉 「君の論文はよくできているけど、本当に世の中に影響を与えようと思ったら、『Word』とか『Excel』とか、ああいう単純なツールなんだ。そういう原理が分かるんだったら学位をやる」と。当時は全然分かっていなかったんですが、「分かりました!」と言って(笑)。そういえば「ドクターは異分野の研究者に自分の研究を理解させる能力も必要だ」と、学位論文の審査員には文系の先生方も入っていて、説明には苦労しました。
奥田 どちらもシステム開発の世界で、今でも通じるようなお話ですね。
和泉 もっといろいろ教えてもらいたかったです、と話すと「僕には君の相手をしている時間がないんだ」っておっしゃるんです。今度『福澤諭吉の「サイアンス」』という本を出すから、それを読んでおけと。永田先生が慶應の教授会で僕の学位論文を通していただいた翌日、入院されて、そのままお亡くなりになりました。
奥田 和泉さんは最後の教え子だったんですね。ところで、ご両親はどんな方だったんですか。
和泉 父は日用品販売の小さな商いをやっていました。
奥田 死んでも覚えていてもらえるような仕事をしているのか、ということですね。今後はどんなお仕事を?
和泉 置かれた場所で咲くではないですが、実はこれまで自分の意思で職を得たことがないんです。とはいえ、ただ流されるんじゃなくて、しっかりした柱を持ちながら、日本のデジタル変革、いわば明治維新を進めていきたいですね。東海道や中山道の課題を俯瞰した上で鉄道を引いたり高速道路をつくったり、ということに匹敵する仕事。今のこのデジタル社会のインフラづくりに貢献できたらと思います。
奥田 これからもご活躍を楽しみにしています。
●こぼれ話
和泉憲明さんはいかにして誕生したか…。あちこちの講演に引っ張りだこで、「DXなら和泉さん」と連想されるほどの有名人。わたしも何度か和泉さんの講演を聞かせていただいたことがある。分かりやすさはもちろんのこと、話の合間のエピソードも面白く、その軽快な和泉節に聞き惚れた聴講者も多いことだろう。
今回は、少し専門分野から離れて、和泉さん自身を深掘りさせていただく貴重な機会だ。うっかりすると和泉さんの話に聞き入って、合いの手を入れるのを忘れてしまいそうだな…と思いつつ席に着く。
和泉さんは対談中、「ラッキーでした」という言葉を何度もおっしゃった。静岡大学への就職も博士号を取得される際も、さまざまな仕事での成功も、たくさんのラッキーがあったと。ご自身の人生を「結果オーライとしか言いようがない」とか、「何一つ僕の実力ではないような気がする」ともおっしゃっていたが、ラッキーをつかめる人であるための努力たるや、いかばかりか…と敬服する。
人材難に悩む中小企業が元気になるためには?と問うと、いい小さな「粒」があったらそれを大きくするのがデジタルの得意なところ。デジタルを使って価値を増幅するチャンスだと熱く語ってくれた。「予算がないとか人がいないとか不満を言い出したらきりがないけど、全部満たされるような組織ってあんのかって!」と熱がこもる。「今できる最大は何かって考えたほうが早いよね」という和泉さんの言葉から、ラッキーをつかみに行く思考の一端に触れたような気がした。
「いやぁーよくぞ(BCNの経営を)引き継いでくださいました」。和泉さんからこんな言葉をいただき、その場で泣いてしまいそうになるくらい嬉しかった。いくつかあった業界のためのメディアも内容を変化させたり、休刊したり、と苦戦しているが、参考にしてきたメディアなので頑張ってもらいたいとのエールをいただいた。こうして、こぼれ話を書きながら思い出し、今またうるっとしている。
結局、和泉節にのまれ、励まされ、泣かされたけど、それでこそ千人回峰かな…。週刊BCNが繋いできてくれたご縁に感謝し、社業に邁進することで、みなさんのご声援に応えていきたいと強く思う。
(奥田芳恵)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第372回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
静岡大学で教えることになったのも、恩師、永田守男先生との出会いも、ある意味偶然。自分の教え子「システム君」たちが、後のプロジェクトで大きな助けになったこともまた偶然。しかし、ただ茫然としていては、偶然から幸運をつかみ取ることはできない。和泉さん自身の生き方や人となりがあってのことだ。
(本紙主幹・奥田芳恵)
●学位もないのに12月から大学で教鞭
奥田 大阪府立大学から、ちょっと変わった経緯で静岡大学に就職されたと伺いましたが。
和泉 大阪府立大学のドクター課程の3年時に、11月末でいったん退学して、12月1日に学位なしの助手として静岡大学に就職したんです。国立大学では初めての情報学部をつくったものの、担当できる教員が足りなかったんです。面接したらすぐ来いとなって。年度途中の中途半端なタイミングで入ることになりました。
奥田 それはまた急な話で。よっぽど困っていたんですね。具体的なカリキュラムはどんな感じだったんでしょう。
和泉 まず、Cでプログラムが書けるように教え、アルゴリズムやデータ構造とかも教え、より大きなプログラムを書けるように導くんです。さらに、学生が自分でプログラミング言語を設計し、そのコンパイラーを自分でつくらせて……という感じです。ハードウェアの実験もあります。CADでCPUを設計して、FPGAというボードに流して……という感じです。最後にアセンブラーを流し込んで実行して、動いたらオッケーなんですが。
奥田 学生って、学部生ですよね。
和泉 だから、簡単にはできないんですよ。週2回、昼から翌日朝まで徹夜しても動かない、みたいな感じでした。カリキュラムとしては美しいんですが、実際に教材を探してきて、学生が使えるようにマニュアルをつくってとか、とっても大変でした。学生相手に、手取り足取りできる奴がいないってことで、僕が採用されたんです。
奥田 学生さんたちにとっては、どんな先生だったんですか。
和泉 僕が一番の若手だったからか、ある学生がこう言うんです。
「先生、僕たちには出会いがないんです。文系の学生とも交流させてください」と。無理もない話です。100人のうち96人が男子ですから。そこで、こいつらを「使ってやろう」と思ったんですね。
奥田 使ってやる?
和泉 女の子に食事をおごるだけの「メッシー君」だの、送り迎えするだけの「アッシー君」だのがはやっていました。とはいえ、どっちもおごって終わり、送って終わり。
奥田 ちょうどバブルの頃ですかね。
和泉 そこで学生に言ったんです。「これからはシステム君だ」と。彼女のパソコンを直しに行けば、部屋に上がれるんだぞと。そしたら、「おー」ってなって、アホな学生がいっぱい集まってきたんですよ(笑)。
奥田 集まったシステム君たちに何をさせたんですか。
和泉 教授会で「情報学部なのにコンピューター部がないじゃないか、学生主導で学ばせるんだ」と一席ぶったんです。新しく建てる校舎の教室一部屋を確保し、コンピューター部を新設しました。システム君たちには、生協のパソコンの修理とかを手伝わせて、その分、UNIXの本とかいっぱい買ってあげたりして研究して、結構盛り上がりました。夜は夜で、王将に連れて行ったり……。
奥田 いい先生じゃないですか。光景が目に浮かびます。
和泉 そのシステム君たちが、後に大活躍するんですよ。僕が産業技術総合研究所(産総研)に入って何年か経ったときに、愛知万博で政府館のプロジェクトを担当したんです。来場者がどこに向かっているかをリアルタイムに計算し、その人に向かって説明音声を多言語で流すシステムをつくる、というものでした。予算は10億円くらいあったんですが、とにかく時間がない。そこでシステム君たちに電話を掛けたら、名だたる企業に勤めている彼らが会社を辞めて、産総研のアルバイト部隊として手伝ってくれました。
結局、内製でシステムを完成させて、なんとか間に合ったんです。彼らには感謝しかないですね。
●「僕にはもう時間がないんだ」恩師が残した一冊の本
奥田 ご自身の研究はどうでしたか。
和泉 静岡大で頑張っている若手がいるからと、浜松出身の慶応の超有名な先生に繋いでもらったんです。そいつは本当に頑張っていて優秀なのかと。だったら俺が学位をくれてやると。それが永田先生(永田守男・慶應義塾大学工学部教授、2003年没)だったんです。
奥田 どんな方だったんでしょう。
和泉 すごく教育熱心で厳しかったです。研究室にかかってきた電話に居留守を使って出なかったりすると、家に帰ったらファクスから紙の山が届いているんです。「この通りにドキュメントをつくって、今すぐ慶應に来い」と。そこでまた、ここが違う、あそこが違うとご指摘されて。
奥田 学位を授与されるときには、どんなことをおっしゃったんですか。
和泉 「君の論文はよくできているけど、本当に世の中に影響を与えようと思ったら、『Word』とか『Excel』とか、ああいう単純なツールなんだ。そういう原理が分かるんだったら学位をやる」と。当時は全然分かっていなかったんですが、「分かりました!」と言って(笑)。そういえば「ドクターは異分野の研究者に自分の研究を理解させる能力も必要だ」と、学位論文の審査員には文系の先生方も入っていて、説明には苦労しました。
奥田 どちらもシステム開発の世界で、今でも通じるようなお話ですね。
和泉 もっといろいろ教えてもらいたかったです、と話すと「僕には君の相手をしている時間がないんだ」っておっしゃるんです。今度『福澤諭吉の「サイアンス」』という本を出すから、それを読んでおけと。永田先生が慶應の教授会で僕の学位論文を通していただいた翌日、入院されて、そのままお亡くなりになりました。
奥田 和泉さんは最後の教え子だったんですね。ところで、ご両親はどんな方だったんですか。
和泉 父は日用品販売の小さな商いをやっていました。
3坪くらいの小さな店で、父が配達に行っている間、僕が店番をしたりしていました。高校の合格祝いに、大阪・日本橋までステレオを買いに行ったのをよく覚えています。商売人だからモノの値段がよく分かっていて、値切り上手でしたね。母は「虎は死んだら皮残す。人間死んだら名を残す」と言っていたのを鮮明に覚えています。
奥田 死んでも覚えていてもらえるような仕事をしているのか、ということですね。今後はどんなお仕事を?
和泉 置かれた場所で咲くではないですが、実はこれまで自分の意思で職を得たことがないんです。とはいえ、ただ流されるんじゃなくて、しっかりした柱を持ちながら、日本のデジタル変革、いわば明治維新を進めていきたいですね。東海道や中山道の課題を俯瞰した上で鉄道を引いたり高速道路をつくったり、ということに匹敵する仕事。今のこのデジタル社会のインフラづくりに貢献できたらと思います。
奥田 これからもご活躍を楽しみにしています。
●こぼれ話
和泉憲明さんはいかにして誕生したか…。あちこちの講演に引っ張りだこで、「DXなら和泉さん」と連想されるほどの有名人。わたしも何度か和泉さんの講演を聞かせていただいたことがある。分かりやすさはもちろんのこと、話の合間のエピソードも面白く、その軽快な和泉節に聞き惚れた聴講者も多いことだろう。
今回は、少し専門分野から離れて、和泉さん自身を深掘りさせていただく貴重な機会だ。うっかりすると和泉さんの話に聞き入って、合いの手を入れるのを忘れてしまいそうだな…と思いつつ席に着く。
和泉さんは対談中、「ラッキーでした」という言葉を何度もおっしゃった。静岡大学への就職も博士号を取得される際も、さまざまな仕事での成功も、たくさんのラッキーがあったと。ご自身の人生を「結果オーライとしか言いようがない」とか、「何一つ僕の実力ではないような気がする」ともおっしゃっていたが、ラッキーをつかめる人であるための努力たるや、いかばかりか…と敬服する。
人材難に悩む中小企業が元気になるためには?と問うと、いい小さな「粒」があったらそれを大きくするのがデジタルの得意なところ。デジタルを使って価値を増幅するチャンスだと熱く語ってくれた。「予算がないとか人がいないとか不満を言い出したらきりがないけど、全部満たされるような組織ってあんのかって!」と熱がこもる。「今できる最大は何かって考えたほうが早いよね」という和泉さんの言葉から、ラッキーをつかみに行く思考の一端に触れたような気がした。
「いやぁーよくぞ(BCNの経営を)引き継いでくださいました」。和泉さんからこんな言葉をいただき、その場で泣いてしまいそうになるくらい嬉しかった。いくつかあった業界のためのメディアも内容を変化させたり、休刊したり、と苦戦しているが、参考にしてきたメディアなので頑張ってもらいたいとのエールをいただいた。こうして、こぼれ話を書きながら思い出し、今またうるっとしている。
結局、和泉節にのまれ、励まされ、泣かされたけど、それでこそ千人回峰かな…。週刊BCNが繋いできてくれたご縁に感謝し、社業に邁進することで、みなさんのご声援に応えていきたいと強く思う。
(奥田芳恵)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第372回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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