(本紙主幹・奥田芳恵)
●湧き上がってきた ミュージカルへの思い
奥田 登堂さんがOSK日本歌劇団に入団されたのは14年ですが、そもそも舞台に興味を持たれたきっかけはなんだったのでしょうか。
登堂 高校2年生のときに、兄がTVで歌劇の作品を見て感激し、私にもぜひ見るようにと勧められたのがきっかけでした。
奥田 お兄様からのお勧めでしたか。
登堂 はい。でも私も見た途端に引き込まれて、この世界に行きたいと。ただ、その劇団の受験年齢資格が高校3年生までで、私の場合残された時間はあと1年。「のんびりしてはいられない!」と、一気に動き始めました。
奥田 ご両親には相談されたのですか。
登堂 しました。「絶対にやってみたいので、とにかく1年間頑張らせてください」と懇願して。ダメだったら大学に進学するという約束を取り付けて、受験できることになりました。
奥田 思いに1歩近づいたわけですね。でも、歌劇となると歌や踊りが必修だと思いますが、それまでご経験はあったのですか。
登堂 いえ、もうまったく!(笑)、何一つ経験はありませんでした。ただ、とてもいいタイミングで受験のためのレッスンが受けられることになって、それも神様が背中を押してくださっているのかなと。
奥田 どんなレッスンだったのでしょう。
登堂 バレエやジャズダンス、声楽の基礎…、そもそも譜面が読めなかったので、そこから教えていただいて。全てがゼロからのスタートでした。
奥田 高校生活を送りながらだと、かなりハードだったのではないですか。
登堂 はい、それはもう。
奥田 そうして1年間頑張られて受験をされた。
登堂 受けることはできたのですが、ご縁がなくて…。実家は宮城県塩竃市なんですが、そこから通える地元の大学に進学しました。
奥田 ご両親との約束を守ったわけですね。
登堂 ただ、諦めが悪いというかミュージカルサークルがある大学を選びました(笑)。
奥田 そこは少しこだわられて(笑)。大学生活はいかがでしたか。
登堂 楽しかったです。サークルの公演に向けてみんなで稽古したり、舞台衣装を手作りしたりして。でも、入学した1年後に3.11の東日本大震災が起きました。
奥田 そのときはどこにいらしたんですか。
登堂 実家です。一人でいた時、突然地鳴りと共に大きな揺れがやってきました。両親に連絡がつかないまま、防災リュックにいろいろなものを詰めて体の前後に抱え、近所の方と一緒に近くの小学校の体育館に避難しました。
奥田 塩竃も大きな被害を受けましたよね。どのくらい避難されていたんですか。
登堂 10日間くらいだったと思います。ライフラインが全てダメになってしまったので、ガスも水も電気もなくて…。避難した当日、1本のちくわを隣の方と分け合って食べたことを覚えています。
奥田 大変なご経験をされましたね。
登堂 その後、両親とは再会できたのですが、配給車にお水をもらいに行ったり、とにかく生きることに精一杯でした。そうした日々を送る中で、ふつふつと湧いてきたのが「ミュージカルがやりたい!」という気持ちでした。
●人の絆と感謝の気持ち込めた「結」の一文字
登堂 実は避難の際、無我夢中で防災リュックに詰めた中にOSKの公演のDVDがあったんです。
奥田 なんと!よほど大切なものだったのですね。
登堂 調べてみたら、受験年齢の制限が23歳未満とあって、私でも受けられることがわかって。
奥田 登堂さんは大学何年生だったんですか。
登堂 3年生でした。卒業してからでも受験はできたんですが、「待っていられない、今しかない」という気持ちが勝って。復興していく街の中で、一人でストレッチを始めたり、昔の歌の本で練習したりしていました。
奥田 ご両親にはどのようにお話されたんですか。
登堂 母には気持ちを伝えましたが、父には言えなくて…。大学に行きながらアルバイトをして、お金を貯めて願書を取り寄せました。
奥田 それで見事合格された。大学のほうは。
登堂 中退しました。あと1年を残してだったので、両親には本当に申し訳ないと思いましたが、とにかく入団したいと頼み込みました。結局「そんなに言うなら頑張れ。でもこれが最後だよ」と送り出してくれました。
奥田 登堂さんの熱量が伝わったのでしょうね。意志の強さを感じますが、それは昔からですか。
登堂 うーん。頑固ではありますね。父譲りかもしれません。
奥田 入団されてからはどんな生活だったのでしょう。
登堂 研修生時代はひたすらお稽古でした。朝から夕方までお稽古して、終わったら先生が運営されているスタジオに行って、またお稽古の毎日でした。
奥田 初舞台は覚えていますか。
登堂 覚えています。そうそうたる上級生を目の当たりにして、洗練された存在感と舞台人としての矜持を強く感じました。あとは1行の台詞に長い時間をかけて完成させていくことにも感銘を受けました。これだけ練り上げていくからこそ、お客様を感動させられるのかと。
奥田 それにしても、東日本大震災は登堂さんの人生に大きな影響を与えましたね。
登堂 おっしゃる通りです。あの時、親戚でも友だちでも同僚でもない、何の関わりも持たない方々が私たちのために何かをしてくださる…。なんてありがたいことなんだろうと心から感謝すると共に、人の絆のすばらしさを実感しました。
奥田 みんなが手を取り合っていましたよね。
登堂 同時に、私もいつか何かのかたちでお返しをしたいと強く思いました。それで劇団に入って芸名を決めるとき、人との結びつきを大切にしたいと、「結」の一字を入れました。
奥田 そういう思いが込められているんですね。ちなみに芸名はご自身で決められるんですか。
登堂 第3希望まで出せるんです。両親にも相談して画数とかも見てもらって。名字にある「登」は1歩ずつでも前に進めるように、上に登れるようにという思いを込めました。劇団からは「とうどう」とは読みづらいと言われたのですが、自分と一緒に歩いていく名前なので、どうしても使いたくて食い下がりました。
奥田 登堂さんの意志の強さがそこにも出たんですね。
(つづく)
●入団以来、苦楽を共にしているペンケース
キャラクターの猫の色味や雰囲気、ミステリアスなところがお気に入りというペンケース。中には色違いのマーカーやサインのためのペンなど、文具好きの登堂さんがセレクトしたステーショナリーがぎっしり詰まっている。マーカーの色がたくさんあるのは、稽古の際、先生から出されたダメ出しが何回目のものかが分かるように、色分けするためとのこと。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第386回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。











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