【銀座発】今回お邪魔したのは東京・銀座八丁目の「銀登美」。いわゆる高級寿司店だ。
店主の高橋哲久さんは、とてもフランクにいろいろとお話してくれた。でも、仕事着を整え、前掛けをきりりと締めると、白木の美しいカウンターの向こうが舞台になったかのように引き締まる。茨城出身のお父さまがこの地に店を構え、それを引き継ぐ高橋さんの料理人としての矜持や生き方が、そこに反映しているかのように思えた。
(本紙主幹・奥田芳恵)

●子どもの頃から「お寿司屋さんになる」と決めていた
奥田 銀座の高級寿司店というと少々ハードルが高く、どんなご主人かと思っていましたが、失礼ながら高橋さんは想像していたより若々しくいらっしゃいます。
高橋 父の店を継いだのが8年前、私が35歳のときのことでしたから、そう見えるかもしれません。当時、30代で店を持つのは早いといわれました。
奥田 小さな頃からお寿司屋さんになろうと思っていらしたのですか。
高橋 私は、父が独立して自分の店を開いた頃に生まれました。姉はいましたが、やはり家業をもつ家の長男ということで、周囲からとても大事にされて育ったのです。そのせいか、小学校5、6年生の頃には「おれはお寿司屋さんになるんだ」と言っていたことを覚えています。
奥田 小学生で、もう跡継ぎになるという意識があったのですね。
高橋 ただ、誰からも強制されたわけでもありませんし、子ども時代に、父から跡を継げと言われたこともありませんでした。

奥田 当時、高橋さんにとってどんなお父さまでしたか。
高橋 父は自然のものが好きで、食品添加物などは決して使うことはありませんでした。とても食べ物に対する意識が高く、お店で出す寿司だけではなく、家で母のつくる食事にもそれは反映されていました。
奥田 その部分はやはり厳しいですね。でも、それも料理人としての英才教育なのでしょうか。
高橋 そうですね。父の前ではカップラーメンを食べることは決してなく、こっそりと隠れて食べましたし、ファミリーレストランに連れて行ってもらったこともありませんでした。でも、ただ厳しいというのではなく、父はちゃんとしたものを食べることを大事にしていました。高価なものというのではなく、ちゃんとしたものですね。
奥田 なるほど。それでカップラーメンのお味はいかがでしたか。
高橋 あれはあれでおいしかったですね。
カップラーメンもマクドナルドも好きですよ(笑)。
●一度は父とケンカ別れするも店を継ぐ気持ちは揺るがなかった
奥田 ということは、料理人として、とても理想的なかたちでお父さまの跡を継がれたわけですね。
高橋 いやいや、そんなことはありません。もちろん、継ぐまでにはいろいろなことがありました。
奥田 そうそう簡単ではないのですね。
高橋 私は高校を卒業してから20年間、いくつかのお店で修業したのですが、そのうちの2、3年は父の下で働いているんです。
奥田 それはお父さまのお店を継ぐ寸前ですか?
高橋 いいえ、私が28、29歳のときですから、この世界に入って10年経ったあたりですね。
奥田 まだお若いときですね。
高橋 10年間、ほかの店で修業していますから、一応、仕事が一通りできるようになっています。できるがゆえに、父の仕事のやり方について「こうしたほうがいい」と口出しをするようになってしまったんです。もちろん、当時、父はバリバリの現役で自分のやり方にプライドを持っています。私の言うことなど、聞き入れてくれるはずもありません。

奥田 お父さまの思いも高橋さんの考えも分かる気がしますが、ちょっと難しい状況ですね。
高橋 いずれ自分が継がなければならないという思いがあり、継ぐための準備としていろいろと口出しをしてしまったわけですが、父としては私に対して、一度この店も経験しておくか、といった気持ちだったようです。
奥田 そこにタイミングのずれというか、気持ちのすれ違いがあったと。
高橋 そうですね。そのときはお互いの気持ちが噛み合わず、「自分のやりたいようにやるには、おれなんかいないほうがいい」と、ケンカ別れすることになってしまいました。包丁一本持って店を出て、翌日から店に行くことはありませんでした。
奥田 ドラマのワンシーンのようです。
高橋 だからといって、別にこれで親子の縁が切れるわけではありませんし、自分としても継ぐ気持ちは変わっていません。それから1週間ほどしてから、母を交えて三人で話をしました。父は「今、この店を辞めるのはいい。ただ、跡は継いでくれ」と、初めて私に伝えたのです。同時に私も、将来継ぐ気持ちがあることを話しました。

奥田 そこでお互いの気持ちを、はっきりと伝えられたのですね。
高橋 そうですね。
奥田 そうした経緯を経て、高橋さんはお店を継がれたわけですが、それは具体的にどんなタイミングだったのでしょうか。
高橋 実は父が病に倒れ、67歳のときに亡くなってしまったのです。
奥田 まだ、お若いのに……。
高橋 当時、父はもう一人の職人さんと店をやっていたのですが、体調を崩して入院し、手術をした後に帰らぬ人になってしまいました。私を含め周囲の者は、すぐに元気になって戻ってくるだろうと思っていたため、本当に突然のことだったのです。
奥田 継ぐことは既定路線だったとしても、いきなり継ぐのは簡単ではないですね。
高橋 当時、私は「銀座おのでら」の料理長を務めており、7、8人いる料理人をまとめる立場にありました。父は少なくとも70歳、もしかしたら75歳くらいまでは料理人の仕事を続けるだろうと思っていたため、突然、決断を迫られることになってしまいました。
奥田 だから、若いうちに継ぐことになったわけですね。
高橋 そういう状況だったため、父の店は一度閉め、銀座おのでらは辞めさせてもらい、半年後にリニューアルオープンしました。

奥田 お店の名前も変え、内装も一新してオープンされたのですね。
高橋 かつての父の店の「銀座 江戸銀」という名は父の修業先からいただいたものだったので、私の店は父の名にちなんだ「銀登美」としました。
 内装は、このヒノキの一枚板のL字型カウンターだけを引き継ぎ、そのほかの造作は土壁も材木も本物だけを選んで一新しました。
奥田 引き継がれたカウンターは、とても清潔で美しいですね。
高橋 自然そのもので、木が生きているからですね。ニスなんか塗ってしまうと、とたんに木が死んでしまいます。
 父の店は銀座では珍しい町寿司で、内装ももっと一般的なものでしたが、自然の素材が好きだった父なら本来はこんな店にしたかったのではないかと想像し、自分の色を出すためにも雰囲気を変えました。
奥田 後半では、高橋さんご自身のポリシーやお店の経営についてうかがっていきます。(つづく) 
●浅草鷲神社の熊手
お父さまの時代から、お店の片隅に飾られてきた熊手。最初はもっと小さなものを飾っていたが、お店の発展につれて、だんだん大きなものに変えていったという。そうしたお父さまの思いがこもった熊手だが、高橋さんが8年前にリニューアルオープンしたときに、一回り大きいものにしたそうだ。でも頭をぶつけそうなので、これ以上は大きくしないとのこと。
「小さくならないように頑張らなければ」と高橋さんは言う。
心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第388回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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