「労働時間が適正に把握できておらず、また、算入すべき手当を算入せずに割増賃金の単価を低く設定していた事例」

「社員の7割に及ぶ係長職以上の者を管理監督者として取り扱い、割増賃金を支払っていなかった事例」

 昨年末に厚生労働省が公表した「若者の『使い捨て』が疑われる企業等への重点監督の実施状況 - 重点監督を実施した約8割の事業場に法令違反を指摘 - 」によれば、調査した5111社(事業所)のうち、43.8%で違法な時間外労働があり、23.9%で賃金不払いの残業が見つかった。

 この調査は電話相談などを受けて「違反の疑いが強い」と見ていた事業所を対象としたもので、これにより労働環境の劣悪な事業所の多くは、広くサービス残業(不払い残業)が日常的に行われていることが明らかになった。

冒頭の事例は、同調査の違反・問題等の主な事例である。

 時間外労働をしたにもかかわらず、残業代が支払われないサービス残業は法律違反だが、「労働法を守っていたら会社は潰れてしまう」などと経営者は開き直り、不払いが横行する。

●社畜を生み出す土壌は学校教育にある

 しかし、サービス残業が常態化するブラック企業は違法だから論外だが、大企業でも残業は“当たり前”なのが現代日本の労働環境だ。

 では、なぜ残業がなくならないのだろうか? そんな問いに対して、「日本全体が『社畜』化するための洗脳を受けているからだ」というのは、『あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。』(日野瑛太郎/東洋経済新報社、以下、本書)だ。著者は大人気ブログ「脱社畜ブログ」の管理人で、社畜化のメカニズムを分析している。

 本書において、社畜とは「会社と自分を切り離して考えることができない会社員」と定義し、養うべき家族がいるため辞めるに辞められない、または、そもそも労働者の権利をよく知らないために奴隷のように働かされる「奴隷型社畜」、会社とともに成長しようとする会社への忠誠心が高い「ハチ公型社畜」、会社に依存する「寄生虫型社畜」、上司にこびへつらい出世しようとする「腰巾着型社畜」、社畜であることを他人にも強要する「ゾンビ型社畜」に分類している。

 そして、「奴隷型社畜」や「ハチ公型社畜」については、小学校教育から洗脳が行われていると指摘する。

「小学校では、よく『将来の夢』について作文を書かされます。ここでいう『将来の夢』というのは『将来なりたい職業』を指すという暗黙の了解があります。(略)どうも学校教育では『将来の夢』は仕事を通じて実現しなければいけないことになっているようです」(本書)

 さらに、職業教育では仕事に対して、お金を稼ぐことよりも過度な「やりがい」を重視する傾向にある。そのやりがいは「自己実現」「社会貢献」といった側面が強調されがちだ。

「あまりにも『仕事で得られるお金以外のもの』が強調されすぎているため、いつしか生徒たちは『お金よりも、やりがいのほうが大事だ』という価値観が正しいと考えるようになります」(本書)

 このため、お金や自らの生活を犠牲にしても会社に過度にやりがいを見いだそうとする「奴隷型社畜」や「ハチ公型社畜」を生み出してしまう。

「『仕事を通じてどう自己実現するか』というような仕事観についての教育は山ほどされる一方で、『有給休暇が取得できる条件』や『残業代の請求方法』といった、労働者が自分の身を守るために必要な知識は、学校ではほとんど教えてもらえません」(本書)

●大学も社畜養成機関になり果てている

 それまでの学校教育を批判的に見つめ直せるはずの大学に進学しても、すでに大学は就職のための予備校と化しており、多くの学生にとってどうすれば就職活動に有利になるかだけを考える社畜の養成機関になり果てている。

 そして50社から100社程度受験しないと内定に至らない就職活動では、数え切れないほどの拒絶を受ける。価値のない、役立たずな人間のように思えてきた時点で内定通知を受けると、その「選んでくれた」会社に対し特別な好意、強い恩義を抱き、率先して社畜になろうとするというのだ。

 さらに、入社後は軍事教練のような新人研修と社内の社畜たちの同調圧力を受けて、気がつけば「やりがいのある仕事につけたら、それで幸せ」「つらくてもいいから成長したい」「給料をもらっている以上、プロ」「言い訳は悪」「経営者目線を持って仕事をすべき」「どれだけ頑張ったかが大事」などといった仕事観を持つ、社会人という名の社畜が完成する。本書では、そんなドラスティックな主張が展開されていくのだ。

 脱社畜のために著者は、「仕事は会社と従業員の契約関係にすぎず、過度なやりがいを仕事に求めないこと」「経営者目線を持つことが大事だとされるが、『従業員目線』を持つことこそが大事」「会社を取引先ととらえて、適切に距離を保ちながら働く必要がある」などとアドバイスする。

 著者は戦後から社畜化教育の歴史を振り返るが、歴史を見れば、明治期の「軍人勅諭」や「教育勅語」に見られる「滅私奉公」の思想が、戦後は「国」から「会社」へとその対象を変えたにすぎないことは明らか。社畜化教育は「古くて新しい問題」なのだ。
(文=和田実)

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