米国の名建築家ウィリアム・ヴォーリズの手になる1937年(昭和12年)竣工の豊郷町立豊郷小学校校舎(滋賀県)は、保存か解体かで裁判沙汰になった末に保存となったが、この小学校が京都アニメーション制作のアニメ『けいおん!』の舞台で「アニメファンの聖地」だと知ったのは、今回の悲劇がきっかけだった。7月28日の日曜日、企業研修や地域コミュニケーションなどに活用される校舎に、神戸から大型バイクを走らせた。

 軋む板の廊下を歩いて本館2階の一室に上がると、黒板が目に飛び込む。事件前、そして事件後にチョークで書かれた文字で埋め尽くされている。英語の励ましも多く、「京阿尼加油(京アニ頑張れ)」などとも書かれていた。中央大学の交換留学生で台湾の林哲宇(リン・ジャ・ユ)さん(21)は、こう語る。

「台湾では京アニは大人気、私も中学の時から大ファンでした。火事は台湾の友達から連絡が来ました。もし犯人が著作権を侵害されたと思っているなら裁判をすればいい。こんなひどい手段をとったら、誰も幸せになれない」

 テーブルにお菓子の模型が並べられていた。京都の30代の若者が教えてくれた。「ムギちゃんは、ちょっとお金持ちのお嬢さんで、美味しいお菓子をよく持ってきてたんですよ」。もちろん『けいおん!』の物語のことだ。「初めて見たのが、けいおん。

はまってしまってDVD買ってこればかり見てた。犯人はなんの恨みがあってこんなことするのか」と噴った。

 喫茶店になっている広い観光案内室では、多くの人が献花台に花束を置いてゆく。部屋の隅でコスプレ、というか女装をしている2人がいた。島津よしりんさんと笹原みずきさん。ともに44歳。笹原さんが紺の冬服で、島津さんが白い夏の制服というキャラクターの女子高生の格好だ。「最初、火事だと思っていた。放火なんて信じられない、今も夢を見ているようです」と声を揃える。2人は7、8年前にここで知り合い、毎週のようにここに来ていた時期もあった。

「高校生の部活も、先輩後輩のどろどろした関係とかいろいろある。けいおんは、そういうのを上手に描いている。

非現実的でなく、こんな解決ならいいなあと思える。絵も綿密で色彩も素晴らしい。落ち着いたら火災現場も行ってみたいけど、今はまだ気持ちが……」(笹原さん)

 2人に並んでの写真を撮らせてもらった。「ピースサインなんかしなけりゃよかったかな」と笹原さん。「でも今も作品は生きている、ということを示したいんですよ」と島津さんが語った。「アニメオタク」といわれる彼らは概して外向的性格ではなく、内向的で優しい人が多そうだ。他者を蹴落として出世することなどできず、挫折もあろう。京アニの作品は、そうした人たちをつなぐ大きな役割を果たしてきたのだ。

 滋賀県長浜町から自転車で来ていた安野貴真さん(40)は特段のアニメファンではなかったが、「よく通るところだったので驚いて来てみた」という。青葉真司容疑者(41)と年齢は変わらない就職氷河期世代だ。

「僕も就職は苦労しました。正社員にも一回なったけど挫折して、今も派遣社員です。

犯行がそれで正当化されるはずもありませんが、犯人が定職がなかったことも無関係ではないのでは」(安野さん)

 青葉容疑者も埼玉県庁での仕事が外部委託され失職していた。安野さんは東京で働いていた頃、秋葉原事件の直後に現場を通り、犯人が乗っていたトラック車も見ていた。

「遭遇した友人は後ろから殴られたと言っていました。一歩間違えば自分もと思い、ぞっとしました」(安野さん)

 身近に起こった凶悪犯罪が、一挙に頭の中で交錯していた。

「苦しまなかったのなら」と父

 前後するが7月24日、兵庫県加古川市の設計士、津田伸一さん(69)を訪ねた。長女の幸恵さん(41)は京都アニメーションに約20年勤め、色彩を担当していた。大事件や事故直後に取材に応じてくれる遺族は限られる。「娘たちの仕事ぶりを知ってもらえれば」と悲しみのなかにあっても快く応じてくださる津田さんには報道陣が殺到する。筆者は電話番号がわからずいきなり訪ねた。「車がないからいないわ」と近所の人に言われ、手紙と名刺をポストへ入れてインターフォンを押すと、意外にも在宅だった。「マスコミさん、もう来んやろと思ったら……」と言いながらも屋内に招いてくださった。

 火災から約1週間。

犠牲者すべてが特定できた頃だ。

「覚悟はしていましたから。明日、長男運転の車で京都へ行きます。警察からは『対面しますか?』と聞かれました。『します』と言うと『できる限りのことはします』と言われました。顔も焼けているようですね」

 運命の日の昼前、姉が「幸恵ちゃんの会社が火事みたいや」と慌てて電話してきたのでテレビをつけた。会社に電話すると娘は第一工場の2階にいたとわかった。「これはあかんなと思いました」。三女が現場に向かい自らは待機した。翌日、警察からの連絡で遺体などが並ぶ警察学校へ行くと、DNA鑑定のため頬の内側を採取された。

「幸恵は小児喘息で外で遊ぶより、自宅で本を読んだりアニメ漫画の主人公の絵を描くのが好きでしたね」

 兵庫県の高校を卒業し代々木アニメーション学院の大阪校で研鑽した後、京アニへ就職した。「会社も創立20年くらいで小さく、家庭的でした」。

そのうち、テレビ番組のエンドロールに幸恵さんの名が出るようになった。「妻は本当に喜んだ。会社は発展して娘も働き甲斐があったみたいで、生き生きしていました」。

 4年ほど前に幸恵さんは、猫を飼うために会社から一駅の所にマンションを移した。津田さんが最後に娘に会ったのは今年のゴールデンウィークの頃。

「いつも、京都の銘菓や寿司などを持ってきてくれる優しい子でした。その時は、昼食を食べたばかりで夜に食べましたね」

 昨年、妻の洋子さんをがんで亡くした津田さん。「私は写真嫌いで、娘の写真もほとんどないんですよ。テレビつけるとなぜか事件のニュースが終わる頃ばかり、吉本(興業のニュース)ばっかりになった。犯人が憎いとかの気持ちもまだ出てこない。自分でもわからない。でも……最悪ですわ」。

 すでに出尽くしたのか、涙を見せず飄々と話す。26日に京都府警から遺体を引き渡され、翌日通夜、28日に告別式を行った。返された遺品のバッグは焼け焦げていた。「やっと娘を連れて帰ることができた。警察から、一酸化炭素中毒ですぐ意識がなくなったはず、と説明された。苦しまなかったのなら……。それだけが救いです」と話した。
(写真・文=粟野仁雄/ジャーナリスト)

編集部おすすめ