有名ブロガーのHagex氏を殺害した男の初公判が11月11日に福岡地裁で開かれた。Hagex氏は2018年6月、松本英光被告に殺害された。

殺人などの罪に問われている松本被告は、Hagex氏がインターネット上で集団リンチに関わったとして、リンチをやめさせるには死ぬ以外ないと思ったと、その動機を供述している。

 裁判では被告が利用していたサイトの運営会社の社員も証人として出廷した。被告による他のユーザーへの中傷は年間8000件にもなり、アカウントを凍結しても約500回にわたり再取得していたという。

 被告本人が言うところの「ネットリンチ」に対して、「私刑」をもって復讐を図ったというこの事件。松本被告にとってはインターネットの世界は実社会以上に重要な場所だったのかもしれない。だからこそ、アカウントを停止されても、執拗なまでに再取得していたのである。なぜならば、アカウントを凍結されることは、社会、世界から分断されることであり、それはどうにも受け入れがたいことであったのだろう。

 筆者はアンガーマネジメントの専門家として、コミュニティに属せず自己否定感を強め、怒りにつなげてしまうケースについて考察したい。

SNSの中で認められようと投稿を繰り返す

 言うまでもなく、インターネットの世界というのは、現実の世界の一部でしかない。多くの人は、現実の世界とインターネットの中の世界を切り離して考えることができるはずである。

 だからこそ、被告は異常であり普通の人には理解できない思考だ、と世間では言われる。しかし果たして本当にそうだろうか、と筆者は考える。

 インターネットが現実の世界の中の「一部」どころか、現実の世界を支配するようなものになっているという人は、実は多いのではないだろうか。だからこそ、Facebook、Twitter、InstagramなどSNSが隆盛を極め、多くの人がそのSNSの中で認められようと投稿を繰り返しているのである。

 SNSとはインターネット上のコミュニティであるが、なぜそれほどまでにSNSを求めるのか。これはまさに、無縁社会の真っ只中に私たちが生きているということだ。

 ”無縁社会とは、単身世帯が増え、人と人との関係が希薄になりつつある日本の社会の一面を言い表したものであり、NHKにより2010年に制作・放送されたテレビ番組による造語である”(Wikipediaより)。

村も会社も失った先のコミュニティ

 もともと日本には村というコミュニティがあった。そこに住んでいれば、コミュニティの一員にはなれた。問題を起こして村八分になっても、葬式の世話と火事の消火活動については、村の安全のためという意味もあるが、コミュニティとの交流は保たれたのである。

 高度経済成長から昭和の時代が終わるまで、そのコミュニティは企業が取って代わった。労働者は長時間労働を企業に提供し、その対価として終身雇用という身の保証を得た。長時間企業にいることで、企業そのものがコミュニティとなり、企業はあたかも家族の様相を呈したのである。

 ところがバブルがはじけ、企業は終身雇用を維持できなくなった。

人事制度は成果主義へと変わり、企業は労働者を家族ではなく、役に立つかどうかで見るようになった。労働者側も企業が家族であるという幻想はもたなくなり、良くも悪くも、関係性は変化した。企業はコミュニティとしての役割を急速に失っていったのである。

 人は常にコミュニティを求める。住んでいる地域のコミュニティはなくなり、働いている場所でもコミュニティはなくなった。代わりに台頭したのがインターネットの世界、つまりSNSである。

 SNSを見れば、自分を見て、自分のことを認めてと承認欲求を隠すことなく表現し、いいねの数に一喜一憂する。リアルなつながりを持つ相手とのやり取りも当然あろうが、SNSだけでの友人知人が数百、数千に膨れ上がると、手に負えない。どれだけ自己承認をぶつけても、社交辞令程度のいいねやコメントだらけなので、本当のところで自己承認欲求が満たされることがないのである。

属するコミュニティが社会性を保つ箍になる

 「2ちゃんねる」の元管理人であるひろゆき氏は、失うものがない人を無敵の人と呼んだ。そして10年以上前に、その無敵の人が増えることを予想している。失うものがないというのは、失うコミュニティ、世界、社会がないと言えるだろう。

つまり無縁の人なのだ。

 属するコミュニティ、自分が受け入れられていると思える場があることは、私たちにとってはそれが箍(たが)になるのである。箍は私たちを人間たらしめてくれる。どんなに感情に振り回されたとしても、誰かに迷惑がかかる、自分の居場所がなくなると考えれば現実の世界に踏みとどまることができる。私たちは良くも悪くも箍があることで社会的に生活ができる。

 その箍がなければ、感情の赴くまま好き勝手に行動してしまう。社会的な箍のない人間、縁のない人間は自分の行動がどう他者に迷惑をかけることになるのか、どういう痛い思いを味わせることになるのか、想像力を働かせることができない。だから非常に独りよがりで身勝手な私刑ができてしまうのである。

 京都アニメーション放火殺人事件の青葉容疑者は、自分の小説が盗まれたという理由で36名の罪のない人の命を奪う凶行に及んだのである。青葉容疑者は41歳。無職である。おそらく彼も無縁の人であろうと見る報道は多い。

 青葉容疑者は1つ目の病院から転院する際、今までこんなに人から優しくしてもらったことがなかったと感謝の意を病院関係者に述べたという。本当にやるせない。

自分で自分を受け入れているかどうか

 なぜ人は“無縁な人”になるのか。私の専門であるアンガーマネジメントの見地から言えば、無縁になるのは、他者に対して極めて許容度の低い人である。他者に対して許容度が低いというのは、自分以外の価値観を受け入れたり、尊重したり、認めることが難しいということだ。

 他者を尊重できず、受け入れることができなければ、当然のなりゆきとして相手からも受け入れられることはない。人と縁をつくるということは、まず自分が相手を受け入れることがスタートになる。

 他者を受け入れることができないから、相手からも受け入れられない。相手から受け入れられないから、さらに相手を受け入れない。相手を受け入れないから……と、縁を薄くする負のスパイラルにはまっていくのである。こうして社会と無縁な状態が出来上がってしまう。孤立し、孤独の中で怒りの炎を薄暗く燃やし続け、身勝手な私刑としてその怒りを社会にぶつけるのだ。

 誤解してほしくないのは、孤独な人への偏見を強めたいわけではないということだ。孤立し、コミュニティに属さずとも、一人で穏やかに暮らしている人もたくさんいる。では、怒りを社会にぶつける人、ぶつけない人の違いはどこにあるかといえば、自分で自分を受け入れているかどうかだ。

 今の自分に満足している、今の自分を卑下することなく、自分で自分の人生を生きているという実感がある人は、誰かや社会を恨むことはない。一方で、今の自分に不満を感じている、自分の人生はこんなはずではない、自分の人生はもっとうまくいくはずだったのに……という自己否定が、社会への復讐心を煽るケースがある。同時にうまくいかない自分に対しても敵意を感じているので、自分を罰するために破滅的な行動に向かうとも言える。

 孤立する人、無縁になる人は、相手が自分を受け入れてくれないと思っている。ところが、本当は自分が相手を受け入れていないのだ。

 これは「相手を受け入れられない自分が悪い」という自己責任論ではない。むしろ極端な自己責任論は、社会的な弱者を自分の責任と切り捨て、孤立する人、無縁な人を生む大きな原因になりえる。では、自分を受け入れ、相手を受け入れるにはどうすればいいのか。

積極的な関わりの最初の一歩

 社会として、どうすれば無縁の人を生まない、つくらないようにできるのか。

それには仕組みなのか、はたまた教育なのか、いったい何が必要なのかを考え、行動し続けていく必要がある。

 ただひとつ言えることは、助けが必要な側の行動ではなく、助けることが可能な側の行動が肝要だということだ。たとえば自分の近くに孤立しそうな人、無縁になりそうな人がいたら、こちらから積極的に関わる。自分がその誰かによって「周りの人」であるうちに、そうしてほしい。

 関わると言っても、大げさなことが必要なわけではない。毎日の「おはようございます」といった簡単な挨拶をするだけでも大きな違いが生まれると筆者は考える。

 ゴミ屋敷の問題がたびたび話題になるが、ゴミ屋敷の住人にフレンドリーな人はいない。社会から無縁になることで、その不安を埋めるために物を集めるのだ。物の数は不安の数なのである。近所の人たちと挨拶をすることもないだろう。

 あなたは毎日、近所の人、すれ違う人たちとどれくらい挨拶をしているだろうか。していなかった人が何かをし始めるのは本当にハードルが高い。でも、その一歩を踏み出すことで、あなたの周りの社会が大きく変わるかもしれないのである。

(文=安藤俊介)

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