4月4日に放送されたバラエティ番組『天才!志村どうぶつ園 特別編』(日本テレビ系)の視聴率が関東、関西両地区のいずれの地区においても27.3%という高い数字を記録した(ビデオリサーチ調べ)。“園長”を失った同番組は、今後も番組はタイトルを変えることなく、“飼育係”相葉雅紀を中心に現行のレギュラーメンバーで放送を続ける予定だという。
偉大なるコメディアンにとって最後の地上波ゴールデンタイムの冠レギュラー番組だっただけに、『天才!志村どうぶつ園』(放送開始は2004年)で動物と遊ぶ姿が、故人の印象として多くの人の記憶に残るだろう。
しかし、志村けんの長いキャリアにおいて、『天才!志村どうぶつ園』は極めて異色の仕事だといえる。なぜなら、生前の志村はMC業には積極的ではなかった。つまり、ビートたけし、タモリ、明石家さんま、所ジョージ、笑福亭鶴瓶、島田紳助らほかの大御所コメディアンらが過去数十年間にわたって取り組んできた、「ロケで撮影された動画を観たり、スタジオで誰かにおもしろいことをやらせたりして、ゲストとのトークを絡めながら番組を回していく」といったスタイルの番組をほとんどやってこなかったからである。
セットに手間ひまをかける“志村コント”志村けんが亡くなるまで自分のホームグラウンドとしていたのは、“大掛かりなセットを組んだバカバカしいコント”だ。
たとえば、現在多くの芸人たちが「ショートコント」の一言で始めるコントは、何もないステージで、そのままの衣装で行われることが多い。小道具や衣装が用意される場合も、医者と患者の設定なら、せいぜい椅子が置かれて、医者役が白衣を着ている程度。ベッドが横にあれば立派なほうだ。
志村が目指していたものはこれとは異なり、診察室を忠実に再現し、それを生かして行うコントなのだ。家族のネタなら、家のセットは玄関から出入りが可能で、リビングには家具や置物がリアルにセッティングされ、キッチンやトイレがある場合も。もちろんトイレのドアを開けると、便器がしっかり設置されている……といった具合だ。
これは、原点である『8時だョ!全員集合』(TBS系、1969~1985年)から通底し、最後まで一切ブレずに志村がこだわり続けたもの。
現在、Amazonプライムビデオでは『8時だョ!全員集合』が、YouTubeでは『志村けんのだいじょうぶだぁ』が公式に配信されているが、それを観ると、セットの豪華さ、規模の大きさ、精巧さに驚かされる。これは、大道具、小道具スタッフとの信頼関係があってこそのものなのだろうし、ザ・ドリフターズや志村けんという大きな名前がなければ、そこにそれだけの予算がかけられないだろう。
また、志村は「志村魂」という舞台公演を2006年から続けてきたが、これはその志村イズムの集大成的なもので、採算度外視で“大掛かりなセットを組んだバカバカしいコント”が、3部構成で3時間超の大ボリュームで展開されていた。
例外的に、ビートたけしとの共演となった1999年の『神出鬼没!タケシムケン』(テレビ朝日系)は、スタジオで動画を観ながら……の要素があったが、この番組にもコントのコーナーがあった。それだけに、コントなしの『天才!志村どうぶつ園』は、志村史的にあまりなかった傾向の番組だといえるのだ。
志村けんは、コーナー司会のみを担当そんな『~全員集合』以後の志村だが、コントなしの番組MC歴がゼロではない。『発掘!あるある大事典』(フジテレビ系、1996~2004年)もその領域に近いが、実は『天才!志村どうぶつ園』以上に極めて異色のレギュラー番組があった。しかも、その番組はなぜか、Wikipediaの「志村けん」のページに掲載されていない(2020年4月26日現在)。
それは、1986年10月から日曜日の11時~11時30分に放送されていたアイドル番組『モモコクラブ』(TBS系)である。同番組は、学習研究社(現・学研ホールディングス)が1983年に創刊した女性アイドル誌「Momoco」のレギュラーコーナー「モモコクラブ」から生まれた。
雑誌のコーナーとしての「モモコクラブ」は、プロアマ問わず、少女の顔写真とプロフィールが、何ページにも渡りズラリと掲載されているもの。
そして、西村、杉浦、島田に続けと、「モモコクラブ」掲載者の人気選抜メンバーを売り出すべく、同年秋に始まったテレビ番組が、先述の『モモコクラブ』だ。これは、メンバー数十名がスタジオにズラリと揃い、歌ったりゲームをしたり何かに挑戦したり……といった、おニャン子クラブを生んだ『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系、1985~1987年)の影響も見られるアイドルバラエティ番組だった。先行デビュー組が一定の人気を得ていたこともあり、モモコクラブ勢は当時、人気絶頂のおニャン子の強力な対抗馬と見られていたのだ。
志村けんがMC業を敬遠したワケこの番組のスタートにあたり発表されたレギュラー出演者の一番上に、志村けんの名前があった。『8時だョ!全員集合』が前年に終了。『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が同年1月にスタートしていた、そんな頃だ。つまり、志村が“全員集合後”の、自らの進み方を模索していた時期なのかもしれない。
しかし、このテレビ番組『モモコクラブ』は、オープニングから志村が登場し、「え~始まりましたモモコクラブ。さて、今週は……」とやる形式ではなかった。
つまり、志村けんが司会を務める番組にモモコクラブのメンバーが出演していた……ということではなく、モモコクラブの番組に志村けんが呼ばれてコーナー司会をしていた……といったおもむきだった。途中から、メンバーが志村流のコントに挑戦という展開も見られたが、あくまで主役はアイドルたちであることに変わりはなかった。
酒井法子と畠田理恵は人気アイドルとなったが、結局、テレビ番組『モモコクラブ』は大きな旋風を起こすことなく1年で終了している。
この番組は、その後、定番となる“多数の若い女性タレントの中心に志村がいる”……という構図の原点だともいえなくもない。しかし、以降のそれらは、いずれも志村が主であったという点で、『モモコクラブ』とは大きく異なる。
志村過渡期の番組ともいえる『モモコクラブ』以降、彼は、前述のようにスタジオで番組を軽く回すだけのMC業にはほとんど取り組まず、テレビでも舞台でも、自らが座長としてフル稼働する道を選ぶことになる。それが、志村けんのコメディアンとしての強い“意志”だったのだろう。
(文=編集部)