近年、インターネット上のまとめサイトなどで取り上げられているジャニーズ関連の真偽不明の情報に、SixTONESの京本大我の母親とSnow Manの佐久間大介の母親はどちらも元アイドルで、2名とも同じグループに属していた……というものがある。

 2020年1月にCDデビューした(結成は2015年)6人組アイドルグループSixTONES。

そのメンバーのひとり京本大我の父親が俳優・京本政樹であることは公表されており、父子で『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演したこともある。京本政樹には2度の結婚歴があるが、短期間で離婚した初婚の相手との間に子どもはいなかった。そして、再婚相手が、「キャンキャン」というアイドルグループの元メンバーで、解散後にタレント活動をしていた山本博美(「山本ひろ美」名義だった時期も)という女性である。そのことは、1991年の結婚当時、メディアで大々的に報道されている。

 そんな京本政樹の息子である京本大我の公式なプロフィールに母親に関する情報はなく、母子で露出することもない。だが、父親が京本政樹である以上、大我の母親が山本博美であることはほぼ間違いないだろう。

Snow Manの佐久間大介と鼻の形がまったく同じ

 一方、SixTONESと同じく2020年1月にCDデビューした(結成は2012年)9人組アイドルグループがSnow Man。そのメンバーのひとりである佐久間大介の母親については、ネット上の情報のみならずファンの間でも、「同じキャンキャンに属していた桜井直美という人物である」ということが、既成事実のように語られている。

 京本大我以外にも、Hey!Say!JUMPの知念侑李(父親は体操五輪メダリストの知念孝)、同じく岡本圭人(父親は元男闘呼組の岡本健一)のように、ジャニーズ事務所が、所属タレントが著名人の子息であることを公表した例はゼロではない。現在はロックバンド・ONE OK ROCKのTakaとして活動する森内貴寛はNEWSの元メンバーであるが、彼の両親が演歌歌手の森進一・森昌子(2005年に離婚)であることも当初から報道されていた。

 だが、佐久間大介の母親については、オフィシャルな発表がなく、本人もそれについて具体的に言及はしていない。ただ、“桜井直美の息子がジャニーズ事務所にいる”という噂は5~6年前からごく一部のジャニーズマニアの間で話題になっていた。

また、大我と佐久間は公の場で、家族ぐるみの付き合いがあり、幼少時より一緒に遊んでいた……といった旨の発言を、母親同士の接点には触れないかたちで何度かしている。そして何より、桜井直美と佐久間大介は顔が非常に似ており、特に特徴的な鼻の形がまったく同じといってもよいくらいである。

 決してネームバリューがあったわけでもない元アイドルが、ジャニーズの若手人気グループのメンバーのひとりである佐久間の母親である……という情報は、今後もジャニーズ側が公式に認めることなどないだろう。とはいえ本稿では、上述したようないくつかの理由から、「佐久間大介の母親は元キャンキャンの桜井直美でほぼ間違いない」という前提で話を進めていこうと思う。

中森明菜、小泉今日子、シブがき隊らと同期デビュー

 さて、現在の人気ジャニーズメンバー2名の母親が若かりし頃に同時に属していたと思われる「キャンキャン」とは、どんなグループなのだろうか? ネット上の情報には、「かわいいですね。きっと人気が高かったのでしょう」「当時、かなり人気があったグループなのではないでしょうか?」などと、当時のアイドル事情に詳しい者からすれば的外れな推測が書かれているが、それらの書き込み主がソースとしていると思われるWikipediaには未掲載の情報も折り込みながら、ここに解説していきたい。

 キャンキャンは、史上空前の新人アイドルの当たり年である1982年に歌手デビューした3人組ユニットである。

 キャンキャンが活動した時期のアイドルシーンには、まずはあの松田聖子がトップに君臨し、同じ1980年デビューの河合奈保子、柏原芳恵がそれに続くポジションにいた。また、その三者とは異なり女優活動に軸足を置いていた薬師丸ひろ子が、カリスマ的人気を誇っていた。

 全芸能界的に、“時代はアイドルを求めている”と判断されたのだろう。各大手芸能プロダクションは、1982年春に有力新人を同時多発的に送り出している。

 3月21日に小泉今日子(バーニングプロ)、堀ちえみ(ホリプロ)、三田寛子(スターダスト)が、4月21日に石川秀美(芸映)と早見優(サンミュージック)が、5月1日に中森明菜(研音)が、続々とデビューしていく(カッコ内は当時の所属プロダクション)。

また、前年10月のデビューで、新人としては82年組扱いとなる松本伊代(ボンド企画)は、すでに人気アイドルの仲間入りを果たしていた。

 1982年春には、ほかにも多数の新人アイドルが歌手デビューしており、そのなかにはのちに女優として活動した北原佐和子(オスカー)、初期の『笑っていいとも!』(フジテレビ系)に出演していた渡辺めぐみ、大映ドラマのヒロイン・伊藤かずえ、のちにシブがき隊の布川敏和と結婚するつちやかおり、のちに野々村真と夫婦となる坂上とし恵(渡辺プロ)など、なんらかの形で芸能界に名を残すこととなる面々も多数含まれていた。また、男性アイドルではシブがき隊(ジャニーズ事務所)が圧倒的な存在感を放っていたが、ジャニーズ以外の新人もゴロゴロといた。

 そんな1982年3月以降、こうしたニューフェイスたちが怒涛のメディア露出を果たしていく。テレビをつければ新人アイドルの誰かしらが出ている……そんな時代だった。ただ、そのなかで生き残れるアイドルの数は限られている。つまり、キラキラしたステージの上で、苛烈な生存競争が展開されていたということになる。

少々“場違い”だったキャンキャン

 そのレースに、キャンキャンは最初から出遅れていた。デビュー曲「あなたのサマーギャル」のリリースは、すでにほとんどの新人が出揃った後の6月25日。10~20代前半を中心とした当時のアイドル主要ファン層は、先述したような大量のフレッシュな新人たちのなかからとっくに“推し”を決め、第2弾シングルを待っていたような時期だ。つまり、6月25日デビューというのは周回遅れのスタートだといえ、ゼロからファンを獲得するには最悪のタイミングだったのである。

 また、女性の「グループアイドル」という存在も、1982年の空気にはマッチしていなかった。

確かに1970年代後半にはキャンディーズ、ピンク・レディーという二大巨頭がおり、その後を追った類似グループが多数存在した。だが、この類似グループの成功例がなかったこともあってか、1980年代になると、ほとんどの大手芸能プロはグループアイドルには手を出さなくなる。その結果しばらくは、グループであることが何か前時代的なイメージを醸し出すような効果さえあった。

 しかし、そんなことは後からアイドル史を俯瞰するからいえることであり、当時の関係者は誰も、何が正解なのかなどわからなかっただろう。

「キャンキャン」というユニット名は、先駆者の「キャンディーズ」にあやかった部分があったと思われる。ただし、その年の1月に創刊したばかりの、女性ファッション誌「CanCam」(小学館)とのタイアップ……というわけでもなかった。アイドルグループのほうのキャンキャンの英文表記は、「CanCan」だった。

関西の人気番組出身の京本母を軸に結成

 京本大我の母親・山本博美は、1980年に毎日放送『ヤングおー!おー!』の「ミス・アイドルコンテスト」でグランドチャンピオンに選ばれた人物。ルックス的にアイドル性が高い逸材だったが、その後の芸能活動は番組スポンサーのCMへの出演と、真田広之主演の映画『燃える勇者』(1981年)に顔を出す程度に留まっていた。小泉今日子や中森明菜より3学年上、1982年春の時点で19歳になる彼女は、アイドルとしてソロでデビューするには年齢的に遅かった。おそらくそうした事情もあり、3人組でのデビューとなったのではないだろうか。

 キャンキャンのセンターを務めたのは、最年長の山本ではなく、佐久間大介の母親とされる最年少(16歳)の桜井直美。

もうひとりのメンバーである唐沢美香は18歳だった。

 山本の実家が理髪店、桜井の実家は青果店、唐沢の実家はラーメン店で、“全員がお店の看板娘”である……というのがウリのひとつで、トークや取材での定番ネタであった。

 当時のテレビ界には歌番組、アイドル番組が多く、バラエティ番組にも歌のコーナーがあった。また、アイドル雑誌、芸能雑誌も多数存在した。そのため、出遅れたキャンキャンにも一定のメディア露出チャンスはあり、テレビでその姿を見る機会も少なくなかった。しかし、それは他のアイドルとて同じである。露出することと売れることとは、まったく別だった。

キャンキャン、わずか1年で活動終了

 他の82年組のトップランナーたちがファンを増やしていくなか、デビュー曲はパッとせず、9月に第2弾シングル「涙のC・Cガール」をリリースするも、残念ながら爆発的な人気を得ることはできなかった。

 小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優、中森明菜ら、生存競争の勝者が明確になっていた翌1983年1月、キャンキャンに大きな変化があった。第3弾シングル「迷うルージュの色」より、グループ名が「きゃんきゃん」とひらがな表記となり、センターが桜井から山本へ変更となったのだ。キャンディーズが、途中からセンターを最年少のスー(田中好子)から、最年長のラン(伊藤蘭)に変更することで人気がブレイクしたという神話にあやかったのか、あるいは単に、ファンの数は山本のほうが多かったというだけなのか、いずれにしても、この改名リニューアルも、人気を爆上げするほどの起爆剤にはならなかった。

 半年のスパンを開けた同年6月リリースの第4弾シングルは、「なに?お巡りさんが…」なる変わったタイトルで、曲はテクノ系、ジャケット写真は全員がビキニ姿。

2020年の目線で見ると、何か目立つことをやろうとしていたことはわかる。だが当時、そうした“変化球”が世間に届くことはなかった。結果、このシングルを最後にきゃんきゃんの活動はストップしてしまう。実質の活動期間は、わずか1年強であった。

80年代アイドルファン的にもジャニーズファン的にも喜ばしい事実

 以後、山本はソロのタレントとして活動をスタートさせ、RIKACO(当時は村上里佳子)らと深夜番組『ミントタイム』(テレビ朝日系)のMCを担当したり、水着写真集やイメージビデオをリリースするなどしていく。また女優活動も行い、そこで京本政樹と出会い、1991年の結婚に伴い引退したのだった。

 グループの活動停止後すぐに芸能界を離れたと見られる桜井と唐沢の消息は、長い間、聞かれることがなかった。

 何かと語られることの多い1980年代アイドルのなかにあって、キャンキャン改めきゃんきゃんにはヒット曲もなく、また全員が若くして引退してしまったこともあり、その後あまり振り返られることもなく約30年が経過する。

 ところが2010年代に入り、忘れられていたこのグループのメンバーに動きがあった。

 まず、唐沢が2013年に「宇野美香子」名義でソロ歌手としてCDをリリースする。彼女は歌手以外に少々政治的な活動もやっており、そちら方面での活動の様子をウェブ上で確認できるようにもなった。

 また、2014年2月にはテイチクエンタテインメントからベストアルバム『きゃんきゃん コンプリート・ベスト』がリリースされた。

これが、現在、新品で入手できる唯一の公式なアイテムである。

 そして山本と桜井は、ジャニーズ事務所が2020年に入りSixTONESとSnow Manを大々的に売り出したことで、再注目を浴びることになった。

 ジャニーズがプッシュする2グループの2人のメンバーの母親が、たまたま偶然キャンキャンはという同じアイドルグループにいた──。あるいは、B級アイドルグループのメンバーが果たせなかった“アイドルとしての成功”という夢を、息子たちが最高の形で実現した──。どちらにしても、なかなか“エモい話”である。

 また一方で、京本大我と佐久間大介が幼馴染みだったという話からもわかるように、キャンキャンメンバーのうち、少なくとも2名が解散後も交遊関係を続けていた──という事実。これは、少数派であろうが、かつてのキャンキャンファンを大いに泣かせるイイ話ではないだろうか。

(文=編集部)

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