警察は、対外的に「日本もテロ対策をちゃんとやってますよ」とアピールしたいのか。それとも、イスラム過激派組織に関する情報収集が目的なのか――北海道大学の学生(26)が、イスラム過激派組織「イスラム国」の戦闘員になろうとシリア行きを計画した、という「事件」。
●にわかに高まった常岡氏逮捕の可能性
これまでの報道を見る限り、この北大生にはイスラム教やシリアでの内戦に関心があるわけではなく、どちらかというと自分が置かれた現実から逃避する手段として、「イスラム国」入りを志願していたように見える。格別の政治目的があるわけでもなく、どちらかというと“自分探し”系の若者だろう。
それを刑事事件化したのは、国際テロを担当する警視庁公安部外事3課。ちなみに、同課が収集した在日のイスラム教徒などに関する情報が、インターネット上に流出した事件は、結局未解明のままになっている。
この学生に対し、同課は「私戦予備・陰謀罪」という、馴染みのない罪名を適用した。警察主催の審議会では常連の前田雅英・首都大学東京法科大学院教授(刑法)すら、「化石みたいな条文を出してきたので、びっくりした」(10月17日付朝日新聞)と驚くほどだ。
外国に対して私的に戦闘行為をする目的で、その準備や陰謀をした者を罰する条文は、1880(明治13)年にできた旧刑法に由来する。当時は、国の交戦権を認めていたので、それとは別に勝手に他国と戦争を始めることを「私戦罪」として禁じた。イメージとしては、幕末に薩摩藩が英艦隊に戦いを挑んだ薩英戦争や、長州藩が英仏蘭米の艦隊に砲撃をしかけた下関戦争があったらしい。それが、刑法改正の課程で、私戦罪そのものはなくなり、予備・陰謀罪が残ったようだ。「らしい」とか「ようだ」という表現が多くなるのは、実際に使われることはなく、まともに研究の対象にもなっていないため、経過がよく分からないのだ。
これまでも外国の傭兵として戦闘に参加した日本人はいるし、「現役の傭兵」として体験を本を書いている人もいるが、これまでそうした活動の準備が、「犯罪」として語られることはなかった。それが、突然、明治時代の置き土産のような、古色蒼然とした条文を引っ張り出してまで事件化した背景には、国連安全保障理事会が、「イスラム国」への人の流入を阻止するために動き出したことが無縁ではないだろう。日本政府は、テロ目的の渡航については、現行法で対応することとし、テロ組織への資金の流れを遮断するための新法制定を準備。現国会で審理中だ。
伝えられている北大生の人間像は、「テロリスト」のイメージとは遠いように思えるが、生きがいや人生の目的を探しているうちにオウム真理教に出会い、凶悪事件に関与してしまった人たちの例もある。この北大生について捜査を行い、渡航を阻止するところまでは、警察の行為として、それなりに社会的要請に適うものと言えるかもしれない。
問題は、その捜査の対象をジャーナリストまで広げていることだ。
先月6日、北大生を被疑者とする捜査の一環として、北大生にインタビューを行い、さらに同行取材をするはずだったジャーナリストの常岡浩介氏の自宅に家宅捜索が行われた。常岡さんによれば、取材に使うビデオカメラ、パソコン、ハードディスク、携帯電話、タブレット端末、航空券、現金、クレジットカードなど62点が押収された。タブレット端末については、警察からパスワードの問い合わせがあった。イスラム国とは関係のない取材データが入っており、当然のことながら教えることを拒否。すると、「では破壊して調べる」と言われたという。
常岡さんは、これまで3回にわたって「イスラム国」の現地取材を行ってきた。今年9月の取材では、「イスラム国」支配地域の状況をビデオで撮影。日本のテレビ各局で報じられた。10月にも取材に行くはずだったが、この家宅捜索によって、中止せざるをえなくなった。かつて取材したロシアのチェチェン人のつてで、現地司令官と親しくなり、身の安全が保障されるよう段取りをしてあった。この司令官を含め、現地の関係者は、常岡さんにとって大事な取材源。その連絡先が、シリア当局や米軍関係者に知られれば、彼らを身の危険にさらしてしまうこともありうる。常岡さんは、先方にフェイスブックの閉鎖を進言するなど、できる限り取材源を守る努力をした。その結果、常岡さんは取材協力者との連絡手段を、そっくり失ってしまった。
さらに、この捜索の2週間前、9月21日から24日にかけて、常岡さんのグーグルアカウントに、何者かが侵入した形跡があった。常岡さんは、取材したデータを、グーグルなどのクラウド上に保存していた。
捜索令状は、北大生を被疑者としており、この時点では、常岡さんは参考人だった。ところが、今月13日になって、警察から「被疑者として取り調べたいので出頭するように」との連絡があった。それ以前に、参考人としての事情聴取の要請があったが、常岡さんは拒否している。
「データを押収され、取材源が守れない状況の中では、取り調べに応じるわけにはいかない」
と常岡さん。この状況は変わらないので、被疑者としての出頭要請にも応じないつもりだ。そのため、常岡さん自身が逮捕される可能性がにわかに高まった。
では、何が罪に問われるというのだろう。
●潰された湯川遙菜さん安否確認のチャンス
常岡さんとその代理人弁護士によれば、北大生は8月11日に、まずはトルコに向けて出発する予定だった。その航空券の手配をしたのが8月5日。期日が迫っていることもあり、同じ便の航空券を入手するためには一緒に買った方がいいだろうということになり、クレジットカードを持っていた常岡さんがまとめて買った。
しかし、同行取材する側が、その便宜のために一緒にチケットを手配することが、果たして罪に問えるのだろうか。むしろ、警察の捜査のやり方からは、罪に問うような行為ではないことは知りつつ、この機に乗じて、常岡さんが集めた情報がほしい、というさもしい根性を感じてならない。
「イスラム国」に関しては、外交ルートなどでは情報が入らず、現地を取材できる常岡さんの情報は、諜報機関からは垂涎の的だろう。しかし、だからといって、ジャーナリストに対して強制捜査を行い、そうしたデータを力ずくで奪い取っていくのは、あまりに乱暴だ。そうやって取材源やデータを奪われるのでは、報道の自由は守れない。
また、情報収集のやり方としても、警視庁外事3課のやり方は、あまりに稚拙で横暴だ。常岡さんは、これまでも神奈川県警など他の警察や公安調査庁、自衛隊などから協力を求められた時には、できる限り応じてきた、という。
「取材源の秘匿は当然ですが、そうでないことは、拒否したことはありません。でも、警視庁公安部からは、ただの一度も協力を頼まれたことはありませんでした」
人の仕事の成果を、丁寧に頼んで教えてもらうのではなく、権力を使って無理やり奪い取る、というのが、警視庁公安部のやり方なのだろうか。むしろ常岡さんと信頼関係を作って情報提供をしてもらうなど、継続的な情報源とした方が、諜報機関としては遙かに上等だろう。
常岡さんが今月シリア行きを計画していたのは、現地の状況を取材するだけでなく、「イスラム国」に拘束された日本人、湯川遙菜さんの安否を確認するためでもあった。常岡さんと親しく、アラビア語に堪能なイスラム法学者の中田考氏が「イスラム国」側から、裁判の通訳を頼まれており、その中田氏も一緒に現地入りするはずだった。これが実現していれば、湯川さんの今の状況を確認することも可能だった。諜報機関としては、常岡さんの帰国を待って、情報提供を求めることもできただろう。警察は、その機会も、自ら潰してしまった。
このうえ、常岡さんを逮捕するなど、強制捜査をさらに強硬すれば、日本には報道の自由はあるのかと、諸外国から疑問符をつけられることになる。その時に生じる国際的な評価の低下は、産経新聞の記者を在宅のまま起訴した韓国の比ではないだろう。そんな恥ずかしい事態は、勘弁してもらいたい。
警視庁公安部は、いったん立ち止まって、頭を冷やし、自省すべきだ。警察の暴走を許さないために、東京地検公安部が果たさなければならない役割も大きい。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)