ほかの武将と違い、織田信長は本拠地となる居城を固定することはなかった。居城の固定化は地域支配を磐石にするが、信長はそれを否定したのだ。
清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城への移転は、明らかに戦略目標に沿ったものである。天下を統一するため、それにふさわしい拠点を必要に応じて変えるというものだ。信長のこの柔軟性は、見習うべきものがある。
信長が安土城の次に考えていたのが、京都を含む近畿から中国、四国、九州が射程に入る大坂(おおさか:現在の大阪)である。そこで信長は、のちに豊臣秀吉が大坂城をつくる場所にあった石山本願寺に目をつけた。本願寺は、淀川と大坂湾に臨み、さらに瀬戸内海から西国への交通の要地に当たる。
信長が本願寺の制圧を考えたのは、戦略上の重要拠点を掌握したいという理由のほかに、大きな思惑があった。それは、流通と生産を支配するというものである。
本願寺は、親鸞を開祖とする、一向宗と呼ばれていた浄土真宗の本山だ。本願寺の勢力は、各地の寺院を中心にして、「守護不入」といわれる世俗権力の介入を排除する、独自の「寺内町(じないまち)」を形成していた。いわゆる寺内特権といわれるものである。
寺内町の多くは河川や港湾に面しており、租税や労役などの課税をかけられていなかった。
信長は、地域の制圧と同時に、寺内特権を所有する本願寺の勢力圏を支配することで、経済と流通、生産の拠点を抑え、そこから上がる莫大な収益の確保を狙った。
そのため、信長は各地の寺内町を恫喝し、従わなければ武力を行使した。そして、本山となる本願寺を脅迫して、退去を要求したのだ。
本願寺は、親鸞の血脈となる法主(ほっす)の顕如(けんにょ)を「生き仏」と仰ぎ、寺内には八町とも十町ともいわれる寺内町を形成して、数万人が生活していた。当時では、日本最大の都市である。日本にキリスト教を伝えた宣教師のガスパル・ヴィレラは、「本願寺の法主は、日本の富の多くを所有している」と語ったほどである。
●信長対本願寺の戦いのはじまり
信長としては、この本願寺の広大な伽藍を含めた寺内町の生産・流通の機構をそのまま残すかたちで支配したかった。しかし、顕如および本願寺は信長の要求を拒否し、戦う姿勢を鮮明にした。しかも、全国の門徒に対して、一斉に挙兵し、本願寺に兵員と食糧を集めることを命令したのである。
かくして、信長と本願寺は10年にもわたって戦いを続けることになった。
その間に、伊勢長島や越前で挙兵した本願寺門徒との戦いに追われた信長は、兵力を集中して本願寺を攻撃する力はなかった。それが、戦いが長期化したひとつの要因でもある。
また、信長が本願寺攻略に手こずったのは、信長に敵対する勢力が本願寺と連携したことも理由である。前述の長政や義景はもちろんのこと、信玄、上杉謙信、さらに毛利輝元までが本願寺と同盟を結び、対信長戦線を構築した。その中心となったのが、本願寺である。
武将たちは、本願寺と手を結ぶことで、信長軍の兵力の分散化を図り、さらには自国内の本願寺勢力にも協力を求めることができる。そのため、信長は、個別に武将たちと戦いながら、本願寺と対決しなければならなかった。
最初に本願寺が決起したとき、信長はさほど脅威になるとは思っていなかっただろう。しかし、それはまったくの思い違いだった。
力では攻略できないと見た信長は、天皇と朝廷に働きかけて、本願寺との講和を模索する。とにかく、本願寺が石山から退去すれば、本願寺および顕如の安全を保証する。さらに、本願寺が支配していた地域を返還するというもので、信長にしては珍しい妥協案を提議している。信長にとって、本願寺の位置は、それほど戦略的に重要な意味があったのである。
それでも本願寺の対決姿勢は崩れなかったが、毛利水軍による食糧の補給が途絶えると、ようやく朝廷の調停に従って本願寺は石山から退去、紀伊の鷺森(さぎのもり)に移転した。
しかし、本願寺を接収した信長軍の過失で、本願寺と寺内町は焼亡してしまう。これに激怒した信長は、本願寺攻略の責任者となる佐久間信盛を追放した。
信長が10年もかけて本願寺と戦ったのは、寺内にある生産と流通の機構をそのまま受け継ぎ、戦略上の拠点にしたかったからである。その構想は、秀吉に受け継がれ、のちにその地に大坂城が造営されることになる。
●信長がキリスト教を受け入れた理由
また、信長はキリスト教の宣教師と親しくしていたが、大友義鎮や有馬晴信、大村純忠らとは違い、信者になることはなかった。しかしながら、キリスト教の教義を理解していなかったわけではない。
信長と交友したポルトガル人宣教師のルイス・フロイスの『日本史』を読むと、フロイスの「信長を信者にしたい」という熱意がうかがえる。
しかし、信長は晩年になるとフロイスの期待を裏切り、「自分は神である」と宣言、「自分を拝めば、富や長寿といったご利益がある」と豪語したという。もちろん、そんな信長をフロイスは「神を冒涜する悪魔」と糾弾している。
信長はフロイスと18回以上、ほかの宣教師を合わせると40回くらい接見している。しかし、その関心は宣教師から教えられるヨーロッパの政治、軍事、船舶を中心とした知識、さらにはアフリカ、インド、アジアの地勢と統治のあり方だったという。
信長はフロイスと初めて会った時、矢継ぎ早に以下のような質問を連発したという。
「ポルトガルから日本に来るには、どれくらいかかるか。また、距離はどれほどか」
「南蛮(ヨーロッパ)やインドから、手紙を受け取るのか」
「布教のために、日本にとどまるつもりか」
それまでの日本人の世界認識は、唐土(中国)と天竺(インド)ぐらいだったといわれているが、当時の信長は、すでに人並み外れた認識を持っていたことになる。
信長は、宣教師から贈られた地球儀を使い、彼らがどのように日本に来たかを尋ねている。そして、宣教師が先に足を運んだ国には、ポルトガルやスペインの軍隊が進攻して植民地化していることも察知している。
信長が宣教師から得た知識のなかで、最も重要なのは「兵器」に関することであった。
さらに、大砲がある。宣教師が義鎮に贈った大砲をもらった信長は、当時の最先端の兵器に並々ならぬ関心を寄せ、さっそく大砲の製造に力を入れた。宣教師から伝えられた大砲は、ヨーロッパの軍船が搭載していたもので、「仏郎機(フランキ)」と呼ばれたものである。
ヨーロッパの軍船に関する当時の記録には、「櫓は四十余本あり、鉄砲は三十四挺が配備され、漕ぎ手は三百人。銃は銅で鋳造され、大きな銃(大砲)は千斤の重さがあり、仏郎機と名づけたり」とある。
●最先端の船もつくっていた信長
さて、琵琶湖にヨーロッパの軍船が航行していたことをご存じだろうか。信長は、岐阜城から京都に直行するために、琵琶湖に百挺の櫓を持つ巨大な高速船をつくった。これを見たフロイスは、「これはガレー船だ」と驚嘆するが、その船の構造を教えたのはフロイス自身である。
ガレー船とは、オール(櫓)で漕ぐ軍船で、地中海で用いられていた。帆もあるが、あくまで補助的な役割で、人力で高速を出すものだ。
信長は、ガレオン船を大坂湾に浮かべている。本願寺に食糧を搬入する毛利水軍の火矢に敗れた信長は、鉄張り装甲の軍船を6艘つくらせているのだ。
それを見たグネッキ・ソルディ・オルガンティノという宣教師は、「これらの軍船は、日本で最も大きく、ポルトガルの船に似ている。日本でこんなものがつくれたとは、驚くほかない。軍船には大砲を3門ずつ乗せているが、どこからもらったものかはわからない。豊後の大友氏が数門の小さな砲をつくった以外に、日本に大砲はないはずだ」と語っているが、前述のようにフロイスが教えていたのである。
フロイスは、最先端の技術を教えることで信長のご機嫌を取り、キリスト教の保護者になってほしかった。その思惑通り、信長はキリスト教と宣教師を保護し、安土城下と京都に教会堂の建設を認めている。しかし、教理を勝手に変更して、自ら神を名乗るようになる。その点だけは、フロイスの思い通りにならなかったわけだ。
ちなみにフロイスは、バチカンに提出するために、日本での布教の状況を報告する『日本史』を書いた後、長崎で亡くなっている。『日本史』には、日本の史料ではうかがえないような、信長の実像が鮮明に書かれている。もちろん、キリスト教とフロイスに不利になるようなことは書かれていない。
(文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)
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