2月に入ると、プロ野球12球団のキャンプがスタートする。メディアで「球春」という言葉を目にする時季だ。

キャンプの様子や一流選手の動向は多くのメディアが報道するが、選手を支える野球用品について報じられることは少ない。

 その野球用品業界で「ベルガード」というブランドがある。創業80年を超える老舗メーカーで、特に捕手が着けるマスク、プロテクター、レガースや、打者が手足につけるアームガード、フットガードといった「防具」に定評があるが、一般の知名度は高くない。

 実は、これらの用品を手がけるベルガード株式会社は、2012年に経営破綻した。だがひとりの社員が商標を引き継ぎ、4カ月で新会社のベルガードファクトリージャパン株式会社を立ち上げた。それから3年半が経過し、新会社は増収増益が続いている。

 そこで今回は、同社の活動を通して、中小メーカーの“カテゴリーキラー”の戦略と、倒産から復活できた要因を分析してみたい。

●技術に定評がある「防具」、捕手プロテクターのカラー化も推進

 1月11日に福岡県の福岡ヤフオク!ドームで行われた「名球会ベースボールフェスティバル2016」では、王貞治氏が投げて長嶋茂雄氏が打つなど、往年の名選手の対決がプロ野球ファンの関心を呼んだ。同社はこの試合に、キャッチャー防具一式を提供している。

 同社社長の永井和人氏は次のように話す。

「当社が手がける野球用品は、主力商品である防具のほか、グローブやミットが中心です。バットや野球帽などの製作も手がけますが、大手メーカーのように幅広い商品を扱う気はなく、自社の得意分野に絞っており、丁寧な製作を心がけています」

 防具はすべて日本製で、国内の職人が手づくりで製作する。
工房でレガースの製作を見せてもらうと、各箇所を熟練職人がミシンで縫い合わせてつくっていた。

 手がける商品のうち、最近の需要が高いものに審判用防具がある。昔の審判はユニフォームの上から防具を着ていたが、現在はマスク以外の防具はユニフォームの下に着用する。

「防具を内部に着ける審判は一段と汗をかくので、装着時の快適性を高めました。審判用マスクも、顔に触れるパッド部分に吸水布加工を施した商品もあります。マスクを装着したまま、ストライクやボールといった発声がしやすいように形状も工夫しています。審判用にきめ細かく対応する会社はないので、競合メーカーとの差別化につながっています」(同)

 1935年に創業した同社は、当初はボールを製造していたが、業界内での評価を高めたのは防具だった。国内外の大手メーカー防具のOEM(相手先ブランドに合わせた商品供給)を積極的に担い、一時は国内のプロ野球捕手が使う防具の多くは同社製だったという。2000年代以降は、韓国プロ野球にも進出。防具・グローブメーカーとしての存在感を増していた。

 82年に入社した永井氏は、経験を積むにつれて企画と製造の両方の職種を手がけ、対外的な交渉役も担ってきた。実は日本のプロ野球で、昔は単色だった捕手のプロテクターをカラー化する動きも同社が牽引した。
きっかけは往年の名捕手で、当時ヤクルトスワローズ監督の野村克也氏からの要望だった。

「ヤクルト球団から『投手が投げやすいよう、プロテクターの真ん中を黄色に変えてほしい』と言われたのです。それを契機に周辺を違う色で縁取りしたり、筋肉を思わせるデザインにするなどバリエーションを広げていきました」(同)

●突然知らされた倒産と再生に向けた必死の活動

 勤続30年を迎えた永井氏に、一大転機が訪れたのは12年2月20日のこと。社内で仕事をしていると突然会議室に呼ばれた。室内に入ると弁護士(後の管財人)がおり、「会社は今日で終わりです。明日からは社屋に入れません」と通知されたという。翌21日、ベルガードの破産手続き開始が決定し、倒産した。

 そこからの永井氏の行動は迅速で、たったひとりでブランド再生に向けて動いていった。行動の原動力となったのは、顧客の存在と自らの問題意識だったという。

「春からの野球シーズンを控えて注文も多く受けており、お客様の期待を裏切ることはできませんでした。また、私自身も将来の独立を視野に入れて、早稲田大学の起業家セミナーに通い勉強もしていました。誰もやらないなら自分が再生しようと考えたのです」(同)

 再生に向けた諸手続きには予想外に時間がかかり、商標を引き継ぎ、再スタートしたのは4カ月後の6月だった。
このタイムラグでOEM先の大手メーカーとの取引も軒並み終了となったが、それが結果的に幸いし、利益率の高い自社ブランド強化につながったという。

 孤軍奮闘する永井氏を支援したのが、ベルガードブランドのファンたちだ。アンパイアショップを運営する元プロ野球審判員、ソフトボールの審判用品を販売する会社の女性社長といった人が注文してくれるようになった。注文数が増えるに従い、旧会社のベテラン職人も手伝い、3人が入社した。ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)での情報発信も役立ったという。永井氏が発信してきたブログを再開したことで、支援の輪も広がり注文者も増加。現在はフェイスブックで情報発信をしている。

 商品の評判を耳にして利用する国内外の著名選手も増えた。たとえば、米大リーガーではロビンソン・カノ選手(シアトル・マリナーズ)やブライス・ハーパー選手(ワシントン・ナショナルズ)が同社の打者用防具を愛用する。日本のプロ野球では、大手メーカーと契約する選手がそれ以外の用品を使うのは難しいが、昨年、打率3割・本塁打30本・30盗塁以上の「トリプルスリー」を達成した一流選手からも依頼が来ているという。

●市場が縮小するなかでの、中小メーカーの生き残り策

 昭和時代には男性の「Do Sports」(やるスポーツ)の絶対的王者だった野球も、厳しい時代を迎えている。少年の選手登録数はサッカーに逆転されており、草野球を楽しむ大人の姿も昔に比べて少なくなった。
国内における人口減少の数倍の速さで進む「競技人口の減少」に、危機感を抱く球界関係者もいる。

 そんな時代にベルガードが取り組むのは、大手メーカーが注力しない分野の深掘りだ。たとえば、女性用の野球用品もそのひとつだ。同社のグローブやミットはオーダーメイドで製作できるので、ハートをあしらったグローブや派手なグローブを注文する選手もいる。一つひとつの注文に真摯に応えることで、アマチュア選手などの個人客を地道に増やしている。ミット製作の「名人」として名高い佐川勉氏(有限会社佐川運動具製作所社長)が、革の型から抜いて一貫製作した商品もある。

 生き残りのためには、窮地のときに自分自身を見失わない判断も大切だろう。実は倒産直後のベルガードには、韓国企業から支援オファーがあった。永井氏らが先方企業に入社するのが条件だったため、ブランドや技術の国外流出を懸念してオファーを断って起業を選択した。

 大口取引先の喪失が、追い風となることもある。ベルガードにOEMで防具を注文していた多くの大手メーカーは、自社の技術ではなかったため、防具市場の開拓に興味があっても、現状では同分野を強化することができない。

「これからも大手企業が注力できない分野で勝負して、品質を追求していきたい。
メイド・イン・ジャパンのクラフトマンシップには負けない自信があります」(同)

 新卒で就職すれば何十年も安泰――とはいかない時代。ベルガードと永井氏の事例は、「自らの強み」や「転ばぬ先の杖」として学ぶことができそうだ。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)

編集部おすすめ