2015年11月、早稲田・慶應義塾・上智に次ぐ私立大学グループ「MARCH(明治・青山学院・立教・中央・法政)」に属する中央大学が、同大の“看板”である法学部を移転する方針を発表して話題になった。
現在、中大法学部は東京都八王子市の多摩キャンパスにあるが、22年までに文京区の後楽園キャンパスに移すという。
こうした大学の都市部への移転は、中大に限ったことではない。昨年11月11日付日本経済新聞によると、06年には共立女子大学が八王子市から千代田区に移転したのを皮切りに、14年には実践女子大学も日野市にあった2学部や短大を渋谷区に移し、昨年も拓殖大学が八王子キャンパスの2学部を文京キャンパスに移転した。
今春には、杏林大学の八王子キャンパスが都心に近い三鷹市に移ることが予定されるなど、今大学はこぞってキャンパスを郊外から都心部に移動させている。
では、なぜ大学が都心に回帰しているのだろうか。また、大学の郊外移転は失敗だったのだろうか。社会学者の新雅史氏に、大学の都心回帰の理由について話を聞いた。
●大学が郊外に移転したのは「国策」だった?
「ここ10年くらいの間に、大学はだいぶ変化しました。日経新聞の記事にもありましたが、私大文系を中心に、都心にキャンパスを移す動きが増えています。理由のひとつには、やはり少子高齢化が挙げられるでしょう。受験者数が減り、今やどの大学も学生の確保に必死です。そこで、人を集めやすい都心にキャンパスを移動し、経営を安定させる必要があるのです」(新氏)
日本全体を襲う少子高齢化の波が、大学の郊外離れにも大きく影響しているという。
「大学の郊外移転を失敗だったと考える人もいますが、私は必ずしもそうとは言い切れないと思います。というのも、各大学がキャンパスを郊外に移したのは、そもそも国の政策があったからです。1950年代の日本では、東京の人口や建物の過密性が問題になり、これ以上都心に建物を集中させないという方針が国によって定められました。それまで、各大学のキャンパスは都心にありましたが、さらに手広く経営するためには郊外に拡充せざるを得なかったのです」(同)
当時は少子高齢化などの問題が表面化する前で、また理系学部では研究施設を充実させるため、より広い敷地が必要だった。国と大学の思惑をはじめ、さまざまな要因が重なったことで、大学は郊外に移った。そして、都心に回帰する事態となったのである。
しかし、新氏は「大学が生き残りをかけて都心部に移転することが正解かどうかはまだわからず、再考の余地もある」という。
「各大学が郊外へ移転したのは、大学生の増加に対応するといった経営の観点に加えて、広々と充実した環境で学生たちに学んでほしいという思いがあったはずです。アメリカの大学は、郊外の緑豊かな場所にキャンパスを構えることが多く、日本もそれにならった部分があったのです。こうした、大学が郊外に移転した時の理念は捨て去ってよいのでしょうか。
そして、郊外の衰退が起きているからといって、大学がそれに同調して都心に移転すると、郊外は一層衰退してしまいます。
さらに、大学移転に伴う多摩地域の衰退も危ぶまれている。今後、郊外に残った大学が地域とどうかかわっていくかも課題といえよう。
(文=中村未来/清談社)