昨今、美術館の魅力が見直され、ブームになりつつあるという。主要な客層である中高年はもちろん、若い層でも展覧会に足を運ぶ人が増えてきており、ここ数年、日本の主要美術館の来館者数は高い水準で推移している。



 記憶に新しいところだと、東京都美術館(台東区)で昨年4月から5月にかけて開催された「生誕300年記念 若冲展」は、わずか1カ月で約45万人を集客。待ち時間は、なんと最長で320分にも及んだというから驚きだ。

 さて、人々が美術館に出向く大きな理由は、やはり貴重な美術品に出合えるからだろう。そんな貴重な作品の数々は当然、何者かが不用意に触れて傷つけてしまわないよう、厳重に管理されているはずである。ポルトガル・リスボンの国立古美術館では昨年、観光客が展示物の彫像をバックに“自撮り”を試みたところ、彫像と衝突し破壊してしまったそうだが、日本では考えにくいことだ。

 ただ、どんな展覧会にせよ、その美術品をスタッフたちが会場へ運び込まない限り、来場者たちの目に触れることはない。美術品を破損させてしまうリスクは、もしかすると展覧会の会期中より、むしろ準備中のほうが高まるのではないだろうか。

 こうした内情について、三重県立美術館(津市)で学芸員を務める貴家映子氏に話を伺った。

●美術品の展示作業中は危険と隣り合わせ?

「美術品の破損は基本的にあってはならないことですが、展示の準備中に古い漆が剥がれてしまったり、額装の木材加工が剥がれてしまったりといったことは、正直珍しくありません。作業員が途中で絵画を落としてしまったというような話も、頻繁にではないですが耳にします。ですから、壊れてしまう危険性が高い美術品ですと、保有者が『最初から貸し出さない』という対応を取ることも多いです」(貴家氏)

 展示の準備中、経年劣化などが原因で小さな破損が見られることはあるが、その美術品の価値を著しく損ねてしまうほどの人的ミスが起こるのは稀なようだ。

 しかし、そういった事故の件数がまったくゼロではないのなら、展覧会の準備をするなかで“トラブルが発生しやすい工程”というものも、ある程度は想定できる。


 たとえば2015年、某美術品輸送会社の作業員が、国の重要文化財をトラックで輸送中に破損させてしまったという事例が報告されている。車体の揺れは美術品にとって決して好ましくないだろうし、美術品の安全確保を一番おびやかすのは、輸送中の事故ではないだろうか。しかし、貴家氏に見解を求めると、現実的にはもっと違う事情があるようだった。

「美術品の展覧会を行うにあたっては『集荷』『移動』『展示』『返却』という4つの段階を踏むことになります。

 まず美術品の『集荷』では、貸し出す側と借りる側、それぞれの美術館の学芸員と作業員が梱包を担当します。このとき、美術品には常に学芸員による監視の目がついているため、事故が起こる可能性は低いでしょう。これは『返却』の際も同様です。

 次に美術品を『移動』させる際は、その美術品ごとに合った梱包を施したうえで、美術品輸送の専用トラックを使います。専用トラックの特徴は、振動が伝わりにくいサスペンション仕様である、防振材が貼られている、温湿度が一定に保たれている、作品を固定するための装置がある、といったもの。輸送中は学芸員も添乗しますので、ここでもやはり事故が起こる可能性は高くありません。もっとも、業者によっては輸送作業にアルバイトの方が携わっていることもあり、そうなると話は変わってきます。

 最後に『展示』について説明しますと、作業中は基本的に、学芸員が立ち会わなければいけないことになっています。
とはいえ、すべての美術品に注意を払うことは難しく、他の工程に比べ、美術品への配慮が手薄になってしまいがちなのが実情です。つまり美術品にとって最も事故が起こりやすいタイミングは、美術品の梱包が解かれている状態かつ、学芸員の目が行き届きにくくなっている『展示』の最中だといえるでしょう。そのため、弊館では、可能な限り多くの学芸員が作業に立ち会ってリスクを最小限にとどめるよう努めています」(同)

●事故により損なわれるのは美術品の価値だけではない

 いくら細心の注意を払っていたとしても、人間が取り扱う以上、美術品の破損事故を完全に避けるのは不可能ということか。仮に事故が起こってしまった場合、どのような対応が取られるのかを貴家氏に聞いた。

「展覧会を行う際にはお借りする美術品に保険をかけますので、事故があった場合は、保険会社から美術品の保有者に対して賠償金が支払われます。しかし賠償金はあくまでも、破損があった美術品を修復するのに必要とされる額です。仮に10億円の価値がある美術品だったとしても、亡失や焼失の場合を除けば、その評価額が支払われるわけではありません。

 また、修復が不可能なほどの損壊があった場合ですと、貸し出した側の美術館と保険の専門家、さらにご存命であれば作者のかたを交えて相談し、理想の形を決めていくことになると思われます」(同)

 美術品には、あらかじめ展覧会の予算で保険をかけるため、美術館や輸送業者が賠償金を直接負担することはないらしい。そうはいっても、美術品の事故は館や企業の信用問題に大きく関わってくるという。

「展覧会には一から美術館で企画を立ち上げるケースもあれば、企画会社が展示品の選定から貸し借りの交渉まで終えている企画を、美術館が購入するケースもあります。後者の場合、企画会社がどこの輸送業者に依頼するかを決めていたとしても、そこに対して美術館側が不安を感じてしまえば、別の企業を改めて指定することも考えられるでしょう」(同)

 世の中の美術館は、昨今の展覧会需要の高まりを受け、また、所蔵するコレクションの館外での活用や普及にもつながるため、貸し出せる美術品はできるだけ貸し出そうという方針に変わってきており、その普及に努めているのだと貴家氏は語る。損壊の恐れがあり、従来は滅多に外へ出てこなかったような美術品も、今後は展覧会への出品機会が増えるのかもしれない。


 これはもちろん歓迎すべき時流だが、展覧会を運営する側も観る側も、美術品の扱いにはより一層の慎重を期す必要があるだろう。
(文=小林倫太郎/A4studio)

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