音楽のジャンルとして「昭和歌謡」という言葉が定着したのは、いつ頃だろうか。
1970年頃にはピンクレディーを代表とするようなインパクトのある作品が支持されていたが、80年に中森明菜やチェッカーズが出現すると、歌謡曲は大きく変わった。
彼らが爆発的人気を博した原因を考えてみると、その数々のヒット曲の「歌詞」が担った役割は大きい。その歌詞が聴く人の思考や感情を動かし、それぞれのストーリーを連想させることで、歌い手と見えない何かを共有しているような感覚を持たせる。それが、かつては遠い存在だった歌手を近くに感じさせるようになったのではないだろうか。
そんな80年代の歌謡曲のキーパーソンといえる作詞家・売野雅勇氏の偉才ぶりは多くの人が知るところだが、彼のプライベートについては謎めいている。今回、売野氏にプライベートも含め、話を聞いた。
●ヒット曲の裏側にあったストーリー
売野氏は昨年、活動35周年を迎え、初の自著『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(朝日新聞出版)を上梓した。また、これまでに歌詞を提供してきた鈴木雅之、藤井フミヤ、中村雅俊、荻野目洋子などのアーティストが多数出演した、35周年記念コンサート『Fujiyama Paradise Tour「天国より野蛮」』が盛大に開催されるとともに、CDボックスセット『Masterpieces~PURE GOLD POPS~売野雅勇作品集「天国より野蛮」』もリリースされ、話題となった。
『砂の果実』を読むと、当時のヒット曲が生まれた陰にあったリアルな世界がのぞける。たとえば、売野氏の代表作のひとつ『少女A』は、もともと沢田研二のために書いたが採用されず、眠っていた詞を中森明菜のイメージで書き直したところ、大ヒット作となったことなどが明かされている。
80年代に青春時代を過ごした世代にとっては、当時に戻ったような感覚になり、ワクワクできる内容が描かれている。さまざまな曲にまつわるストーリーのなかでも、矢沢永吉の『somebody’s night』が生まれた際の話は興味深い。
当時を振り返り売野氏は、「僕はね、自分で売り込みとかしないんだけど、たった1回だけ、自分からアプローチしたのが矢沢永吉さんなんだよ。あんなカッコいい人いないよね」と、まるで少年のように目を輝かせた。
多くのヒット曲を生み出し、今なお尽きることない才能で活躍を続ける売野氏だが、少しも偉ぶるところがない。
「ラジオ番組の『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ)に呼ばれたときにね、太田(光)さんに『実在したんですね。架空の人物だと思っていました』と言われたんだよ」とおどけてみせる。ひとりの人物がつくっているとは、にわかに信じ難いほど多くのヒット曲を生み出している売野氏を、「架空の人物ではないか」と形容する太田の気持ちも理解できる。
●5回も事故が続いた厄年
作詞家として不動の地位を築き、仕事が乗りに乗っていた42歳の頃、交通事故が5回ほど続いたという。
「それまで僕にはジンクスみたいなものあって、何か成功する前やヒットが出る前には、車にぶつけられたり事故があった。だから1回目は、『おおこれは!』と思った。それから次の月も、それも同じ日にまた事故が遭って『2回も続いてどんな大きな成功があるんだろう!』って期待したんだよ。そうしたら、しばらくしてまた事故。3回目はね、もう喜んでいられない。
それまでの売野氏は、合理主義な考えで現実的でないことは信じずに生きてきた。しかし、その時ばかりはどうにかしなければと思ったという。
「『厄年って何?』という感じだったけれど、5回も事故に遭っているから悠長にしていられなかった。知り合いが『売野さん、茅ヶ崎の寒川神社に行ってお祓いして』って言うから、行ったんだよ」
当時、多忙を極めた売野氏だが、1日休みを取り、ひとり電車に乗って寒川神社に向かったという。
「電車を乗り継いで、最後は寒川駅から寒川神社まで歩いたんだが、えらく遠く感じたのを覚えている。そして知人に言われた通りにお祓いしてもらったら、お祓いの最中に背中から熱いものが出てきて頭から抜けて行ったような感じがあって、終わったら世界が変わったんだよ。視界がクリアで明るくて、すべてがキラキラして見えた。その後、事故もなくなったんだ。それからは毎年、お祓いに行っている。それをきっかけに、目に見えない何かがあるという考えに変わった。スタッフやほかのアーティストなんかも連れて行っているけれど、お祓いしてからメジャーになったアーティストもいるよ」(同)
筆者も売野氏と同じく、目に見えない何かがあると信じる。
●命の危機を体験
インタビューの間、終始感じたのは、売野氏のエレガントさだ。話し方、仕草など、売野氏の佇まいは、エレガントの一言に尽きる。そのせいか正直、生活感がないばかりか、年齢という概念もないような感じだ。しかし、実生活では、長年連れ添った妻と一人娘がいる。
「子供を持ったことは本当によかった。子供を通して自分が子供の時に何を考えていたかなど忘れていたことを思い出したり、子供を持たないとわからないこともたくさんあったと思う。今も娘はすぐ会える場所に住んでいて仲がいいよ」(同)
売野氏は、このように語り父の顔を覗かせる。だが、仕事のために家族と離れてひとりでホテルに缶詰になることもしばしばだという。そんな生活のなか一昨年、命の危機を感じるような出来事があった。
「2015年に変な息切れがあって、『もしかしたら心臓病なんじゃないか』と気になって大きな病院へ行ったんだよ。いろいろな検査をした結果、大丈夫だと診断され、『あーよかった』と安心していたんだけど、それが間違いだった。
そして1月2日、『今日こそは帰ろう』と決めて朝起きたら、喉が苦しくなった。まるでドライアイスを飲み込んだような苦しさだった。続けて、心臓に痛みが走った。長年、合気道や気功を続けていたから、自分で心臓を押さえて気を入れるようにしたら5分くらいで治って、『よかったー』ってホッとしたよ」(同)
まるでコメディのような口調で話すが、その時の病状は深刻だったという。
「でも、それから30分くらいしたら『ドカン!』と大きな痛みが来た。これは緊急を要するということはすぐにわかったから、自分で救急車を呼んだ。意識がなくなったら終わりだと思い、気持ちをしっかり持とうと意識して、まず友人に電話して状況を伝えた。
思わず笑ってしまったが、命にかかわる状況だったことは間違いない。電話中、椅子に腰かけていたが、痛さのあまり前のめりになり、床に水たまりができるほど額から汗が滴り落ちたという。
それでも、救急車が到着し病院に搬送される間、救急隊に「奥さんに電話します」と言われると、当時病気がちだった妻がパニックになっては大変と思い、「娘に連絡を」と答えたほど妻を思いやる。
その後、心臓の手術を受け順調に快復したが、正月から手術ができる病院が近くにあり、発作から手術までが速やかだったおかげで大事に至らずに済んだ。目に見えない何かに守られていると感じる出来事だったようだ。
●狙うは世界進出
この数年、売野氏をメディアで見かけることは少なかった感があるが、実は2000年から13年までは舞台演出に情熱を注いでいたという。現在は、ロシア人デュオのMax Luxのプロデュースを手がけている。その一方で、作詞の依頼も後を絶たず、多忙を極めている。
「仕事に火がつくと、つい時間も忘れて徹夜してしまうので、しばらく体調が悪かったんだ。特に、今プロデュースしているMax Luxのライブの前後は、体温が下がりすぎたりと具合が悪かった」(同)
こう語るが、去る9月6日に東京・目黒のブルース・アレイ・ジャパンで行われた Max Luxのライブに現れた売野氏は、具合の悪さなど微塵も見せなかった。そのプロフェッショナルな姿勢には脱帽する。
Max Luxのライブはチケットも早々と完売し、大盛況だった。
売野氏は、Max Luxのプロデュースで世界進出を目指している。Max Luxは、現在のメンバーになるまで何人も入れ替わっている。初代は3人のロシア人で構成され、売野氏はドリームガールズのようなコーラストリオをイメージしていた。初代メンバーは12年から半年にわたり、明石家さんまが司会を務めた『サタデー・ナイト・ライブJPN』(フジテレビのCS放送「フジテレビNEXT ライブ・プレミアム」)でレギュラーに大抜擢され将来を有望視されたが、13年にメンバーが入れ替わり、まったく新しいMax Luxとなった。
メンバーの入れ替わりは、特に問題があったわけではない。売野氏はメンバーを選ぶ際、歌のうまさはもちろんだが何よりも性格の良さを重視するという。
「歌は、なんでも出る。たとえ歌が上手でも、声で内面がわかる。僕は、魂が喉を震わせて声が出ていると思っている。だから、声がその人の人生に対する態度を表している気がするんだ」(同)
歌だけではない人間的な魅力でも、Max Luxの現メンバーは世界進出を狙えると感じているという。数えきれないほどのヒット曲を生み出した売野氏の目に狂いはないだろう。
次回のMax Lux ライブは10月18日、ブルース・アレイ・ジャパンで行われる。今後のMax Luxの活躍が楽しみだ。
(文=道明寺美清/ライター)
詳細: http://www.bluesalley.co.jp/schedule/live.html