今月、東京メトロ銀座線が開業90周年を迎えた。東洋初の地下鉄として、東京地下鉄道が浅草-上野間2.2キロメートルを開業したのは1927年12月30日のことだった。
上野駅の当時の駅名表示は「うへの」。開通当初は物珍しさから2時間待ちの行列ができたという。浅草-新橋間の全線開通は1934年。一方、渋谷-新橋間は東京高速鉄道が地下鉄を開業。両社の紛争があったものの、1939年に浅草―渋谷間の直通運転が始まった。
現在、札幌から福岡まで9都市41路線で地下鉄が運行されている。総営業距離は749キロメートル(2016年現在)。1960年には営業距離は56.7キロメートルにすぎなかったが、高度経済成長を経て70年に217キロメートル、80年には365キロメートルに延びた。バブル期を経て90年に514キロメートル、2000年に650キロメートル、2010年に730キロメートルになった。
営業距離がもっとも長いのは東京メトロで195.1キロメートル。以下、大阪市営地下鉄129.9キロメートル、都営地下鉄109キロメートル、名古屋市営地下鉄93.3キロメートルと続く。
●後藤新平、根津嘉一郎との交わりで才覚を発揮
日本の地下鉄の歴史を振り返るとき、“地下鉄の父”として語られるのが早川徳次だ。大正時代に東京地下鉄道の前身である東京軽便地下鉄道を設立し、地下鉄免許を申請。自ら地質調査や資金調達などに駆けずり回り、悲願の地下鉄開業にこぎつけた人物である。その胸像は銀座駅のコンコースと、葛西の地下鉄博物館に展示されている。
その人生は地下鉄一筋と言っていい。山梨県立博物館で今年5月から6月にかけて開催された「地下鉄90年 早川徳次、東京の地下を拓く」や地下鉄博物館の展示資料などから、その生涯を追ってみよう。
早川は1881年、山梨県東八代郡御代咲村(現在の笛吹市)に生まれた。父親の常富は御代咲村の村長を務めた。旧制甲府中学(現在の県立甲府第一高校)から第六高等学校(同・岡山大学)に進むが、病気で中退。その後上京して早稲田大学に入学。政治家を志し、在学中に後藤新平の書生となる。
そんな早川に転機が訪れる。妻の叔父から同郷の実業家で後に“鉄道王”と呼ばれることになる東武鉄道社長の根津嘉一郎(初代)を紹介された。早川の才覚に着目した根津は1911年以降、経営状況が芳しくなかった佐野鉄道(同・東武佐野線)、高野登山鉄道(同・南海電気鉄道高野線)の再建を立て続けに依頼。早川は両線とも、わずかな期間で立て直しに成功した。
●ロンドン視察後、有力実業家の支援を得て地下鉄建設に邁進
鉄道事業の再建に力を振るった早川に大きなチャンスが訪れた。1914年の国際事情視察でロンドンを訪問した。鉄道と港湾調査が目的だったが、早川はロンドンの地下鉄の発達ぶりや定員を座席数プラス4としたグラスゴーの地下鉄のゆとりのあるシステムに衝撃を受け、東京にも地下鉄建設が不可欠との思いを抱いた。当時の東京の市民の主な足は路面電車だったが、慢性的な混雑と渋滞に悩まされていた。
帰国後、早川は鉄道省などに地下鉄の建設を働きかけたが、東京の軟弱地盤などを理由に相手にされなかった。自ら地質・湧出量調査や交通量調査などを実施して、東京軽便地下鉄道を設立、1919年に地下鉄免許を取得した。
早川の理解者、支援者には後藤新平、大隈重信、渋沢栄一、根津嘉一郎、石橋湛山といった錚々たる人物が名を連ねている。
1920年、東京地下鉄道を設立し、早川は常務取締役に就任。1925年9月、いよいよ浅草-上野間の地下鉄工事が始まり、1927年12月30日に悲願の開業に漕ぎつけた。早川46歳の時である。
車両は全鋼・難燃化車両を採用し、打子式ATC(自動列車停止装置)を導入するなど安全面に気を配った。同時に地下鉄出入り口にビルを建て、ビル内や駅構内に店舗を配置したり、デパートへ直接出入りできるようにした。定期券利用の通勤客向けの夕刊受け取りサービスなど営業面でも最先端の手法を駆使した。阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)を率いる小林一三の手法を参考にしたといわれている。
開業当初は1両編成で運行していたが、早川は将来の輸送量増加を見越し、駅のホームを6両編成に対応できるようにした。こうしたところに早川の先見性を感じる。
その後、1934年に浅草-新橋間が開通。
早川は1940年、東京地下鉄道の社長に就任するが、五島との経営権をめぐる争いに敗れ、相談役に退く。早川はこのとき59歳だった。引退後は神奈川県の逗子に地下鉄職員の研修施設をつくるなど人材育成に力を注いだが1942年、61歳の生涯を閉じた。早川が心血を注いだ地下鉄事業は、1941年に設立された帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に譲渡された。
地下鉄博物館には、若き日の早川に後藤新平が贈った歌が展示されている。
「寝ざめよき事こそなさめ 世の人の よしと悪しとは 云うにまかせて」
その教えを胸に、地下鉄建設事業に邁進した早川は常日頃から「いまに東京の地下は蜘蛛の巣のように地下鉄が縦横に走る時代が必ず来る」と口癖のように言っていたという。
地下鉄博物館では来年1月28日まで特別展「地下鉄開通90周年展」が開催される。地下鉄の歴史に触れるとともに、早川徳次という男のロマンを感じ取ってみてはいかがだろうか。
(文=山田稔/ジャーナリスト)