森友学園問題や加計学園問題における「忖度」疑惑により、死語になりつつあった「忖度」という言葉が一気に国民の注目を浴びることになった。そして、ついに「『現代用語の基礎知識』選 2017ユーキャン新語・流行語大賞」に輝いた。
国会でも、「忖度」の実態を解明しようとする野党側と、「忖度」などなかったとする政権側との間で、必死の攻防戦が繰り広げられてきたが、真相はなかなか見えてこない。いまだにすべてが藪の中だ。それもそのはず、つかみ所のなさこそが「忖度」の特質なのだ。
「上」の者が命じたのなら、命じた側に責任があるのは明らかだ。だが、「下」の者が「忖度」で動いたとなると、「上」の者の責任とも言えない。では、誰に責任があるのかということで、問題が紛糾する。
ニュースを見ながら「忖度」のややこしさを他人事のように思っている人が多いかもしれないが、実は私たちの日常もさまざまな「忖度」で動いており、「忖度」がうまくいかないと仲間から浮いたり、仕事ができない人物とみなされたりする。
そもそも「忖度」とはなんなのか。メディアを通して流れてくる政治家や官僚の「忖度」疑惑の報道に触れることで、「忖度」という言葉はとても身近なものになっているが、実はその意味がよくわからないという人が意外に多いのではないか。
そこで、私は『「忖度」の構造』(イースト新書)で「忖度」の心理メカニズムを具体的な事例を用いてわかりやすく解説した。今回は、それをもとに、なぜ「忖度」が必要なのかを考えてみたい。
まずは、「忖度」の辞書的な意味をみてみよう。
<(「忖」も「度」も、はかる意)他人の心中をおしはかること。推察。「相手の気持を忖度する」>
また、『日本語源広辞典 増補版』(ミネルヴァ書房)では、「忖度」の語源について、つぎのように解説されている。
<中国語で「忖(思いはかること)+度(はかる)」が語源です。他人の心の中に思っていることをあれこれと推し量ること。例:病床の先生の心を忖度するしか方法がない>
●そもそも「忖度」とは何なのか?
「忖度」は17年になって政治家絡みの問題で急速に世間に広まった言葉であるため、何か悪いことであるかのような印象を持たれがちだ。ニュースや雑誌記事をみても、悪い意味での「忖度」についてのコメントばかりが目立つ。
だが、このように辞書的な意味を確認すると、「忖度」そのものは、けっして悪いことではないことがわかる。「忖度」というのは相手の気持ちや立場に想像力を働かすことを意味する。相手の気持ちや立場を配慮することは、別に悪いこととはいえない。むしろ、相手の気持ちや立場を配慮せず、自分の気持ちや立場のみを基準にして行動するとしたら、それは非常に自分勝手なことになるだろう。
欧米社会で争いごとが多く、やたら訴訟問題になったりするのも、「忖度」というものが機能せず、誰もが自分を基準に行動し、自分勝手な自己主張をするからにほかならない。その意味では、「忖度」を大事にする日本的コミュニケーションこそが、争いごとが少なく、平和で治安の良い社会をもたらしているといってもよいだろう。
自分勝手な主張は見苦しいということで相手が遠慮してあえて要求しないことを「忖度」し、その要求に極力応えようとする。こっちに負担をかけては申し訳ないという思いから相手が口にしない思いを「忖度」し、その思いを汲み取り、相手のことを配慮した行動を心がける。それは、温かい心の交流にとって大切なことである。
問題なのは、ニュースで流される不正疑惑のように、「忖度」により判断が歪み、不適切な行動が取られることだ。「忖度」の結果が不適切な行動につながるのでなければ、「忖度」という心理メカニズムが働くことに対して、別に目くじらを立てることはない。もっと「忖度」すべしと奨励してもよいくらいだ。
どうも、そのあたりの混乱がみられるようだ。
●「忖度」の良し悪しは、動機しだい
相手の気持ちや立場を思いやり、相手の身になって考えるのが「忖度」だということなら、それはけっして悪いことではない。むしろ心地よい雰囲気の醸成のために重要な役割を担っているといってよいだろう。
「忖度」するには、相手の視点に立ったときに物事がどのように見えるかを想像する姿勢が必要である。
政治家や官僚の「忖度」がともすると社会問題になるのは、「忖度」する動機に問題があるからだ。相手に申し訳ないとか、相手を傷つけたくないといった思いやりによって「忖度」するのではなく、「相手の要求を満たしておくと得をする」とか「相手の気持ちをくすぐっておけば、ものごとを自分にとって有利に運びやすい」といった利己的な動機によって「忖度」するときに、ついやりすぎてしまうといったことになりやすい。ときにそれが必要な手続きを省いたり、特別に基準を緩和したりといった不正行為につながる。
また、相手から「忖度」するようにと無言の圧力をかけられることも少なくない。権力を持つ側は、ただ「よろしく」のひと言だけで「忖度」を実質上強要することができる。ここで要求をのむわけにはいかない、そんなことをしたら不正行為に加担することになるといった葛藤が心の中に渦巻いたとしても、きっぱりと拒否することができずに、やむを得ず不正に手を染めてしまうようなこともある。
それは当然好ましくない「忖度」と言わざるを得ない。だが、「忖度」という心の働きそのものが悪いわけではなく、「忖度」の動機、そしてその結果として行われた行為が問題なわけだ。
●仕事のできる人は「忖度」上手
相手の気持ちを汲み取るという意味での「忖度」は、日常生活で良好な人間関係を築く上で必要不可欠と言ってもよい。それはビジネスでも同じだ。
たとえば、会議室に入ったところでプロジェクターがないのに気づいた上司が、「会議室の準備をしておいてくれと言ったはずだが」と訝るのに対して、「はい、部屋の鍵を借りて、開けておきましたけど……」と、何が問題なのだろうといった感じで答える部下。そこで、「プロジェクターがないようだが?」と上司が言うと、「えっ? プロジェクターですか? それは言われてなかったので……」と慌てる部下。上司は、「そんなことまで、いちいち言わないとわからないのか」と呆れる。
段取りを考えれば何をすべきかわかるはずだから、察して自分から用意してくれるはず、わからなければ何か準備することがあるかと聞いてくるはず、と思っていたのに、その期待が裏切られる。文字通り、言ったことしかやっていない。「忖度」ができないのだ。
だが、部下の側は、「それならそうとハッキリ言ってくれればいいのに。非難がましい言い方だけど、言われてないんだから。なんか感じ悪いなあ」といった感じになる。その気持ちもわかるが、多少は想像力を働かすことも必要だ。実際、いちいち言わないとわからない部下より、上司の意向を「忖度」して動く部下のほうが重宝がられるし、好意的に評価されやすいので「忖度」できるに越したことはない。
「忖度」が求められるのはこのような場面に限らない。上司にも、取引先にも、ときにはっきり言いにくいこともある。今どき察するなんて無理だと言う人も、気まずくならないようにはっきりとは言わない場面もあるということくらいわかるだろう。
実際、言いにくいことをはっきり言われると誰でも傷つくわけだし、たとえば提出した書類に関して露骨に「ダメ出し」されるよりも、やんわりと言ってもらうほうが気持ちよく修正できるだろう。言いにくいことを言わなければならない側になったときも、相手にはっきり伝えて気まずくなるのは嫌だという思いになったりするはずだ。そうした場面では「忖度」を前提としたコミュニケーションが潤滑油の働きをする。
このように考えてみると、「忖度」する力を磨くことがビジネスには必要不可欠だということがわかるはずだ。自分はちょっと「忖度」力が低いかもしれないと思う人は、少しは「忖度」を意識しながら行動してみるのがよいだろう。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)